佐殿被生捕事(「友の子、友の妻」)
さて佐殿は生け捕られてのち、平宗清がもとに預けらる。待つ間の徒然に、故頭殿が菩提を弔はむとて卒塔婆を作り給ひければ、これを見て池禅尼、誠に哀れと思し召し、「いざ救い奉らむ」とて、食膳を退け、湯も水も召しまさねば、池殿大いに慌てふためきて、清盛に「佐殿失せ給はば、すなはち母も失せ給はむ」と返す返す申されけり。然れども清盛、これを聞けばからからとうち笑ひ、「池の尼御前は豊かに日々をすぐし給ふ。三日と保つまじ」とのたまひければ、「げにさもあらむ」とて、兄弟ばらも大いに笑ひけるとかや。平相国入道の非情の御有様、誠にあさましげなるものにて、聞く人眉をひそめ、顔を背きけり。
曰く、この池の尼御前は、清盛には継母なり。この母の御腹に一子おはしませり。名を家盛とぞのたまひける。家盛、早くに失せ給ひけるがゆえに、池の尼御前、継子清盛を誠に妬ましくいみじく思し給ひて、清盛は父が後妻がゆえに仰せに背くをえず、御仲よろしからずと云々。
また曰く、この池禅尼、継子なれども清盛をいつきかしずき給ひて、この度の合戦の折にても、武運長久を願ひ給ふと云々。やがて兵衛佐殿生け捕られて、清盛が沙汰し給ふを見て、「朋友の子が首斬るを、武門の棟梁といへ、哀れに思はぬことぞあるべきか。いみじく胸塞がりておはしますを、一筋も見せ給はざるは、あさましくも哀れに候」とばかり覚えて、御自ら清盛に佐殿救い奉るべき由を申し給ふと云々。
さても清盛、御前に佐殿を召して、郎党盛国をして源氏重代の太刀髭切を授け給ふ。これは先頃、賀茂の河原の戦にて、故左馬頭義朝より授かり給ひしものなり。然れども佐殿、にわかに顔色変じて、腹立ちのたまひて曰く「疾く斬るべし」と。これは故頭殿の髭切を譲り給ふを聞き、「御父の恥辱、重代の太刀を平家に譲り渡さむがことのあるべきか」と覚え給ふがゆえなり。佐殿、声いららかにのたまふやうは「父義朝は武門の鑑。平家はそら武者、僻事ぞ」と。これを聞きて忽ち清盛、いみじく腹を立て給ひ、ばらばらと床踏みならして佐殿がもとへ立ち寄れば、佐殿を打擲し給ひけり。これを見て郎党ばら、慌てふためきて押しとどめむと思しが、清盛の佐殿を「義朝」と呼ばはったるを聞き、「これはいかなることぞ、あやし」と覚えて控えけり。
清盛曰く「汝が最期天晴れとぞ聞く。太刀をっ取り弓矢取り、鐙踏ん張り駆けをして、武門の鑑と讃えられ、ついぞ自害せむが有様に、今は悦びてあるらむや。然れども、我は如何せむ。これより我は、汝が去ぬるこの現世にありて候ぞ。武門の栄華極めむと、これより未だ罪業深き現世にあるべけむ。これ如何にかあさましからむ、如何にや虚しからむ。然れども、我必ずや一門の栄華を極めむ、汝が謀り事ゆえに滅びて見る事あたはざる世の有様を、我こそこの目で見てみむ」と、大音声にてのたまひければ、両の御目より御涙のはらはらとこぼれて、佐殿も唯清盛が有様を見るばかりなり。清盛、やうやう髭切の太刀をッ取りければ、佐殿も「もはやこれまで」とて、顔を伏せ給ひけるが、清盛、髭切を地に突き立てければ「汝をあえて許すまじ」とぞ申されける。
故頭殿は清盛には知音の朋友なり。庭に座したる佐殿、生年十四、未だいとけなくおはしつるを見るにつけ、差したりつる朋友の御面影、その心を動かし、ついぞ清盛が御目には、故頭殿の佐殿にあらわれたるが如くに覚えて、かくのたまひけると人の申しけるにぞ。
清盛には沙汰の勅定ありしかば、斬首を申し付くべきにはあれど、朋友とその子等を悉く失はするは、胸塞がる有様にやあらむ。心を鬼と定め、情を岩木と定めども、平相国入道、朋友の子を斬ること適はざりしは、仏の慈悲に違はずして、誠にめでたき御心ばへやらむ。御涙を流されけるも理と、哀れに思はぬ者ぞなき。