忠正被斬事(「叔父を斬る」)
兵乱鎮まりて後、播磨守、右馬助忠正を斬るべき旨固く仰せ付けられ給ひければ、「げにいみじくもあさましく、なべて道理に背きたる事かな」とひたすらに思ひ給ひけれど、せむ方なき事にしてあれば、泣く泣く六条河原に之を召し、敷布の上に据え、御自ら太刀を放ちて立ち給ふ。
やうやう刻も過ぎゆけば、はや斬るべきにてこそあれど、様々な事思し給ひて、胸塞がれ、その御首を見るにつけ、太刀の当てどころも覚えず、たださめざめと御涙を流し給ふ。
右馬助之を見て曰く「なんぞ平家の棟梁がかくも不覚をとらん。定めてその器にこそあらざりしか」と、からからと打ち笑ひ、「我これより六道の巷を下りて今再び兄上に会わんとすらむ。さてはいかが申すべき。清盛が不覚人は棟梁の器にて非ず、一門に仇なす赤子に変わらざらんと、あながちに申すべきか」と。播磨守之を聞き給ひて、定めて腹立ち給へるか、いみじくも震える御手にて、右馬助が首斬って捨てたりけり。即ち刃を返して続けて御子供ばらも同じく斬り捨て給ふこそあさましけれ。
年頃この右馬助、故忠盛公の故白河院の胤を継ぎ、赤子をいつきはぐくみ給ふを、うとましく、あさましと思い侍りて、この子長じて後も御仲甚だ芳しからずと云々。然れば播磨守の叔父を斬り給ふこそげに理とは思われね。
或いは曰く、この右馬助の情け甚だ深く、一門の末を思し給ひぬる事甚だ厚しと云々。然ればにや、播磨守を慈しみ給ふ事限りなく、御手に掛けさせ給ふを哀れに思して、敢えていみじき事ども言い放ち、播磨守が御心安からしめんと思ひ給ふとかや。
いずれもいずれもあさましく、武門の理とは申せども、御涙を流さぬ者ぞなく、偏に哀切の限りとは人々の申しけるとかや。
さて、武蔵守、御父君為義公をうち連れて船岡山に参りしが、霜の降りたる御髪の、親の老いゆく様見れば、なんぞその細首に刃を当てるべきとのみ思われて、ついぞ地に伏し、天を仰ぎ、御声あげて嘆き給ふ。為義公これを見て「疾く斬れ、斬れ」と再三に申し給ひしが、武蔵守の肝魂も消え果てて、嘆き給ひぬる御有様に、「いみじくもかくなる末に父子の恩愛をこそ感じしは、御仏が慈悲やらん」と覚え、ただ御手を合わせて祈り給ふ。
とうとう鎌田が太刀にて首斬られて失せ給ひければ、武蔵守、その御遺骸に縋り付き、肩に触れ、手に触れ、「父上、父上」と申し給ひけるが、御返事のあるべうもなく、ただただ涙に暮れてぞおわしける。
これを見て武蔵守が弟ばら、にわかに顔色変じて腹立ちて申すには、「汝が如き不覚人、なべて源氏の棟梁の器に非ず。あさましくものたまふものかな。我らが御父を、あえて父とはな申しそ」とて、念仏三遍繰り返し、鎌田が太刀にて斬られ給ふ。悪口して失せ給ふはいみじき事とは申せども、さながら武門の御最期、天晴れなりと人々の口に申しけり。
年頃、武蔵守の父子の御仲良からず、御父君を斬り給ふも、つゆとも苦とは思はざりしと覚えども、ついに斬る事あたはざるは、なべて父子の恩愛厚く、武門とは申せど畜生に非ず、人の子にして、御父君をいとおしと思はざることなきが故なり。しかれども鎌田が太刀に斬られ給ふは、御無念にこそ違はざれば、あさましき事とぞ人々の申す。かくなる上はおよそいかなる前世の報いにやあらん。定めて修羅か畜生か、後生の苦しみ助け給へといずれもいずれも膝折って祈らぬ者ぞなき。