世界 その三
波打ち際に潮がよせ、白い泡が網目模様を描いている。
死湾の岸辺に、俺は半裸でつったっていた。顔につけた仮面が一つ、腰にさげた仮面が一つ。腰には皮袋をさげている。
青空の満月がかたむく今も潮は満ち続け、背後の大地は深い群青色の海へ没している。押しよせる水の量が増えているらしく、遠くでは巨大な渦がいくつも生まれている。少しでも遅れていれば、仮面の力をもってしても溺死していたかもしれない。
もちろん今いる水際は水深が浅く、水の流れも弱く、さっきまでより歩きやすい。問題は、幌布で作った靴の中に水が入ってくるのが、少し気持ち悪い程度だ。
俺は、ダオメより先に水際まで来ていた。ダオメは疲れをうったえず、平気そうにふるまっていたが、見るからに体力が落ちていて、戦いの足手まといになりかねなかった。仮面をつければダオメを水際まで運ぶこともできたが、その力は目前の敵と戦うためにとっておきたかった。
俺は波に足首を洗われながら、陸地に倒れている巨獣の群れと、その上に立っている男を見上げる。男も牛の仮面の奥から、俺を見つめ返す。
仮面は牛の頭蓋骨をかたどっているらしく、眼窩が黒く窪み、歯がむきだしの造形になっている。顔の下半分は隠れておらず、口もとが見えた。とがった顎が白い。
男は、黒い皮の手袋と長靴の上から、すその長い白いローブを着ている。ローブは丈夫な布で織られているようで、輪郭が硬い。長旅や戦闘にも耐えられそうだ。しかしローブの縁には金色の刺繍がほどこされており、いささか戦場に着ていくには派手すぎる。
最強のソウセイド……こいつが、そうなのか。
ダオメと別れる前に、敵についてたずねた。
「あんたが戦った経験から、何かいえることはないか。最強という呼び名じゃ、何もわからんのと同じだ」
ダオメが答えるまで、ためらうような間が一瞬あった。
「彼と話したことはあるが、能力について断言できることはない。私たちは平地で遠巻きにして包囲したが、近づいて攻撃をしかけようとした者から、次々に倒されていった。どのような手段で倒されたのかもわからない。ただ、どこかから拍手をするような乾いた音が一度するだけで、近くにいた者は眠りに落ちた。その眠りから目ざめた者もあれば、永遠に眠り続けた者もいる」
「何か変わった武器でも持っていたのか」
「私が見た時は、短い剣を一本だけ持っていただけだ。それなりに技量のある刀工が作った剣ではあったろうが、特別な名剣というほどでもなかった。それに伝聞によれば、あの者は素手でも複数の敵を同じように倒したと聞く」
「あの牡牛の仮面はつけていたんだろ」
「それは、むろんだ。ただ、近づいた戦士から倒されたわけだが、遠くにいた戦士は無事だった。剣より槍、槍より弓矢での攻撃が、反撃はされにくかった」
「飛び道具で攻撃すればいいわけか」
しかし、あいにく俺たちは弓矢はもちろん、投擲に適した石すら持ちあわせていない。
「私もそう考え、伏兵の弓隊も置いた。しかし一斉射をしたとたん、太鼓を打ち鳴らすような音とともに、遠くにいた弓隊も次々に倒れていった……私が捕虜になったのは、その戦いでのことだった」
歩みが遅いダオメを置いて先を進みつつ、俺は考えた。これは逆に考えるべきなのかもしれない。攻撃しやすいから近くの者から倒したのではなく、近づかれると困るから優先して倒した。
つまり、相手の懐へ飛び込むようにして戦うべき、という結論になる。しかし剣で攻撃しても相手にならなかったようだから、より接近しなければ勝てないだろう。隙を見て、体を密着させるくらいに。
しかし、どうすればいいのだろう。相手はシャンロウの体から下りてくる気配がない。仮面の力を使っても、一回の跳躍では届きそうにない。
牛の仮面を見つめながら、俺は水から上がった。斜面には小石が多く転がっているが、水の中よりは歩きやすいし、体力を落とさずにすむ。そして一定の距離をたもちながら、シャンロウの重なった山をまわりこむように、丘の側へ移動していく。少しでも高さの不利を縮めるために。
まわりこむ時間をかせごうと、話しかけてみた。
「あんたが、最強とかいうソウセイドか」
返ってきた言葉はメルキオル語でも、ホシミが使っていた言葉でもなかった。きっとこれはカスパルの言葉だろう。
「君が新しいソウセイドかい? 実に簡素な仮面だね、興味深いな」
仮面の奥から発せられたカスパル語は、柔らかい若い男の声だった。
「この私はカスパルのソウセイド、ジュピタだ。そちらのダオメ王陛下を迎えにきたのだよ」
ジュピタ……名前か?
「陛下を無事に送り届けてくれたことに感謝しよう。もちろん素直に引き渡してもらえるね?」
ジュピタがいった。軽い口調でありつつ、自分の要求がしりぞけられるとは思ってもいない、そんな確信がにじむ声だった。
「俺もソウセイドらしいが……どこにも従属などしていない、名無しだ。ホシミの爺さんは何も教えてはくれなかった」
「……名が無いだと」
困惑したのか口ごもったジュピタに対し、俺は親指で背後を指した。
「たしかに、あのダオメの連れだよ。しかし、たまたま助けただけであっても、今さら引き渡せといわれて、はいわかりましたとうなずくとでも思うのか?」
ジュピタが仮面の奥で口を引き結んだ。
「あんたの名前はジュピタだっけ。危険な死湾へ置きざりにしておいて、たいそうな口ぶりだ。いわれなくても、無事に送り届けてやるさ。あいつの故郷、メルキオルまでな」
そういいながら、ジュピタの足もとへ目をやる。シャンロウの毛皮が黒く焦げているようだ。焦げの一つ一つは掌ほどの大きさだが、十以上はついていて、遠目だと大きく見えたのだろう。やはりジュピタの能力なのか。シャンロウは全て死んでいるのかと思ったが、ぴくぴくと何頭かが痙攣している。遠目ではわからなかったが、気絶しているだけのシャンロウも多いようだ。
ふいにジュピタがかぶりをふった。曲がった角がフードにひっかかりそうで、つい俺は笑いそうになった。
「嘆かわしいな。王に対して対等な口をきこうとするとは、幼すぎる」
「……は?」
「従属せずとも、ダオメの一族を代表する存在として、尊敬の態度を示せ。あのホシミが、その程度のことすら君の魂へ刻まなかったとは、信じがたい」
「……あんたのいっている意味がわからん」
これは話をひきのばす意図ではなく、素直な質問だった。
「王様は尊重しなければならないというなら、なぜ死湾のまんなかで鎖につないだ。俺が出会わなければ確実に死んでいた」
ジュピタが足もとへ目をやった。
「この狼に襲われた時、バルタザルの隊長が、奴隷から生贄を選んだと聞いている。その時、陛下が自ら犠牲になるため名乗り出たという。むろん私たちカスパルの者が率いていれば、他の奴隷から選んだろう」
「他の奴隷ならいいってのか? それにダオメへ枷をつけ、鎖でつないでいたのも、バルタザルが勝手にやったことだというのか。あいつは全身を鞭打たれていたんだぞ」
ダオメの傷だらけの姿を思えば、本当に名乗り出たのか疑わしいものだ。
「虜囚の立場であれば鎖でつなぐのは当然のことだ。きちんと栄養のある食事も清潔な衣服も与えていたよ。文明の遅れたメルキオルの粗末な生活より、よほど幸福な暮らしだったはずだ。もちろん鞭打ちは刑罰だ。たとえ王であれ、罪からまぬがれることはできない」
「何の罪に対する罰というんだ?」
「カスパルに反逆した罪だ」
「自分の国を護ることが、何の罪だというのか」
「王として民を守るための正しい判断をくだせなかったことが罪だ。勝算のない戦いを始めること、それ自体が悪だ」
ならば俺は悪でいい、と思った。
「しかしダオメ王は最後に正しい判断をした。だから私たちは丁重に迎え、王として処遇したのだよ。バルタザルへの使者に加えたのも、メルキオルの千の王という立場のためだ」
「正しい判断?」
「なんだ、陛下から何も聞いていないのか」
ジュピタが肩をふるわせた。笑ったのかもしれない。
「陛下は、戦いで私に敗北した後、降伏の意思を示された。その証として、メルキオル本隊の駐留していた地を教えていただいた」
ふいにジュピタが背後へふりむき、体をかばうように左腕を上げた。その腕に、鉄の鎖が巻きつく。
波打ち際には、俺が会話をひきのばしている隙に、こっそり近づいていたダオメがいた。白いマントの内から黒く太い右手がのび、鎖の一方を握りしめている。
うまくいけば前後から挟み撃ちにできたかもしれないが、鎖から体をかばった動きからすると、気づかれていたらしい。むしろ俺は、気づかれたことを察して攻撃をしかけたダオメの判断に感心した。
「これは陛下。お待ちしておりました」
苦しげな口調ではなかった。鎖を当てただけでも良いと思いたかったが、最強と称される男にはさほどの打撃ではなかったらしい。
ダオメは水で足首を濡らしながらも鎖をしっかり握りしめ、ジュピタを見上げつつ、何もいおうとしない。
「……それでどうした? 本隊の場所がわかったんだろ」
俺はダオメに問いただすより、まずジュピタに聞いた。ジュピタは俺に背を向けたまま答える。
「むろん、メルキオルの兵士も、軍の雑用を任すために連れていた女たちも、全て生きたまま捕らえさせてもらった」
ジュピタがフードをぬぎ、仮面を外した。金色の長い髪がこぼれ落ちる。
「陛下、お迎えにあがりました」
ダオメは流暢なカスパル語で答えた。
「話がしたければ、仮面をぬぐよりも先に、その哀れな獣から下りよ。そしてメルキオル語でしゃべることだ。君は最強と呼ばれる器に中身がともなっていない」
「失礼いたしました、陛下」
シャンロウから、さっとジュピタが飛び下りる。白いローブがはためいて、下に着ている服が見えた。長靴と同じく、黒い革製の長ズボン。あちこちを金属の鋲でとめている。仮面は右手に持ったまま。左手は鎖に封じられている。
その一瞬の隙を見て、俺はジュピタに向かって走った。たとえ卑怯と思われてもかまいはしない。二人がかりで攻撃することは最初から決めていたのだ。巨獣の餌として傷つけられていたダオメの姿を思い返せば、ためらう気持ちなど起きはしない。俺たちは弱い。生き抜くためには、狡猾でなければならない。
仮面の力で跳ぶように駆け、白いローブの背中を視界の中心にとらえ、腰にさげた皮袋から武器を出す。シャンロウの牙で作ったナイフだ。
空中でジュピタがこちらを見た。薄い茶色の瞳に、とおった鼻筋、とがった顎の、たぶん美形といっていい男だった。
地面に落ちる直前にジュピタが仮面をつける。だが、その動作をする隙で、充分に俺はナイフを突き出せる。
ジュピタが自らをかばった腕にナイフの切っ先が食いこむ……と思った瞬間、俺の腕ははじかれ、あらぬ方向へ攻撃がそらされた。
勢いがついた俺は止まることができない。ジュピタの手が俺に向かってのびるが、避けることも止めることもできず、ただ見ているしかない。そして首もとに、ジュピタの指先が食い込んだ。
ばちん、と頭の中で紐が切れるような音。そして、俺の視界は真っ白に染まった。




