夜会の受付嬢は見た。いや、見ていない。
夜会の受付嬢など、誰も見ていない。
王宮の大広間へ向かう貴族たちは、私の前で招待状を差し出し、外套を預け、名を告げる。
けれど、私の顔を見る人はほとんどいない。
それでも私は、見ている。
誰が来たか。誰が出たか。
誰が何を預けたか。
誰がどの馬車で帰るのか。
華やかな夜会の端で、それを記録する。
それが、私の仕事だった。
貴族の色恋には詳しくない。
けれど、預かった外套の裏地と、刺繍された家紋と、怒鳴られた回数には詳しい。
外套を間違えると怒られる。すごく怒られる。
「オフィーリア・グランヴィル侯爵令嬢、ご入場でございます」
白銀のドレスをまとった令嬢が、静かに頭を下げて通り過ぎた。
王太子オスカー殿下の婚約者。
王国で最も気高い令嬢と噂される方だった。
私は受付台帳に記す。
入場時刻、19時11分。
外套預かり札、37番。
馬車番号、グランヴィル家2号車。
37番の外套は、表地が白銀。裏地は白。襟元にはグランヴィル侯爵家の百合の紋。
受付嬢は外套を間違えない。間違えると、本当に怒られるから。
私、リネット・アシュフォードも、本来は外套を預ける側だったはずだった。
けれど没落男爵家の娘である私は、母の薬代を稼ぐため、王宮夜会の受付係として働いている。
まあ、気楽な仕事、とは言い切れないが、社交界の面倒な色恋沙汰に巻き込まれないだけましだ。
受付嬢として気をつけなければならないこと。
目立ってはいけない。
偉い方に逆らってはいけない。
余計なことを言ってはいけない。
外套を間違えない。
それから、もう一つ。
記録は正確に。
台帳は頑固なのだ。
あとから直した跡まで残す。とても頑固なのだ。
受付嬢に必要なのは、笑顔と記録と、少しばかりの忍耐。
そう思っていた。
その夜までは。
「ロザリー・ダンヴァース男爵令嬢、ご入場でございます」
次に現れたのは、オフィーリア様の義妹として知られるロザリー様だった。グランヴィル侯爵と再婚したイザベラ・グランヴィル侯爵夫人の連れ子で、前夫のモーリス・ダンヴァース男爵との間の娘だ。
ロザリー様は、薄いピンクのドレスに、白銀の外套。
その隣には、王太子オスカー殿下がいた。
本来、殿下が寄り添うべき相手は、婚約者であるオフィーリア様のはずだった。
けれど殿下は、当然のようにロザリー様の腰に手を添えている。
社交界では、こういう面倒そうなことがよく起きるらしい。
でも受付嬢の仕事は、恋の行方ではない。
人の出入りを見ることだ。
「受付の娘」
ロザリー様が私を見下ろした。
「私の外套、大切に扱ってね。高価なものなの」
「かしこまりました」
私は外套を受け取った。
表地は白銀。裏地は薄ピンク色。
裾の内側には、小さな鈴蘭の刺繍。ダンヴァース男爵家の紋だ。
遠目には、オフィーリア様の外套と似ている。
けれど、受付係は外套を間違えない。
何度も言うが、間違えるとすごく怒られるから。
私は台帳に記した。
入場時刻、19時26分。
外套預かり札、42番。
馬車番号、記載なし。
「馬車番号はよろしいのですか?」
私が確認すると、ロザリー様は笑った。
「帰りは殿下に送っていただくから、記録はいらないわ」
オスカー殿下も当然のように頷く。
「そういうことだ。余計なことを書くな」
「……かしこまりました」
私は逆らわなかった。
ただし、空欄は空欄として残した。
書くなと言われたものは書かない。
けれど、ないものをあるとも書かないし、あるものをないとも書かない。
台帳は頑固なのだ。
そして夜会は華やかに始まった。
私は夜会場の入口脇で、遅れてくる来賓を迎え、帰る方に外套を返し続けた。
そして、21時過ぎ。
ロザリー様が、ひとりで受付へ戻ってきた。
「外の空気を吸いたいの。外套を返して」
「かしこまりました」
私は42番の札を確認し、白銀の外套を差し出した。
外套を受け取るロザリー様の指は、わずかに震えていた。
泣いても怒ってもいない。けれど、急いでいるようだった。
「お戻りの際は、こちらで再度確認を……」
「分かっているわ。受付嬢は、黙って記録だけしていればいいのよ」
ロザリー様は私の言葉を遮り、足早に去った。
私は台帳に記す。
ロザリー・ダンヴァース男爵令嬢。
退場時刻、21時8分。
理由、外気を吸うため。
外套42番、返却済み。
その後、ロザリー様が正面入口から戻った記録は残らなかった。
その15分後。
大広間から悲鳴が上がった。
「きゃあーー!」
楽隊の音楽が止まる。
夜会場の扉が乱暴に開き、中の様子が見えた。
西階段の下に、ロザリー様が倒れている。
そのそばに立っていたのは、オフィーリア様だった。
「違います! 私は何もしておりません!」
オフィーリア様の声を、オスカー殿下の怒声がかき消した。
「まだ言い逃れをするか、オフィーリア!」
オスカー殿下は夜会場の中央で叫んだ。
「貴様は嫉妬からロザリーを階段から突き落とした! それだけではない。白銀の外套をまとって会場を抜け出し、隣国の使節と密会していたことも分かっている!」
会場がどよめく。
「そのようなことはしておりません。私は今夜、一度も会場を出ておりません」
「嘘をつくな!」
ロザリー様が殿下の腕にすがり、泣き顔になった。
とても哀れを誘う泣き顔だった。
「私、見たのです……。お姉様が白銀の外套をまとって、裏階段へ向かわれるところを……」
私は台帳に目を落とした。
オフィーリア様は、入場してから一度も受付を通って出ていない。
外套も返していない。
馬車も呼んでいない。
退場記録もない。
一方、ロザリー様は事件の15分前に外へ出ている。
しかも、戻った記録がない。
私は人の顔色を読むのは得意ではない。
けれど、台帳なら読める。
そこには、こう書いてあるように見えた。
何かがおかしい、と。
「衛兵!」
オスカー殿下が叫んだ。
「オフィーリア・グランヴィルを捕らえろ! この女は王家への裏切り者だ!」
オフィーリア様の声は、人々の怒号と非難に飲まれて消えた。
やがて夜会は、騒ぎのまま終わった。
最後の客が帰った後、王宮の入口には私だけが残った。
そのときだった。
「受付の娘」
背後に、オスカー殿下が立っていた。
隣にはロザリー様もいる。
ロザリー様はもう泣いていなかった。涙の跡すらない。
泣き止むのがずいぶん早いのね。
そう思ったが、もちろん口には出さない。
受付嬢は口が堅い。余計なことは言わない。
「台帳を出せ」
「……はい」
私は台帳を差し出した。
オスカー殿下はオフィーリア様の欄を見て、眉をひそめる。
「退場記録がないな」
「はい。オフィーリア様は、正面入口をお通りになっておりません」
「ならば書け」
……何で?
「21時10分。オフィーリア・グランヴィル、正面入口より退場。理由、外気を吸うため。そう書け」
「……ですが、オフィーリア様は退場されておりません」
オスカー殿下は笑った。
「王太子である俺が見たと言っている。ロザリーも見たと言っている。それでも、オフィーリアは退場していないと言い張るのか?」
ロザリー様が甘い声で続ける。
「リネットさん……とおっしゃったかしら。お母様の薬代が大変なのでしょう?」
それがあなたと何の関係が?
すると、オスカー殿下は金貨の入った小袋を受付台の上に置いた。
「明朝の裁定で、おまえを証人として呼ぶ。そこで台帳を読み上げろ。オフィーリアが会場を出たと」
金貨袋が、重い音を立てた。
「入口に立つだけの娘より、王太子のほうが正しいのは当然のことだ。おまえはただ、真実を語ればよい」
殿下は私を見下ろした。
「その手でひと言書いておけば、おまえの母は助かる。逆らえば、母娘ともども路頭に迷うぞ」
こいつ……。私を脅すのね。
けれど、王太子殿下に逆らえば、受付嬢など、翌朝には簡単に職を失うだろう。
職どころか、命の保証もないかもしれない。
……仕方ないわね。
私は頷いて言った。
「……承知いたしました」
殿下は満足そうに笑った。
「最初からそうしていればいいのだ。受付嬢は言われたことだけをしておけばよい」
そう言い放ってオスカー殿下は高笑いしながら去り、ロザリー様も笑顔でついて行った。
一人になった私は筆を取った。
※
王宮の裁定の間には、多くの貴族が集められていた。
オスカー殿下は玉座の前に立ち、勝ち誇った顔をしている。
そして私を見るなり、薄く笑った。
「これより、オフィーリア・グランヴィルの罪を明らかにする」
オスカー殿下が声を張った。
「この女は夜会の途中で会場を抜け、隣国の使節と密会した。さらに、嫉妬からロザリーを階段から突き落とした」
会場がざわめく。
殿下は私を見た。
「受付の娘」
「はい」
「貴様は昨夜、真実を話すと約束したな」
「はい」
「では台帳を読み上げろ。オフィーリアが夜会を出た記録を」
私は頷いて、台帳を開いた。
「オフィーリア・グランヴィル侯爵令嬢。入場時刻、19時11分。外套預かり札、37番。馬車番号、グランヴィル家2号車」
「続けろ」
「外套返却記録、ございません。馬車呼び出し記録、ございません」
私は顔を上げた。
「通常の退場記録は、ございません」
空気が止まった。
殿下の顔から笑みが消える。
「何?」
「オフィーリア様の退場記録はございません」
「ふざけるな! 昨夜、書いただろう!」
「はい」
私はページを一枚めくった。
「修正記録がございます」
裁定の間がざわめいた。
オスカー殿下が苛立たしげに命じる。
「……読め」
「修正時刻、23時47分。修正命令者、王太子オスカー殿下」
ざわめきが、大きくなった。
私は続けた。
「修正内容。21時10分、オフィーリア・グランヴィル侯爵令嬢、正面入口より退場とする」
「そうだ! それを読めばよい!」
「修正理由。王太子オスカー殿下ならびにロザリー・ダンヴァース男爵令嬢の目撃申告による」
ロザリー様の顔が、かすかに引きつった。
私は最後まで読んだ。
「備考。受付係による目視確認なし。外套返却記録なし。馬車呼び出し記録なし」
裁定の間が、しんと静まり返った。
殿下の顔が赤くなる。
「なぜ余計なことを書いた!」
「余計なことではございません。修正記録に必要な項目です。私は規定に従って正確に記録しただけです」
「黙れ!」
怒鳴られるのは好きではない。
けれど私は、台帳から目を逸らさなかった。
司法卿が静かに前へ出た。
「つまり殿下は、受付係が確認していない退場を、公記録に加えるよう命じたのですね」
「俺が見たと言っている!」
「ならば、通常記録ではなく目撃申告による修正記録となる。受付係の処理は正しい」
司法卿は私を見た。
「では、ロザリー・ダンヴァース男爵令嬢の記録は?」
私はページをめくる。
「ロザリー・ダンヴァース男爵令嬢。入場時刻、19時26分。外套預かり札、42番。馬車番号、記載なし。退場時刻、21時8分。理由、外気を吸うため。外套42番、返却済み」
「私は戻ったわ!」
ロザリー様が叫んだ。
「戻ったのです! だから階段で、お姉様に突き落とされたのです!」
司法卿が尋ねた。
「正面入口から?」
ロザリー様の顔がこわばる。
私は台帳を見た。
「ロザリー様の正面入口からの再入場記録は、ございません」
「受付嬢が書き忘れただけでしょう!」
ロザリー様は私を睨んだ。
「そんな下働きの記録で、私を疑うおつもりですか? リネットさん、あなた、お母様の薬代に困っていたのでしょう? お金に困った人間の証言など……」
「はい。母の薬代には困っております」
会場の視線が、私に集まる。
恥ずかしい。
でも、私は台帳を閉じなかった。
「ですが、受付の記録は間違えません。困っていることとは何の関係もないことですから」
ロザリー様の笑みが固まった。
「私は貴族の顔色を読むのは得意ではありません。ですが、台帳の空欄と修正欄だけは読めます」
司法卿の合図で、衛兵が白銀の外套を掲げた。
「昨夜、裏門付近で発見された外套です。見てのとおり表地は白銀。裏地はピンク色。裾の内側に、ダンヴァース男爵家の鈴蘭の刺繍がございます」
「ロザリー様が昨晩お召しになっていた外套と一致します」
私は言った。
ロザリー様の顔が青ざめた。
司法卿が続ける。
「裏門で見つかった外套には、西階段の白塗料が付いていました。ですが、階段には争った跡がありません。
そして裏門の記録には、21時14分、白銀の外套の女が王太子の従者と通ったとあります」
「ち、違うの……私はただ、殿下に言われて裏門から戻っただけで……!」
言いかけて、ロザリー様は口を押さえた。
裁定の間が静まり返る。
「ロザリー!」
オスカー殿下の顔が引きつった。
「違うのです! 私は……正面から戻れば台帳に残るから、裏門を使えと殿下が……。だって、入口の娘など、あとで金貨を置けばいくらでも書き換えられると……!」
「黙れ!」
殿下の怒声が響いた。
司法卿は動じない。
「つまり、オフィーリア様が外出したように見せかけるよう、オフィーリア様と似た外套を着たロザリー様が裏門に行ったと、そういうことですね?」
「でたらめだ!」
オスカー殿下が叫んだ。
「しかし、記録と証拠を鑑みた上ではそうとしか考えられません」
司法卿は続ける。
「なお、隣国使節団にも確認を取りました。昨夜、オフィーリア様が訪れた記録はなく、使節団側も、面会の事実を否定しています」
そのとき、裁定の間の扉が開いた。
そこには昨日捕らえられたはずのオフィーリア様がいた。
「ああ、オフィーリア様。外套は受付の方でまだ預からせていただいております。外出もされずに、捕えられてしまわれていたので」
私はそう発言した。
ロザリー様はその場に崩れ落ちた。
「私は……私はただ、殿下に選ばれたかっただけなの……! お姉様さえいなければ、私が……!」
その一言で、すべてが終わった。
会場の視線が変わる。
悪女を見る目が、オフィーリア様からロザリー様へ。
そして、王太子殿下へ。
「たかが台帳一冊で、王太子である私を裁くつもりか!」
殿下が私を睨んだ。
私は何も言えなかった。
代わりに、司法卿が答えた。
「たかが台帳一冊を欺こうとした者に、国の文書は預けられません」
「私は王太子だぞ……!」
「だからこそです」
司法卿は静かに言った。
「入口の記録すら歪めようとする者に、国の門は預けられません」
殿下は私を睨みつけた。
その目は怒りに満ちていた。
けれど、私は目を伏せなかった。
衛兵が、オスカー殿下とロザリー様を囲んだ。
殿下は最後に吐き捨てた。
「受付嬢ごときが……!」
私は台帳を抱えたまま、頭を下げた。
「はい。受付嬢です」
そして、言った。
「ですから、通ったものと通らなかったものだけは、間違えません」
それから、少しだけ息を吸う。
「通っていない方を通ったことにしろと命じた方のお名前も、間違えません」
その日のうちに、オスカー殿下は王太子の座を退けられた。
オフィーリア様に対する虚偽の告発、および密会疑惑の捏造。王宮の夜会の記録改竄の強要。王宮職員である受付嬢への買収と脅迫。——侯爵令嬢を不当に貶めるだけでなく、隣国との関係に悪影響を及ぼし、公の記録を歪めようとした罪は、あまりにも重かった。
ロザリー様も、虚偽告発と偽装工作の罪で、王都から追放された。
オフィーリア様の名誉は回復され、グランヴィル侯爵家には正式な謝罪と賠償がなされた。
そしてなぜか私は、王宮の受付係の職を解かれた。
職を失ってしまった。
そう思った。
けれど、それは罰ではなかった。
「リネット・アシュフォード」
数日後、オフィーリア様は私を呼び出し、静かに微笑んだ。
「私の文書官になっていただけませんか」
「私が、ですか?」
「ええ。あなたは、誰も見ていない場所でも、ご自身のお仕事にしっかりと向き合ってらっしゃいました。それに……」
オフィーリア様が私に微笑む。
「あなたがいなければ、私は二度と家に帰れなかったかもしれません」
文書官の俸給は、王宮受付係の三倍だった。
三倍。
私は一瞬、返事を忘れかけたが、慌てて首を縦に振る。
「けれど、私を助けてくださったからではありませんよ。あなたのような方に、私の家の記録を預けたいのです」
そう言ってまたオフィーリア様は微笑んだ。
その日の帰り、母の薬を買った。
いつもなら値段を見て手を伸ばすのを躊躇う薬を、初めて迷わず手に取ることができた。
母は驚いた顔で、私に言った。
「ずいぶん立派な仕事をしたのね」
私は少し考えて、首を横に振った。
「いつもの仕事をしただけです」
夜会の受付嬢など、誰も見ていない。
けれど、私は見ていた。
誰が入り、誰が出たのか。
そして誰が嘘を通そうとしたのか。
だからこれからも、私は記録する。
華やかな場所の端で。誰にも見られていなくとも。
受付嬢の仕事は一つだけ。
入口で、正確に記録をすることだけなのだから。
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