死湾 その三
黙々と進むと、やがて小さな湖にたどりついた。
かなり浅いらしく、遠くまで底が見える。巨大な水たまりか、せいぜい池と呼ぶべきかもしれない。指をつけてなめてみると、やはり他の水たまりと同じく、濃い塩水だった。死湾というだけあって、ここに飲める水は存在しないのか。
「しかし、やはりあれは馬車だな」
俺が湖の中央にある人工物を指さすと、ダオメがうなずいた。そこも底が浅いのだろう、地面に置いた鏡の上に馬車を置いたような光景だ。
形状は、ダオメが繋がれていた馬車と似ている。シャンロウの群れが通ったわりに、ほとんど破壊されていない。幌布こそ無くなっているが、長い竹を曲げて半筒形に組んだ骨組みはしっかり残っている。その屋根を支える車体も、巨大な車輪も、形状をたもっている。
「ただし正確には違う。私たちを運んでいたのは、バルタザルの牛車だ」
車の前方を見ると、ダオメがいったとおりだった。牛の死体が水たまりに倒れて、体を濡らしている。シャンロウに食われて骨がむきだしになっており、あまり食べられる部分は残っていなさそうだ。
ダオメを連れていた者達が持ち去ったのか、牛車の荷台も空っぽだ。ダオメの時と違って、奴隷を残している様子もない。
「なぜ牛車を放棄したんだろうな?」
やっぱり牛をシャンロウの餌にするためか、といいかけて俺は口を閉じた。ダオメにとって思い出したくないことだろうから。しかし仮に牛を餌に残したのだとすると、ダオメを奴隷にしていた者たちは、牛とダオメを同列にあつかっていたことになる。見たこともないカスパルの人間に、俺は少しばかり嫌悪をおぼえた。
俺の問いにダオメはゆっくり答えた。
「水たまりを越えようとして、無理をしたのだろう。それで車輪か岩の割れ目にはさまって動けなくなったか、牛が足を痛めたのか。私たちを運んでいた牛車は三十三台あったから、たった一台だけ動けなくなったとすれば、むしろ……」
しゃべる途中で口を閉じ、ダオメは湖のほとりから身を乗り出すような姿勢をとった。
「どうした?」
俺もダオメの視線を追った。
車をひいていた牛の死体で、何かがうごめいた。何かが向こう側に隠れている。見えるのは、黒く細長い草が風にそよいでいるような……髪の毛?
「そこに、誰かいるのか?!」
俺は叫び、水たまりに足をふみいれた。足首までが冷たい水に濡れる。しかし、太股から足首までは何も着けていないため、服が濡れてまとわりつく面倒がないのは良かった。それに浅いので、歩くところを選べば、足首までしか濡れずにすむ。
水たまりを進もうとすると、背後からダオメのうなる声が小さく聞こえた。しかしはっきりと止められたわけでもないので、俺は迷わず牛車へ向かっていった。
牛の死体の上に、黒い毛の塊が、ひょっこり現れた。それがくるりとふりむく。
「女……子供?」
生白い色をした、幼い少女の顔だ。
まぶたは閉じかけている。まつ毛が長い。小ぶりな鼻は、鼻筋がとおっている。唇は小さく、ほのかに赤く染まっている。つるんと丸い、にきび一つないほっぺた。幼いが、異様なほど整っていて、かわいいというより美しい顔立ちだ。
「おい、大丈夫か。俺たちは、敵じゃない」
俺は声をかけながら、牛の死体へ近よった。鉄棒を握っていることを途中で気づいて、背後に投げ捨てる。少女は顔だけ出したまま、表情を全く変えず、何も答えようとしない。
少女が体を隠している牛の死体は、ほとんど白骨化している。しかし上から小さな虫がむらがっていて、まるで白骨の上に毛が生えたかのような姿だ。
さらに俺が近づいていくと、視界の隅に、赤い毛がうごめいているのが見えた。視線を向けると、目の前にいる少女のとは違う、別の少女が死体から顔を出した。これも驚くくらいに整った、美しい顔立ちをしていた。どちらも日焼けはほとんどしておらず、生白い肌の色。ダオメの肌の色とは違う。
すぼめている少女の口から、吐息のような音がもれた。小さな悲鳴のような、拒絶のような、何ともいえない嫌な音だった。二人の少女は、それ以上の言葉を発さず、目を開かず、まるで作り物の仮面のような顔を俺に向けている。
「……なあ、ひょっとして裸なのか。それで隠れているのか?」
牛の死体のすぐ近くまで近づき、俺は少女の頭へ手をのばした。倒れているのは大きな牛だったが、せいぜい俺の腰くらまでの高さしかない。ほとんど少女を見下ろすような状況だ。しかし少女は死体に密着しているのか、この時になっても首から下が見えなかった。
少し体をかがめるようにして、少女の黒い頭に手がふれようとした時……風もないのに、ふわりと少女の髪が持ち上がった。頭髪はいくつかの房に分かれ、それぞれが別の生物のようにうごめく。
頭髪に隠されていた少女の頭頂部には、小さな口が開いていた。歯のかわりに、貝殻のような質感の牙がある。その口から、吐息のような音がした。
少女の前髪が、まるで二匹の蛇のように、俺の手へ噛みつこうとする。俺は体がかたまったまま動けなかった。
背後から、俺の耳をかすめるようにして、新しい蛇が一匹、二匹の蛇へ襲いかかった。
ぱきり、と貝殻を砕くような予想外の音に混じって、じゃらりと金属と金属が当たる音が鳴った。蛇に見えたのは鉄の鎖。それが少女の頭髪にからみつき、中に隠された脚を砕いたのだ。
ふりかえると、ダオメが白いマントから黒く太い腕をのばしていた。その腕で握っている鎖が、少女の頭へまっすぐに伸びている。
「ダオメ……これは」
ダオメは無言で近よってきて、濡れた鉄棒を俺に向けて差し出してきた。俺は受け取るしかなかった。
牛の死体を回り込むダオメを追うと、少女の生首が牛の死体から落ちて、ぷかぷか水へ浮かんでいた。赤毛の生首は牛にはりついたまま、仲間には興味がないかのように、あらぬ方角へ顔を向けている。よく見ると、牛の死体と岩の隙間へ隠れるように、もう一つ金髪の生首が波に濡れていた。
そして少女の胴体などどこにもない。
「何なんだ、これは……」
牛の死体の上で生首が赤い頭髪をうごめかせ、水たまりへ飛び込んだ。
ダオメはそちらへ目を向けることなく、足もとにある黒髪の生首を拾いあげ、無表情な少女の顔をつかんだ。
「おいダオメ、何をしてる」
黒い指が整った顔へ食い込んだかと思うと、少女の表情がぐにゃりとゆがみ、頭髪の根本から透明な体液が噴き出す。その体液を俺はよけようとして、思わずのけぞった。
ダオメがふりかえり、それぞれの手に持ったものを見せる。それは、少女の顔そっくりの半透明の殻と、黒い毛の中心にミソが詰まった胴体だった。
「これは、ナマクビモドキだ」
さしだされた半透明の殻を俺は受け取った。近くで見れば、形こそ少女の顔に似ているが、質感が人間とは全く違う。まつ毛に見えたのは、ただの黒い模様にすぎない。
「これは……ひょっとして、蟹の背中なのか?」
「そう、人間に擬態したケガニの一種だ。毒はないから食用にすることもできる。牛の死体に集まってくる虫を食べるようとして、岩の割れ目から出てきたのだろう」
ダオメが持っている頭髪の塊も、よく見れば房の一つ一つが長い毛におおわれた脚だ。俺に襲いかかってきた前髪も、ただの蟹のハサミだった。
「……この蟹は、たぶん人間に食べられないように、こういう姿をしているんだよな?」
「おそらくそうだろう。生物が他の生物に姿を似せる理由は、姿を隠すためか、逆に脅かすためだ」
「なら、こういう美少女も、この世界のどこかにいるってことだな。安心したよ」
俺の記憶は欠落しているだけでなく、この世界との齟齬がところどころある。この世界は男しか存在しないのかもしれないと、少し恐れていたところだ。
手に持った少女の顔を見つめていると、ふいに気味が悪くなって、俺は遠くへ放り投げた。ぴちゃりと水面に落ちた顔は、目を閉じた表情はもちろん変わらず、天上を向いてただよう。まるで水死体が水面に顔だけ出しているかのような姿だ。
その水面をただよう少女に、同じように美しい少女の顔が二つ、よりそっていった。二匹のナマクビモドキは、仲間の殻を引っぱって、水の中へ消えていった。
俺たちは、黒い毛に包まれたナマクビモドキの脚を折り、半透明の蟹肉を引っぱり出し、むさぼり食った。食いながら、わけもなく涙が流れた。死肉にたかる虫を食らい、人のふりまでして生きのびようとする小さな生物と、その生物で命をつなごうとしている俺たちが、いじましかった。
柔らかく水分の多い蟹肉は、腹を満たすだけでなく、喉の渇きもいやした。
蟹肉を食い散らかした俺は、深い溜息をついた。同じように蟹を食べ終え、ダオメがいった。
「充分に食べたか。ならば行こう、時間がない」
東を向いているダオメの視線を追ってふりかえった俺は、遠く水平線まで全て水で満たされている光景を見た。これまで歩いてきた大地が完全に沈んでしまっている。
背後だけではない。あたりを見わたすと、大地のほとんどが水におおわれている。
俺はダオメがいったことを思い出し、空を見上げた。太陽のような大きな満月が二つ、空に輝いている。俺の肉眼では見えない月が、さらに一つあるはずだ。
「ダオメは、あの月が波を呼ぶとかいっていたな」
俺の持っている数少ない記憶でも、その知識はあった。満潮だ。
ダオメが死湾と呼んでいたことから気づくべきだった。ここはやはり、本来は海の底なのだ。しかし複数の月がひとかたまりで空にのぼる時期は、大きく潮が満ち引きする。もう少し月がかたむいたくらいが、最も大きく潮が満ちる時間帯だろう。
ずっと遠くの南東から、波の音が聞こえる気がした。今は水かさが増しているだけだが、やがて潮の流れが速まれば、歩けないどころか泳ぐことすら難しくなるかもしれない。
ここが死湾と呼ばれるのは、岩ばかりで人間が住めないからだけではない。陸でも海でも動けて、潮の満ち引きに流されることもなく、餌が少なくても耐えられる動物しか、生きていけないのだ。
「このままじゃ、海の底だ」
「もう少し西へ歩けば、潮が寄せてきても濡れない場所まで行ける。私たちなら、たどりつける」
そういうと、ダオメはマントを脱いで半分に折り、腰までとどくくらいの長さにして着けなおした。水に濡れると重くなるのをふせぐためだろう。
「そうだな。じゃあ急ぐか」
美しい少女と思ったのは、まったくの偽物だった。どうやら今の俺が仮にも仲間と呼べる相手はダオメだけらしい。
ふくらはぎまで水に濡らしながら、俺たちは西へ向かって歩きだした。




