大晦日
ゴーン、と暗闇に除夜の鐘の音が響く。真夜中の参道はぎっしりの行列で、途中で引き返すことも脇から脱出することも出来なそうだった。
「選択を間違えたか……」
二年参りなら、もっと空いている神社を選べば良かったと思う。
「まあ、今に始まったことではないが……」
思えば、間違いだらけの人生だった。
「帰りにたこ焼き買おうよ!」
どこかで元気な子供の声がする。参道の両脇には露天商がこれまたぎっしり屋台を並べ、醤油やソースの焦げる香ばしい匂いが辺りに満ちている。小さな男の子の声だったような気がして少しだけ首を伸ばして見るが、大人の陰に隠れてか、見ることは出来なかった。
「ハァ……」
真冬の冷気で吐く息が白く凍る。周りは家族連れやカップルばかりで、独りでのこのこやって来たのは自分だけに違いないと思う。楽しそうな話し声や笑い声を聞きながら、黙々と歩みを進める。やがて、ようやく参道の奥に赤い鳥居が見えてきたその時、同じように黙々と隣を歩いている少年も一人らしいことに気付いた。
中学生くらいだろうか。まだ肩幅も体つきも華奢で、顎も尖っている。若さなのか、この寒空なのにコートも着ていない。
「寒くないのか?」
思わず声をかけると、ちょっと驚いたように目を見開いてこちらを見上げる。しまった、変質者だと思われただろうかと内心焦ったが、少年はニコと微笑んだ。
「ありがとう」
何に対しての礼なのか。心配されたと思ったのかもしれない。少し考えたがコートを脱ぐのは自殺行為のような気がしたので、首に巻いていたマフラーを解いて少年の細い首に巻きつけてやる。
「ありがとう」
少年は再び礼を言うと、嬉しそうに鼻先までマフラーの下にもぐり込む。
「あったかい……」
嬉しそうな声音に、心の奥底に眠っていた何かがゆっくりと目覚めるのを感じた。
「家族と来たのか?」
「家族はいないよ」
「一人なのか?」
「独りだよ……おじさんは?」
自分も一人かと問われて、独りだ、と返す。
「同じだね」
「そうだな……」
行列が進み、ようやく大きな鳥居の下をくぐる。少し行くと、その先にやっとライトアップされた本殿が見えて来た。参拝者が鳴らすガラガラという鐘の音と、パンパンという拍手の音がこちらにまで届いて来る。
「みんな、何をお願いしてるのかな」
少年が不思議そうに尋ね、その横顔を少し困りながら見下ろす。
「そうだな……」
ここへ来て、何も願い事を考えていなかったことに気付いた。
「みんなそれぞれだろうな……」
「ふぅん」
話の流れで、君は何をお願いするのかと問うと、少年が真剣な眼差しで本殿の方を見ながら答える。
「家族だよ」
「え?」
聞き間違いかと思って隣を見ると、至極真面目な顔でもう一度言う。
「家族をくださいってお願いするんだ」
「家族……」
それは、昨日までは確かに自分にもあったものであり、これからもあると思っていたものだった。
「そうか……」
参拝者数の制限をしていたのか、鳥居をくぐると意外に早く本殿前に辿り着く。最前列まであと2、3人なので小銭をゴソゴソ探りながら隣の少年にも賽銭を持っているのかと問うと、やはりというか案の定というか、不思議そうな顔でこちらを見上げる。
「おさいせん?」
「お金のことだ。手を出しなさい」
空っぽの手に小銭を載せてやろうとして、触れた手がびっくりするほど冷たいことに気付く。
「手が氷みたいじゃないか」
思わず手の平でギュッと握り締めると、嬉しそうに見上げて破顔した。
「ありがとう」
それが賽銭を貰ったことへの礼なのか手を心配されたことへの礼なのか考えて、きっと後者だろうと思う。賽銭も知らないし言動も幼いので、もしかしたら知的障害を持った子なのだろうかとも思ったが、澄んだ瞳は実に表情豊かで利発そうだ。少年は手の中の小銭を落とさないようにしっかり握り締めると、再び本殿へと視線を向けた。
「そら、次だ」
いよいよ参拝の順番が来て、最前列に並んで一緒に賽銭を投げる。しかし、拍手を打つその時にも、まだ願い事は決まっていなかった。チラと隣を見ると、少年は真剣な顔で目を閉じてジッと手を合わせている。
『家族をくださいってお願いするんだ』
少年の言葉を思い出し、同じように目を閉じて祈る。どうぞこの少年の願い事を叶えてやってください。彼が温かい家族に恵まれますように、と。長い人生、一度くらいは他人の為だけに祈る初詣もいいだろう。
「何をお願いしたの?」
参拝の人波から脱出するために手を引いてやると、おとなしく後ろをついて来た少年に問われる。君と同じだよ、と言って笑うと、少し驚いたように目を見開いてから、ふんわりと嬉しそうに微笑んだ。
「腹は減ってないか」
参道を戻りながら、再び香ばしい匂いがして来たので問うと、少年の目がキラキラと輝く。
「『たこ焼き』ッ?」
少年にも、あの子供の声が聞こえていたのだろう。食べたいかと問うと、食べたいッ、と嬉々として答える。1皿買って手の平に載せてやると、しかし困ったように眉尻を下げた。
「どうした」
「熱い……」
「そりゃあ焼きたてだからな」
たこ焼きは熱々のところをハフハフ言いながら食べるのが旨い食い物である。見本に竹串で1つ刺して口の中に入れてみせると、少年も同じように不器用に竹串で刺して口へと運ぶ。しかし、本当に熱いものは苦手らしく、そのまま困ったように固まってしまう。どうやら怖くて噛めないらしい。
「ははは、バカだな」
道端の下生えの中にでも出しなさいと言ったのだが、食べ物を粗末にするのは嫌らしく、必死の面持ちで何度も首を横に振る。
「じゃあ、冷めるまでそのままでおいで」
仕方ないので通りまで我慢させて販売機でジュースを買い、キャップを外して一口含ませると、ようやくモグモグと口を動かした。
「ありがとう」
「どういたしまして」
通りに出ると露天商もほとんどいないので、参拝客もさっさと帰路に着く。駐車場に向かおうとしたが少年が立ち止まったままなので、少し考えてから手招きした。
「おいで。家まで送ってあげよう」
どこから来たのかと問うと、モグモグ口を動かしながら神社の方を見る。
「え、神社の子なのか?」
驚いて尋ねると、首を横に振った。
「この神社の……」
本殿の床下で寝泊りしていると言われて、思わず苦笑する。
「君は野良犬か」
「ネコだよ」
「はは……」
ジョークだと思って笑おうとして、しかしすぐにハタと気付く。これは困った。もしかしたら家出人を保護してしまったのかもしれない。ゴールデンウィークや夏休み、年末年始などの連休は特に中高生の家出が増えると聞く。
「とにかく一緒に来なさい。こんな寒い日に野宿では凍死してしまうよ」
とりあえず今夜は自分の部屋に泊め、明日になったら家に送って行こうと思って手招きすると、ちょっと驚いたように目を見開いてから嬉しそうに駆け寄って来る。
「おじさんち?」
「ホテルだよ。ひと月ほど前からホテルに泊まっていてね……」
言いながら、不意に肝がヒヤとする。相手が男の子であっても、未成年者をホテルに誘うのはマズいのではなかろうか。しかし、こんな寒空に一人で放っておけないのも事実で、さてどうしたものかと考える。
「ベッドも二つあるから気兼ねしなくていいし、温かい風呂に入って、今夜はゆっくり休みなさい」
とにかくやましい気持ちは無いことを必死にアピールしながら駐車場へと向かい、助手席のドアを開ける。少年は自分の言葉を信じてくれたのか、それとも他人を疑うことを知らないのかはわからないが、特に不審がりもせずに助手席に座った。
「凄い車だね」
「車は好きかい?」
男の子はみんな車好きである。
「乗ったのは初めてだよ」
「それは良かった」
自分には不似合いなこの高級車は、明日ディーラーに引き渡すことになっている。
「すぐに着くからね」
駐車場を出るまでは混んでいたが、道路はそれほどでもなかったので、ほどなく宿泊先のホテルに着く。
「凄いホテルだね」
諸々の手続きが済むまでの一ヶ月ほどをここで缶詰にされて過ごしたが、それも今夜で終わりである。
「おじさん、お金持ちなの?」
「昨日まではね」
離婚の手続きも会社の引継ぎも昨日で済んだ。とりあえず安アパートと僅かな現金だけは死守したが、今日からは無職無一文である。
「わぁ……!」
部屋は十階なので、カーテンを開けると眼下に宝石箱をひっくり返したような街灯りが見える。
「綺麗だねー」
それを並んで見下ろしながら、明日のことは明日考えればいいさと考えた。幸いにも、時間だけはたくさん出来た。
「寒かっただろう。先に風呂に入りなさい」
やり方がわからないと言うのでバスタブに湯を張ってやる。しかし、少ししても水音が聞こえないので様子を見に行くと、なぜか風呂の脇で裸で立ち尽くしていた。
「熱い……」
どうやら風呂の湯が熱かったらしい。
「なんだ、猫舌だけじゃなくて風呂も苦手なのか」
笑いながら水を足してやると、ようやくそろそろと足先から湯に入る。その時、その華奢な背中に斜めに大きな傷跡があるのを見つけて思わずギョッとした。もう出血はしていないようだが、まだ生々しさの残る裂傷である。
「この傷は?」
咄嗟に『虐待』という文字が頭に浮かぶ。しかし、少年の反応は薄かった。
「傷って?」
「背中だよ……痛くないのかい?」
驚いて尋ねると、全然、という答えが返って来る。虐待を受けていることを隠したいのかとも考えたが、少年の表情は至って普通で、その内側の感情を伺うことは出来ない。それに、本当に痛くはなさそうである。
「湯が冷めただろう。少し足してあげよう」
「熱くしないでね!」
熱い湯を足そうとすると、少年が慌てて蛇口から遠ざかる。その大袈裟な慌て振りに、思わず声を出して笑った。言いたくなければ追求はすまいという思いと、もし虐待であるなら見過ごしていいのだろうかという思いが交錯する。
「よく温まっておいで」
浴室に一人残して部屋に戻ると、すぐに少年が出て来る。バスタオルは置いて来たのにびしょ濡れだったので、慌てて自分用のバスタオルでくるんだ。
「中にバスタオルと部屋着があっただろう?」
仕方ないので、同じく自分用の部屋着を着せ掛ける。
「先に寝ていていいからね」
湯冷めしては困るので少年をベッドに押し込め、入れ違いにバスルームに入って湯を抜いていると、その水面にキラッと何かが光ったのに気付いた。
「……?」
その『キラキラ』は一つではなくて、水面にいくつも浮いている。排水穴に吸い込まれる寸前に指先で掬ってみると、それは白い繊維状のものだった。
『ネコだよ』
少年の言葉を思い出し、すぐに小さく笑って首を横に振る。
「何をバカなことを……」
新しく湯を溜めた風呂で温まってから部屋に戻り、空いている方のベッドにもぐり込む。手を伸ばして卓上の電気を消そうとすると、寝ているとばかり思っていた少年がジッとこちらを見ているのに気付いた。
「一緒に寝てもいい?」
「一人寝が寂しい年でもあるまい?」
茶化すように言いながらも掛け布団をめくってやると、パッと嬉しそうに顔を綻ばせて移って来る。その細っこい体が素っ裸なのを見て慌てて止めようとしたが、あっという間に抱きつかれてしまった。
「裸じゃ寒いだろう」
腕の所在に困って宙に浮かせたまま言うと、今にもゴロゴロと喉を鳴らしそうな顔で胸元にすり寄って来る。
「あったかい……」
そこに性的な気配はなくて、こっそり安堵の溜息を吐く。いつも裸で寝ているのかと問うと、ネコだからね、と答えた。
「随分スベスベの猫だな」
そろそろと手を下ろして肩甲骨の辺りを撫でると、くすぐったいのか身を捩ってクフフと笑う。その言葉通り、少年の体はどこからどこまでスベスベで、股間にもまだ生えていなかった。
「そういえば、まだ名前を聞いていなかったな」
今の今まで気付きもしなかったことを苦笑しながら問うと、反対に、おじさんは、と問われる。
「おじさんは……」
名乗ろうとして、そういえば旧姓に戻ったのを思い出す。
「『ヒラデカツユキ』というんだよ」
十年振りに名乗る本名は、どこか苦くてくすぐったい。
「ヒラデカツユキ……」
少年は口の中でその名前を繰り返すと、何かを期待するような目で見上げて来た。
「僕も名前が欲しい。おじさんが付けてくれる?」
「おじさんが?」
やはり身元が割れそうなことは言いたくないのだろうかと思いながら、とりあえず呼び名が無いのも不便なので考える。
「ユウ……なんてどうかな。『優しい』という字を書いて、ユウ……」
「ユウ……」
少年はその名前を口中で繰り返すと、嬉しそうににっこりと微笑んだ。
「いい名前だね。嬉しい。ありがとう」
実は『優』という名前は、優しい子になるようにと自分の息子のために考えたのだが、大企業の跡取りには相応しくないと言われて却下されてしまったものだ。当座の名前だと思って付けただけなので、そんなに喜ばれてしまうと申し訳ない気持ちになる。少年は再び胸元にすり寄って来ると、満足そうに溜息をついた。
「あったかいね……」
「そうだな……」
「僕、おじさんに会えて良かったよ……」
家族は出来なかったけどね、という言葉に、そのことなんだけどな、と返す。
「もし家に居づらいなら……」
少し躊躇してから、思い切って言葉を継ぐ。
「君さえ良ければ、おじさんの家に来ないか」
「え?」
驚いたのか、微睡みかけていた少年の眼がパチリと開く。
「なに、そんなに大層な話じゃないんだ。当座の避難所だと思えばいい。おじさんの家は安アパートだが野宿よりはマシだし、ご飯も食べられるし布団もある。君が望むなら高校くらいは出してあげられると思うし、そうすればちゃんとしたところに就職も出来るだろう。そうしたら独り立ちして巣立っていけばいい。……どうした?」
少年の見開かれた目に大粒の涙が盛り上がったのを見て慌てる。
「家族になってくれるの?」
すがり付くような目で問われて、思わず大きく頷いた。
「実は昨日離婚をしてね、本当に何も無くなっちゃったんだけど、それでも良ければ……」
「おじさん、ありがとう……!」
抱き付いて来た頭を優しく撫でると、安堵したのか、不意にその体から力が抜ける。そして横向きのまま小さく体を丸めると、小声で囁いた。
「朝になったら……」
その声に耳を澄ませてギョッとする。
「僕を神社の隅に埋めてくれる……?」
その脳裏に、なぜか不意に先ほどの『キラキラ』が浮かんだ。
「何をバカなことを……」
思わず笑い飛ばそうとして、少年の息遣いが寝息に変わったことに気付く。
「……眠ったのかい?」
少年が起きないのを確認し、急いで着替えてホテルを出る。馬鹿げたことだけれど、とても信じられないことだけれど、どうしても確認せずにはいられなかった。何もなければ急いで戻ってくればいいのだ。
「待ってておくれ……」
夜道を車を走らせながら、思わず祈るような気持ちで呟く。『どちら』のユウに言っているのかは自分でもわからなかった。
「ユウ! ユウ! 答えてくれ、ユウ!」
車に備え付けの非常用の懐中電灯で神社の本殿の床下を照らしながら名前を呼んでいると、すぐに社務所から人が気付いて出て来る。
「この下に子猫がいる筈なんです! 死に掛けてて……早く見つけてあげないと……!」
手短に説明すると、その人はすぐにわかって、床下に入れる場所まで案内してくれた。
「あなたの子猫だったんですか。数日前に迷い込んで来たんですけど、背中に怪我をしていて、本殿の床下にもぐり込んだきり出て来なくて」
エサを置いても食べた気配が無いので心配していたのだと言う。
「ありがとうございます!」
礼を言って床下にもぐり、四つん這いになって奥へと進む。ほどなくして懐中電灯の光の中に石碑のようなものが見えた。一瞬墓石かと思ってドキッとしたが、本殿を建立した時の記念碑とわかる。その脇に小さな陰があるのを見て懐中電灯を向けると、それは白い子猫だった。体を丸めたままピクリとも動かないのを見て、慌てて這い寄る。
「ユウ!」
名前を呼ぶと、か細い声で、ナー、と答える。
「待ってろよ……今病院に連れて行ってやるからな……!」
震える手で抱き上げ、シャツの胸元に入れて外へと急ぐ。その後のことは、実はあまりよく憶えていない。
「1パックください」
「まいど!」
無一文になった男を神が哀れんでくれたのか、あれからわたしは幸いにもすぐに職を得て、大学の事務室で働き始めた。今は非常勤だが、三月に定年退職する者がいるらしく、運が良ければそこに補充して貰えるらしい。
「ただいま、ユウ」
離婚して何もかもを失ったと思ったが、今は新しい家族と心穏やかに暮らしている。玄関で名を呼ぶと、大慌てで走って来る音がする。
え?
『どちら』のユウと一緒に暮らしているのかって?
それは、君の想像にお任せしよう。
どちらであっても、わたしにとっては大切で可愛い家族だ。
「ほら、たこ焼きを買って来たよ」
了
童話というよりもファンタジーになってしまいました。精進します…。