表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

アリシアとローゼンの山あり谷ありシリーズ

目を離した隙に婚約者が知らない女性に囲まれてるんですけど、どういう事ですか???????

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/07/08

ある意味、会心の一作です笑

某シーンに全力を注ぎました( ◜ω◝ )ദ്ദി

 

 アリシア・クライゼンは、ローゼンをとても愛している。


 それはもう、本人に面と向かって言えるくらいには愛しているし、周囲に知られても特に困らないくらいには愛している。北国の領主であるローゼンは、普段こそ無口で落ち着いていて、初対面の者には少し近寄りがたい印象を与える人だったけれど、アリシアからすれば、彼ほど分かりやすく優しい人もなかなかいない。そういう一面を、アリシアだけは全部知っていた。


 そんなある日のことだった。


 その頃のローゼンは、以前よりも少しだけアリシアの昔の故郷の話を聞きたがるようになっていた。


「アリシア」

「なあに?」

「前にも言ったかもしれないけど、体調が落ち着いているなら、君の生まれ故郷へ行かないか」


 アリシアは、ぱちりと瞬きをした。


「私の生まれ故郷へ?」

「ああ。君が育った場所を、一度きちんと見てみたいと思っていた。もちろん、無理はしなくていい。旅程も余裕を持って組むし、少しでも負担が大きいならやめよう」


 そこまで一息に言ってから、ローゼンは少しだけ気まずそうに口を閉じた。


 誘ったのは自分なのに、すでに心配が勝っているらしい。


「本当!?あなたとこうしたデートって初めて!」


 ローゼンは一瞬、返事に詰まった。


「……デート、なのかな」

「そうよ。二人で出かけて、私の好きな場所を案内して、美味しいものを食べて、花を見て歩くんでしょう?それはもう立派なデートよ」


 アリシアは続けて話す。


「南部に行ったらね、まず庭を案内したいわ。春は白い花がたくさん咲くの。北国の花とは全然違って、風が吹くと花びらがふわっと舞うのよ。それから市場にも行きたい。果物がたくさん並んでいて、甘い焼き菓子を売っている店もあるの。あなた、甘いものはそこまで得意じゃないかもしれないけど、あそこの蜂蜜菓子は絶対に食べてほしいわ」

「君がそこまで言うなら、食べてみるよ」

「それから、海の近くにも行きたい。潮の匂いがする道を歩くの。北国とは風の匂いが違うから、きっと驚くわ」


 話すうちに、アリシアの表情がどんどん明るくなっていく。


 ローゼンはそれを見て、今まで彼女がどれほど故郷を恋しく思っていたのかを知った。


 アリシアはその視線に気づくと、少しだけ照れたように笑った。


「……ごめんなさい。私ばかりはしゃいでいるわね」

「いや。聞けて嬉しいよ」

「本当に?」

「ああ。君が育った場所の話を、もっと聞きたいと思っていた」


 そう言われると、アリシアは胸の奥がふわりと温かくなるのを感じた。ローゼンは大げさな言葉を口にする人ではない。だからこそ、こうして言われると、余計に嬉しくなってしまうのだった。




 ◇




 それから数週間、南部行きの準備はゆっくりと進められた。


 旅程は、アリシアの希望をもとに組まれた。生まれ育った屋敷に立ち寄りたいこと、幼い頃によく歩いた庭園を見せたいこと、市場で蜂蜜菓子を買いたいこと、海沿いの道をローゼンと歩きたいこと。アリシアが一つ話すたびに、ローゼンは静かに頷き、無理のない順番で予定に組み込んでいった。


 ただし、そこに彼らしい慎重さが加わることは避けられなかった。移動時間は短めに区切られ、途中で休める宿も多めに押さえられ、護衛の配置もきっちり決められている。アリシアが「そこまでしなくても」と言うと、ローゼンはいつもの穏やかな声で答えた。


「君が行きたい場所へ行くために、無理のない道を選んでいるだけだよ」


 そう言われてしまうと、アリシアは何も言えなくなってしまった。


 自分の望みを叶えるために、ローゼンが彼なりに準備してくれているのだと分かったからだ。


 そうして準備を進めるうちに、出発の日は思っていたより早くやって来た。


 朝の空気はまだ冷たく、北国の屋敷の前には薄い霜が残っていた。使用人たちは早くから動き、玄関前には旅支度を整えた馬車が停められている。アリシアが外へ出ると、すでに荷物の積み込みはほとんど終わっていた。


 衣装箱がいくつか。南部用の軽やかなドレスと、念のための外套。帽子、手袋、歩きやすい靴。市場で買ったものを入れるための空の箱まで用意されている。さらに、ローゼンが選ばせたらしい薬箱と茶葉、乾いた果物、焼き菓子、柔らかな膝掛けまで見えた。


 アリシアはそれを見て、少しだけ目を細める。


「ローゼン」

「何かな」

「私たち、南部へ行くのよね?多くないかしら?」


 そう尋ねると、ローゼンは荷物の方へ一度視線を向けた。


「……気のせいだよ、アリシア。全て必要なものだ」

「今、少し間があったわ」

「……必要になりそうなものだけだ」

「言い直しても、あまり変わっていないわ」


 アリシアがそう言うと、近くにいた侍女が笑いをこらえるように俯いた。ローゼンはそれに気づいたのか気づいていないのか、続けて話す。


「南部は暖かいと聞いているが、道中は冷える場所もある。君が寒い思いをするよりは、荷物が少し増える方がいい」

「少し?」

「……多少」

「多少でもない気がするけれど」


 呆れたように言いながらも、アリシアは本気で止める気にはなれなかった。ローゼンがこうして荷物を増やすのは、彼女に不自由をさせたくないからなのだ。自分のために用意されたものだと思えば、文句よりも先に嬉しくなってしまう。


 それに、今日は初めての南部への旅である。

 アリシアは機嫌が良かった。


 ローゼンと二人で、自分の生まれ故郷へ行く。幼い頃に歩いた庭も、市場の甘い匂いも、海沿いの道も、全部彼に見せられる。それを思うだけで、自然と足取りが軽くなった。


「それにしても、この馬車、いつものものと違うわね」


 アリシアは玄関前に停められた馬車を見上げた。


 普段使うものよりも大きく、車体は重厚で、けれど装飾は控えめだった。クライゼン家の紋章が側面に入っているが、目立つところにはなかった。側から見れば、商家のちょっとした良い馬車だ。


「長い道のりになるからね」

「それだけ?」

「ああ」


 ローゼンはそう答えたが、アリシアは少し怪しいと思った。


 しかし、馬車の前で問い詰めるよりも、まず乗ってみる方が早い。ローゼンが差し出した手を取り、アリシアはゆっくりと踏み台へ足をかけた。


「足元に気をつけて」

「大丈夫よ」

「念のためだ」

「はいはい。もう、心配性なんだから!」


 アリシアは苦笑しながら馬車に乗り込む。

 そして、中へ入った瞬間、思わず瞬きをした。


 座席が、やけに柔らかい。


 床には厚い敷物が敷かれ、背もたれには大きめのクッションが置かれている。足元には膝掛けが畳まれ、小さな棚には水差しと軽食、さらに香草茶の入った箱まで用意されていた。窓には日差しを避けるための布がかけられ、揺れた時に身体を支えられるよう、手の届く位置に革張りの取っ手まで付いている。


 そこへ、ローゼンも続いて乗り込んできた。


 彼はアリシアが座席に腰を下ろしたのを確かめてから、自分も隣に座った。向かいではなく隣である。そのあたりにも、彼の心配性がよく出ていた。何かあればすぐ手を伸ばせる場所にいたいのだろう。


「どうだい?居心地は?」


 ローゼンが尋ねる。


 アリシアは座席に少し身体を預けてみた。ふかりと背中が沈み、厚い敷物のおかげで足元も冷えない。馬車の中にいるというより、小さな客間に座っているようだった。


「最高よ!眠たくなるような居心地ね」

「それは良かった」


 ローゼンは、心から安心したように言った。


「何かごめんね。私のためにここまでしてもらって」

「良いんだよ」


 ローゼンは静かに首を横へ振った。


「日々のお礼だと思ってほしい」

「日々のお礼?」

「ああ。君には、いつも助けられているから」


 アリシアはびっくりしたような顔をした。

 そんなふうに言われるとは思っていなかった。


「私は、特別なことなんてしていないわ」

「君はそう言うと思った」


 ローゼンは少しだけ目元を和らげた。


「けれど、私にとっては特別だよ。君が屋敷にいてくれること。笑ってくれること。寒い北国で、ここの暮らしを大切にしてくれること。その一つ一つに、私は救われている」


「ローゼン……」

「だから、君が行きたい場所へ行けるようにするくらいは、させてほしい」


 そう言われてしまうと、アリシアはもう何も言えなかった。


 嬉しくて、少しだけ照れくさくなる。そう言えば、ローゼンはこういう人だった。ふとした時に、まっすぐこちらの心を掴むようなことを言う人なのだ。


 アリシアは小さく息を吐き、それからそっとローゼンの肩に寄りかかった。


 ローゼンの身体が、ほんのわずかに固まる。

 けれど、彼はアリシアを避けることなく、むしろ少しだけ座る位置を整えて、彼女が寄りかかりやすいようにしてくれた。


「ありがとう。ローゼン。南部、きっと楽しいわよ」

「楽しみにしている。君がそこまで嬉しそうに話す場所だから、きっと良いところなんだろう」

「ええ。とても良いところよ」


 アリシアはローゼンの肩に頬を寄せたまま、窓の外を見る。


 屋敷の前では、使用人たちが深く頭を下げていた。護衛たちが馬を整え、御者が手綱を握る。荷物の確認を終えた家令が、こちらへ小さく頷いた。


 馬車が、ゆっくりと動き出し、北国の屋敷が、少しずつ遠ざかっていく。


 白い息が朝の空気に溶け、使用人たちの姿が小さくなる。アリシアは窓の外に手を振り、それからもう一度ローゼンの肩に寄りかかったのだった。




 ◇




 旅は、思っていたよりも順調だった。


 ローゼンが選んだ馬車は本当に揺れが少なく、長く座っていても身体が痛くなりにくかった。途中で立ち寄る宿も清潔で静かで、食事もアリシアの体調に合うものが用意されている。


 すべて、ローゼンらしい旅だった。


 慎重で、丁寧で、少し心配性で、けれどアリシアが窮屈にならないように気を配られている。


 馬車が目的地へ向かう道のりも半分を過ぎた頃には、アリシアもすっかりこの旅に慣れていた。最初こそ窓の外を眺め、景色が変わるたびにローゼンへ話しかけていたけれど、昼を過ぎて暖かな日差しが差し込むようになると、さすがに少し眠くなってくる。


 馬車の中は静かだった。


 車輪の音は柔らかく、外から聞こえる護衛の馬の足音も遠い。ローゼンは隣に座り、旅の書類に目を通している。アリシアはその横で膝掛けに包まり、いつの間にか彼の膝に頭を預けていた。


「眠いなら、少し休むといい」


 ローゼンがそう言って、膝掛けをそっと直してくれたのは覚えている。


 それから先は、少し記憶が曖昧だった。

 アリシアは、すやすやと眠っていた。


 ローゼンの膝枕は思っていたよりも落ち着いた。馬車の揺れも、彼の手が時折髪に触れる感覚も、すべてが心地よかった。こんなふうに旅の途中で眠るなんて少しはしたないかもしれないと思いながらも、眠気には勝てなかった。


 けれど、しばらくして。

 アリシアは、はっと目を開けた。


「そう言えば思い出した!」


 次の瞬間、アリシアは勢いよく身を起こした。


 当然、膝を貸していたローゼンは驚く。


「どうしたの、アリシア?」

「貴方に南国を旅行する時の注意をするのを忘れていたわ!」


 アリシアは真剣だった。


 つい先ほどまでローゼンの膝で眠っていたとは思えないほど、ぱっちりと目を開き、背筋を伸ばしている。眠気はどこかへ飛んでいった。むしろ、今思い出したことの重要さに、胸の奥がざわざわしている。


 ローゼンは手にしていた書類を静かに閉じた。


「注意?」

「そう!とても、とーっても大事な注意よ!」

「旅程についてなら、道中の危険はできるだけ避けているつもりだ。宿も確認済みだし、護衛にも」

「違うわ。そっちじゃないの」


 アリシアは首を横に振った。そして彼女は彼に南国でのしては行けない事について話し始めた。


 ローゼンは、珍しく困惑を隠しきれない声を出した。


「そうよ。北国とは全然違うの。挨拶で手を取ることもあるし、親しい相手なら腕を組むこともあるわ」

「それは、まあ……分からなくはないけれど」

「それだけじゃないの」


 アリシアは真剣な声で続けた。


「南国では、ナンパのコミュニケーションの一つに頬に口づけることもあるのよ」


 ローゼンの動きが止まった。


「……口づけ?」

「ええ。もちろん、恋人同士のものとは違うわ。軽いものよ。頬にちょん、と触れるくらい。でも、そういう距離の詰め方をしてくる人がいるの」

「それは、ナンパなのかい?」

「そうよ」


 アリシアはきっぱりと言った。


「南国では、相手を褒める時も大げさなの。『まあ、素敵な殿方ですこと』とか『北国の方はこんなに凛々しいのですね』とか『よろしければ、私がこちらをご案内しますわ』とか、そういう言葉が自然に出てくるわ」

「それは社交辞令では?」

「社交辞令の時もあるわ。でも、社交辞令のふりをしたナンパの時もあるの」


 ローゼンは黙った。アリシアはそこで、さらに身を乗り出した。


「いい?ローゼン。貴方は特に危ないの」

「私が?」

「そうよ。貴方は北国の領主でしょう。南国では珍しいわ。しかも背が高くて、落ち着いていて、あまり喋らなくて、瞳が綺麗で、カッコよくて、私に優しい」

「……途中から君の好みの話になっていないかな」


 アリシアは真剣だった。


「だから、もし誰かが貴方に近づいてきて、『南国ではこれが親愛の挨拶ですの』なんて言いながら頬に口づけようとしても、絶対に受けては駄目」


「分かったよ。気をつける」

「本当に?相手が美しい令嬢でも?相手が泣きそうになっても?」

「断る」

「『まあ、北国の殿方は冷たいのですね』と言われても?」

「断る」

「よろしい」


 アリシアは満足げに頷いた。


「しかし、びっくりしたよ。南国にそんな習慣があったなんて。思ったより情熱的な地域なんだな。大変だっただろう」


 その言葉に、アリシアは少しだけ目を伏せた。


「……実を言うと、私が南国から出て行った理由がそれなのよ」

「あぁ……なるほど……」


 と、ローゼンは何か察したようだった。

 アリシアは小さく息を吐いた。


「まぁ、見てなさい。今に分かるわよ」


 その言い方があまりにも深刻だったので、ローゼンはそれ以上、冗談めかして返すことができなかった。


 南国の令嬢たちがそこまで恐ろしいものなのか、彼にはまだよく分からない。北国で領主として過ごしてきたローゼンにとって、社交の場での距離感など、礼儀と節度の範囲内に収まるものだと思っていた。少なくとも、アリシアがここまで真剣に警戒するほどのものだとは考えていなかった。


 南国には、アリシアがそうまで言う何かがあるのだろう。ならば、自分はきちんと気をつけなければならない。


 そう意気込んでいたのだが、ローゼンは到着してそうそう、南国の試練に巻き込まれる事となったのだった。




 ◇




 南国に到着した瞬間、ローゼンはまず空気の違いを感じた。


 北国の空気は、肺に入るたびに身体の内側を澄ませるような冷たさがある。けれど南国の空気は違った。陽光をたっぷり含んだ風は柔らかく、少し湿っていて、花と果実と土の匂いが混じっている。石畳は明るい色をしており、屋敷の壁も白く、窓辺には色鮮やかな花が飾られていた。庭には背の高い木々が枝を広げ、北国では見ない大きな葉が風に揺れている。


 確かに、アリシアが育った場所だと思った。明るくて、華やかで、周りの人はどこか人懐こい。


 だが同時に、暑い。


 ローゼンは暑さに弱いわけではないが、北国とはまるで違う陽射しに少しだけ目を細めた。隣のアリシアも、馬車を降りてすぐに扇で顔を仰いでいる。


「あっちゃ〜。思ったより暑いわね」


 アリシアは眉を下げて笑った。


「北国に慣れすぎたかしら。昔はこれくらい平気だったのに」

「無理はしない方がいいよ」

「大丈夫よ。ただ、日差しが強いから帽子を取ってくるわね。少し待っていて」

「手伝おうか?」

「いいの。すぐ戻るから。ローゼンはここで待っていて」


 そう言って、アリシアは馬車の中へ戻っていった。


 南部用の帽子は確か、衣装箱の上の方に入れていたはずである。アリシアは旅行鞄と衣装箱を開けていった。


「あれ? こっちじゃなかったかしら」


 白いリボンのついた帽子を探していたのだが、思ったより奥に入り込んでいる。道中で使う小物や日差し避けの布、薄手の手袋など、ローゼンが念のためにと入れさせたものが多すぎて、目的の帽子がなかなか見つからない。


 アリシアは少しだけ苦笑した。

 やはり、荷物が多すぎる。


 けれど、それもローゼンが自分を気遣ってくれた結果なのだと思うと、文句を言う気にもなれなかった。


 彼女はようやく帽子を見つけ、髪を軽く整えて外へ戻る。


 ほんの数分のことだった。ほんの数分、ローゼンを一人にしただけだった。


 何と、ローゼンが地元の女性たちに囲まれていたのだ。


「まぁ、素敵な方ですね!?一緒にお茶はいかがですか?」

「顔が白いって事は……もしかして北国から!」

「すごいわ。本当に雪の国の方って、こんなに綺麗な目をしているのね」

「こちらは初めてでしょう?よければ私たちが案内しますわ。あちらに涼しい茶屋があるんです」


 アリシアは、帽子を持ったまま固まった。


 見間違いではない。ローゼンは確かに囲まれている。相手は三人ほどの若い女性たちで、アリシアには見覚えのない者ばかりだった。屋敷の者ではない。近くの店や茶屋に出入りしている娘たちだろうか。南国らしい明るい色の衣装をまとい、髪には小さな花飾りを挿し、扇を手に、にこにことローゼンへ距離を詰めている。


 ローゼンは、明らかに困っていた。


 けれど、無下にはできないのだろう。相手がただ親切に声をかけているだけにも見えるため、礼儀正しく対応しようとしている。そこがまた、アリシアからすれば危なっかしかった。


「こら〜〜〜!!貴方たち、ローゼンに手を出すんじゃありません!!!」


 アリシアは声を荒げながら走ってきた。


 もちろん、本気で怒鳴りつけるつもりだったわけではない。いや、半分くらいは本気だったかもしれない。帽子を片手に、裾を踏まないように気をつけながら、それでもかなりの勢いでローゼンの方へ向かってくる。


 その迫力に、ローゼンを囲んでいた女性たちはびくりと肩を跳ねさせた。


「お、奥様!?」

「ち、違いますわ!少しお話を――」

「お茶に誘っただけですの!」


「駄目です!!!お茶も案内も間に合っていますから!!!」


 アリシアがさらに一歩踏み込むと、女性たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。扇を慌てて閉じる者、花飾りを揺らしながら小走りで去る者、「失礼いたしましたわ!」と妙に高い声を残して立ち去る者。つい先ほどまでローゼンを囲んでいた華やかな輪は、あっという間に消えてしまった。


 残されたのは、帽子を握りしめたアリシアと、少し困ったように立つローゼンだけだった。


 アリシアは肩で息をしながら、逃げていく女性たちの背中を見送った。


 これではまるで、鼠を追いかける猫ではないか。


 しばらくして、アリシアはようやく息を整えた。


 走ったせいで少しだけ乱れた髪を手で押さえ、帽子をかぶり直す。それから、いかにも大事なことを教える教師のように、ローゼンへ向き直った。


「分かった?これが南国よ。ようこそ私の地元へ」


 あまりにも杜撰な紹介だった。


 南国には、花もある。美味しい果物もある。海沿いの美しい道も、幼い頃によく歩いた庭園も、市場の賑わいもある。アリシアがローゼンに見せたいと思っていたものは、もっとたくさんあったはずだ。


 それなのに、到着して最初に紹介したものが、ローゼンを囲む見知らぬ女性たちと、それを追い払うアリシアの姿である。


 さすがに故郷に申し訳ない気がした。


 けれど、それはそれ、これはこれだった。


「……かなり、よく分かったよ。君が馬車の中で言っていたことは、大げさではなかったんだね」

「そうよ。私は大げさなんかじゃないわ。むしろ控えめに言ったくらいよ」

「控えめだったのかい」

「ええ。だって今のはまだ序の口だもの」


 アリシアが真剣に言うと、ローゼンはほんの少しだけ目を伏せた。


 さすがに何かを覚悟したようだった。北国の領主として国境の不穏にも、冬の備蓄にも、領地の揉め事にも向き合ってきた人なのに、南国の女性たちの距離感には少しばかり手を焼きそうである。


 アリシアはそれを見て、少しだけ胸を張った。


「だから言ったでしょう? 貴方は自分が目立つことを分かっていないの」

「今、少し分かった」

「少し?」

「かなり分かった」

「よろしい」


 アリシアは満足げに頷いた。

 しかし、すぐに表情を引き締める。


「でもね、ローゼン。今の方々は、まだ可愛い方よ。それよりもやっかいなのは、私の知り合いの……」


 その言葉を遮るように、甘ったるい声が響いた。


「あらあら、貴方、帰ってきたのね。てっきり北国の炭鉱送りにされたのだと思ったわ」


 アリシアの肩が、ぴくりと跳ねた。


 声のした方を見ると、白い日傘を差した一人の令嬢が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきていた。薄桃色のドレスは南国の陽射しによく映え、胸元には小粒の真珠が揺れている。歩き方も、扇の開き方も、微笑み方も、いかにも自分が注目されることに慣れている者のそれだった。


 ローゼンは、静かにその令嬢を見た。


 アリシアは、帽子のつばをそっと押さえた。


「……セレーナさん」

「まあ、覚えていてくださったのね。嬉しいわ。北国の寒さで、昔のお友達のことなんてすっかり忘れてしまったのかと思っていたの」

「忘れてはいないわ」


 忘れられるはずがなかった。


 セレーナ・ベルティナ伯爵令嬢。


 昔から、人の持っているものを欲しがる人だった。誰かが新しいドレスを褒められれば、次の茶会ではそれに似たものをより派手に仕立ててくる。誰かが招待された席に呼ばれなかったと知れば、偶然を装って現れる。誰かが大切にしているものほど奪いたくなる典型的悪女だった。


 彼女の行動一つで壊れた関係は、数えきれない。


 婚約者のいる令息へわざと親しげに話しかけ、相手の婚約者が不安げな目を向ければ、「ただお話をしていただけですのに」と笑う。親友同士の片方にだけ贈り物をして、もう片方の不満を煽る。誰かが大切にしている使用人や侍女を褒めちぎり、自分の屋敷へ来ないかと誘う。そうして関係に小さなひびを入れておきながら、最後には「まさか、そんなつもりではありませんでしたわ」と被害者のように振る舞うのだ。


 そんなことが許されているのは、彼女の家が王都に強い繋がりを持つ伯爵家だからだった。


 ベルティナ伯爵家は、南国の社交界では軽く扱えない家である。豊かな交易路を押さえ、王都の貴族とも縁が深く、茶会一つ、舞踏会一つにも顔が利く。だからセレーナが少々好き勝手に振る舞っても、周囲は大きく責めない。責めたところで、こちらが面倒な立場になるだけだと知っているからだ。


 アリシアも昔は、何度もそれを見てきた。そして今、そのセレーナが、ローゼンを見ていた。嫌な予感しかしなかった。


「あら、本当に素敵な方」


 セレーナは日傘を少し傾け、ローゼンを上から下までゆっくり眺めた。


「北国の領主様と聞いていたから、もっと恐ろしい方を想像しておりましたの。雪と氷に囲まれた土地を治める方なんて、きっと厳しくて近寄りがたい方なのだろうと」


 ローゼンは礼儀正しく一礼した。


「初めまして。ローゼン・クライゼンです」

「まあ、ご丁寧に」


 セレーナは嬉しそうに微笑んだ。


「セレーナ・ベルティナと申しますわ。アリシア様とは、昔からよく存じ上げておりますの」


 よく存じ上げている、という言い方に、アリシアは内心で眉を寄せた。


 確かに知ってはいる。けれど、親しいわけではない。少なくとも、アリシアはそう思っている。


「それにしても、綺麗な瞳ですわね。北国の方の瞳は、皆そうなのかしら。雪解け前の湖みたい」

「ありがとうございます」

「お肌も白いのね。南国の日差しは強いでしょう? 大丈夫ですか? 慣れない土地で倒れてしまっては大変だわ」

「お気遣いなく。問題ありません」

「まあ、我慢なさらなくていいのよ」


 セレーナは、自然な動作で一歩近づいた。近い。アリシアの目が細くなる。


「南国には、涼しい木陰や風通しの良い茶屋がたくさんありますの。よろしければ、私がご案内いたしますわ。アリシア様は帰ってきたばかりで、お屋敷の方々へのご挨拶もあるでしょう?

「何を言っているのよ。ローゼンの案内は私がするわ」


 アリシアは即座に言った。セレーナは、扇で口元を隠して笑う。


「あら、そんなに急いで遮らなくても。私はただ、親切で申し上げただけですのに」

「ええ。だから親切に断ったの」

「まあ、相変わらずね」


 セレーナは楽しそうに目を細めた。


「でも、アリシア様。南国では、客人を皆で歓迎するものよ。北国の旦那様も、せっかくいらしたのですもの。貴方一人で独り占めしては、少し可哀想ではなくて?」

「ローゼンを独り占めして何が悪いのかしら」


 アリシアは笑顔のまま言った。ローゼンが隣で、わずかに息を詰めた気配がした。


 セレーナは一瞬だけ黙ったが、すぐにまた甘い笑みを作る。


「へ、へぇ。あの引きこもり姫が夫ねぇ。でも、貴方とクライゼン様じゃ釣り合っていないわよ? そんな子猫ちゃんよりも、私の方がより良い物を提供できると思うけど。例えば交易路とか?」


 あまりにも露骨な言葉だった。


 アリシアは思わず息を呑んだが、ローゼンは表情を乱さなかった。南国の熱気の中に立っていても、彼の声は北国の湖のように静かだった。


「いえいえ、今回は旅行で来ていますので遠慮しておきます。何せ私どもは北方の地ですので、メリットは少ないですから」

「あら。交易路にメリットが少ないだなんて、本気でおっしゃっているの?」

「北方には北方の流れがあります。必要なものは、すでに領内と周辺領で整えていますので」

「でも、王都との繋がりは?」

「必要であれば、正式な場で話します」


 ローゼンはそこで、ほんの少しだけアリシアの方へ視線を向けた。


「彼女との旅行中に、立ち話で決めることではありません」


 セレーナはただ色目を使っているわけではない。南国の作法、客人への歓迎、王都との繋がり、交易路。そういう言葉を甘く混ぜながら、ローゼンに近づこうとしている。もし相手が少しでも欲を見せれば、そこから入り込むつもりだったのだろう。


 アリシアは、それが腹立たしかった。


 ローゼンを北国の領主として、利用できるものとして見ている。しかも、アリシアをその隣にいる邪魔な子猫のように扱っている。


 だからアリシアは、考えるより先に動いていた。


「ローゼン、こっちを向いて」


 彼がこちらを向いた瞬間、アリシアはその真正面に立った。そして背伸びをすると、逃げ道を塞ぐようにローゼンの胸元へそっと手を添え、そのまま唇を重ねた。


 触れた瞬間、ローゼンの息が止まったのが分かった。


 ほんの少し乾いた唇に、アリシアの唇が押し当てられる。最初は勢いのまま触れただけだった。けれど、すぐに離れてしまうのが悔しくて、アリシアはもう一度、確かめるように唇を重ね直した。ローゼンの身体が固まり、胸元に添えた手の下で、彼の鼓動がわずかに跳ねる。


 周囲の声が遠のいた。


 南国の強い陽射しも、セレーナの視線も、通りを行き交う人々の気配も、一瞬だけ全部薄くなる。アリシアに分かるのは、自分よりずっと背の高い夫が、驚きのあまり身動き一つできなくなっていることと、重ねた唇が思っていたより熱いことだけだった。


 時間にすれば、ほんの少し長かったかもしれない。


 その場にいた者たちにとっては、十分すぎるほど長かった。


 アリシアがゆっくりと唇を離すと、ローゼンは完全に固まっていた。普段はどれほど落ち着いていても、さすがに南国の通りで、彼女に突然唇を奪われるとは思っていなかったのだろう。返す言葉も出ないまま、ただアリシアを見つめている。


 その耳は、見事なほど赤かった。


「……アリシア。何をやっているんだ」


 ようやく絞り出された声は、いつものローゼンにしては少しだけ掠れていた。


 アリシアはそれを見て、少しだけ満足した。


 そう、これは見せつけているのだ。愛を。あの南国の大悪女に。


「あらあら、セレーナ。貴方は南国にいる間、何をしていたのかしら?」


 アリシアはローゼンの腕に手を添えたまま、にっこりと微笑んだ。


「私は彼と一緒に、実家へご挨拶に来たのよ。子どもが出来たっていう報告も兼ねてね」


 アリシアはそこで、ローゼンと同じ方向を向いた。


 そして、彼の両手をそっと取ると、自分の腰へ回させた。ローゼンが驚いたように息を止める気配がしたけれど、アリシアは構わなかった。そのまま彼の手を、自分の腰からお腹へとゆっくり誘導する。


 ローゼンの大きな手が、アリシアのお腹に触れた。


「まさか、貴方……」


 セレーナの声から、余裕が消えた。

 アリシアはにっこりと微笑んだ。


「ええ。この人は私の夫で、私のお腹の子の父親よ。これで分かったかしら?」


 その場が静まり返った。


 先ほどまで甘い声でローゼンを誘っていたセレーナは、扇を握ったまま固まっている。交易路だの、南国の作法だの、客人を歓迎するだの、そういう言葉で飾っていたものが、すべて意味を失ったようだった。


 セレーナの頬が、みるみる赤く染まった。


 それが怒りなのか、恥なのか、悔しさなのかは分からない。おそらく全部だろう。彼女は扇を握りしめ、何か言い返そうと唇を震わせたが、アリシアのお腹に添えられたローゼンの手を見た瞬間、言葉を失ったようだった。


「……な、何よ」


 ようやく出てきたのは、そんなか細い声だった。


「北国に行って、すっかり大人しくなったのかと思えば……」


 アリシアがにっこりと微笑むと、セレーナは完全に言葉を詰まらせた。


 周囲にいた者たちも、さすがに事情を察したらしい。先ほどまで少し離れたところから様子を窺っていた通行人や使用人たちが、気まずそうに視線を逸らしている。セレーナはそれにも気づいたのだろう。顔を真っ赤にしたまま、扇で口元を隠した。


「……ふ、ふん。せいぜいお幸せに」

「ありがとう。言われなくても幸せになるわ」

「本当に可愛げのない人ね!」


 そう吐き捨てると、セレーナは勢いよく踵を返した。薄桃色のドレスの裾を揺らし、日傘をぎゅっと握りしめ、先ほどの女性たちと同じように、蜘蛛の子を散らすような勢いで去っていく。途中で一度だけ振り返ったが、ローゼンがアリシアのお腹に手を添えたまま動かないのを見ると、悔しそうに顔を歪め、今度こそ足早に立ち去っていった。


 その背中が見えなくなるまで見送ってから、アリシアは大きく息を吐いた。


「ふぅ。スッキリしたぁ」


 まるで長年溜め込んでいた埃を一気に払ったような声だった。

 ローゼンはまだ、アリシアのお腹に手を添えたまま固まっている。


「……アリシア」

「なあに?」

「もう、これ以上に凄いのはないよな?」


 その声が妙に真剣だったので、アリシアは思わず笑ってしまった。


「あはは。流石に大丈夫だよ〜。私の知っている限りじゃ、セレーナがこの地域で一番性格が悪い人よ」

「……それは、安心していい話なのかな」

「安心していいわ。たぶん」

「たぶん……」


 アリシアは少し考え込んだ。


 このままでは、外を歩くたびにローゼンが声をかけられるかもしれない。本人が断れることは分かった。けれど、ローゼンは礼儀正しい。相手を傷つけないように言葉を選んでいるうちに、また変な距離まで詰められる可能性がある。


 それはよろしくない。非常によろしくない。


 アリシアはぱっと顔を上げた。


「じゃあ分かった!外にいる間はずっとこうしようか!」


 ローゼンが聞き返すより早く、アリシアは彼の手を取った。


 ただ手のひらを重ねるだけではない。彼の長い指の間へ、自分の指を一本ずつ滑り込ませるようにして、きゅっと絡める。逃がさないための形なのに、触れ合った指先から伝わる温度が妙に優しくて、アリシアは自分で始めたくせに少しだけ照れそうになった。


「これなら安心でしょう?」

「……これは」

「手を繋いでいるだけだと、うっかり離れるかもしれないでしょう?でも、こうして指を絡めておけば離れにくいし、誰かが貴方を連れて行こうとしてもすぐ分かるわ」


 ローゼンは絡められた指を見下ろし、それからアリシアを見る。


 アリシアはそんな状況を誤魔化すように咳払いをした。


「さて、実家の近くまで来たというのに道草してしまったわ。まずは荷物を預けがてら紹介するわ」


 そう言って、アリシアは嬉しそうにローゼンの手を引いたのだった。



試される大地、南国( ´・ω・`)


もし少しでも「読んでよかった」と思っていただけましたら、評価をいただけると嬉しいです。今後の励みにさせていただきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
惚れた弱みか、いつもいつもアリシアばっかり夫の女避けに必死でかわいそう。性格といわれれば仕方ないけど夫からアリシアへの熱をまったく感じないわ。実際に妻のアリシアが盾になって女避けしなくてはいけない夫な…
実家に行くと母親が・・・
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ