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大嵐事附被納経厳島社事(「平家納経」)

 さても一門はこぞりて唐船に乗り給ひ、安芸を指して下り給ふ。これは先頃よりもふけ給ひたりし御経を厳島社に治めむが為なり。先の保元の大乱に、はかなくならせ給ふ者どもが御魂、鎮めさせ給ひて、また、一門繁盛の御祈願の故とかや。

 そもそも唐船を操り給ふは誰々ぞ。これ清盛が郎党に、西海の王と聞こえつる海賊兎丸・荒丹波・荒者ども、加へて第一の家人平盛国、これは往昔は鱸丸と申せし漁師にて、船を操れば無双、古今に並びなき者なり。故にこの折も清盛に従ひ奉るとかや。

 さてさて船は滑るが如くに大海を渡り給ひしが、忽ち黒雲の沸き来たりて、雷鳴いみじく轟きて、甚だいみじき有様に移りけり。雨はしとどと横様に、車軸の如く船を穿つ。風はとどろと下様に、船を覆さむと船腹を打つ。波は上へ下へとこき混ぜて、船なる人々、風に揉まれたる落葉の如し。右を左に、左を右に、なすべうもなく、海神の御怒りに弄ばれ給ふ。

 小松殿重盛曰く「これ即ち龍神の思し召しに相違非ず。御経を波間に沈むべし」と。これを聞きて清盛が弟ども「げに」と思し召し、中にも門脇殿は「いざ、疾く。これ即ち讃岐院が御無念、嵐となりて我等を妨げ給ふに相違なし。先頃、基盛殿はかなくならせ給ふも、讃岐院の御魂のあくがれ出でて、魔縁と生じ、我等を苦しめ、修羅道に引かむとせしが故なるべし」と申し給ふ。

 然れども清盛、わななくわななく申し給ひつるは、「御経を鎮め給ふ事、よもあらじ」と。これを聞きて小松殿、「船沈まば同じ」と、蒔絵の御箱かき抱き、海中に投ぜんとせしが、清盛これを押し留め、船底に足ふン張ツて、皆水晶の数珠爪操りて、荒らかに申し給ひて曰く「この御経、先の保元の大乱に失せ給ひし者どもの御魂を慰め奉らむが為になしつる者なり。これを海中に捨つは、苦界に沈むに同じ。何ぞ仏の御手に縋るを放つが如きにしかずや。捨つる事適わず」とて、御経かき抱きて、船の舳先に立ち給へば、郎党ばらを召して、中にも操船第一の盛国には「鱸丸、往古の習ひを忘る事なかれ」と申し付け、御数珠掲げて黒雲を指し、「厳島指して只直ぐに下れよ」と下知し給ふ。稲妻、波間、大風を割り、轟きたる大音声、船の人々目の覚めたる心地して、これ天晴れなりと思し給ふ。

 さて、やがて嵐の鎮まりて、船は安芸へと着き給ふ。御経御納ありて、平家繁盛違ふ事なし。また嵐の退けらるるもこれ、棟梁清盛の誉れに相違なしと、聞く人讃えぬ者ぞなき。

 折しも、先の保元の戦に流され給ひし讃岐院、還御の御祈願適わず、やがてはかなくならせ給ふ。御悲憤の止む事なく、御魂のあくがれ出でて、平家に仇なさむと嵐を起こし給ふと人々の申すなり。

 また、あるいは曰く、御涙止まる事のなけれども、御霊安らかに、讃岐の地に安寧せられ給ひて、還御を願いてこそありけれど、讃岐の地の平らけくを御悦びありて候とかや。讃岐院の御魂の仇なしつるなんどは、京童の口さがなきわざにて候はむ。清盛が御経、故院の御慰めとなりしかば、極楽往生疑いなく、御霊の安らかにて候ぞ。

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