第九話 殿下に舞台を頼むのは、ちょっと悔しい
翌朝、厨房に来ると、グレンがいつもより早く来ていた。
私が扉を開けると、グレンが鍋を磨きながら振り返った。一言だけ言った。
「昨日のお茶会、どうでしたか」
「……よくご存知ですね」
「王宮は狭いです」
グレンが鍋を棚に戻した。「それで」
「宣言してきました」と私は言った。「一週間後に、ここで作った菓子を披露する——と」
グレンの眉が、ゆっくりと上がった。ゆっくり、ゆっくりと上がって、限界まで来たところで止まった。
「……一週間後に」
「問題ありますか」
「ないとは言えませんが」とグレンは少し考えてから言った。「……なくもないです」
「率直な感想をお聞きしてもよいですか」
「できます」
「できますか」
「できますが……」グレンが太い腕を組んだ。「令嬢様のことですから、できないとは言いたくない」
(この人は本当に、話が早い。そして少し欲張りだ)
「材料を揃えていただけますか。リストを出します」
「わかりました」
グレンが再び鍋に向かった。その背中が、どこか気合いを入れ直したように見えた。
私も作業台に向かいながら、頭の中でメニューを組み立て始めた。一週間。使える食材。グレンと料理人たちの人数と技量。この世界に存在しない製法で、何を、どの順番で、どこまで仕上げるか。
前世で言えば、一人で企画書を書いて、当日の進行まで組む仕事だ。締め切りが七日後で、チームは初日から全員が素人。それでも「できます」と言った以上、やるしかない。
(前世の経験が、まさかこんな形で役に立つとは)
計算をしていたとき、厨房の扉が開いた。
珍しいことに、殿下だった。
廊下から「通りかかる」のではなく、扉を開けて中に入ってきた。グレンが振り返り、料理人たちが一斉に手を止めて礼をする。殿下は軽く手を上げて制してから、まっすぐ私を見た。
「昨日のお茶会。何かあったか」
「……よくご存知ですね」
「王宮は狭い」
(グレンと同じ台詞だ)
私は手を止めずに答えた。「少し、宣言しすぎてしまいました」
「宣言」
「一週間後に、私の菓子をお披露目する——と。ヴァネッサ夫人のお茶会で」
殿下が少しの間、黙っていた。
料理人たちが全員、磨く必要のない鍋やら皿やらを熱心に磨き始めた。グレンだけは作業を続けながら、耳だけこちらに向けている気配がした。
「……何人呼ぶつもりだ」
「できれば、外交使節を含む公式な場で行いたいのです。そちらの……手配が、必要でして」
言いながら、自分でも「これはずいぶん大きなことを頼んでいるな」と思った。
婚約は保留中だ。解消するとも継続するとも決めていない、あやふやな状態だ。その相手に、王宮の公式な場の手配を頼む。普通に考えれば、かなり図々しい。前世の感覚でいえば、異動したばかりの部署の先輩に「来週の大型プレゼン、会議室と外部の客ごと抑えてもらえますか」と頼むようなものだ。
(でも、他に頼める人間がいない)
貴族社会において、外交使節を呼べる立場の人間は限られている。公爵家の私では足りない。ここは率直に頼むしかない。
殿下は一言も遮らずに聞いていた。
「……わかった」
それだけ言った。
「……えっ」
「手配する。一週間後、晩餐会の形で場を設ける」
「よろしいのですか。急な話ですし、外交筋への連絡も——」
「ヴァネッサ夫人の件は、以前から目をつけていた」と殿下は静かに言った。「フォルカー家が動くのは想定の範囲だ。むしろ、今回は好機だ」
「……好機、とは」
「公式な場で白黒つけるなら、こちらにとっても悪くない」
殿下はそれだけ言って、扉の方へ向かった。
私は思わず声をかけた。「殿下」
「なんだ」
「……頼るつもりは、なかったんですが」
言葉が、少し間抜けだった。一週間後に晩餐会を開いてもらうと決まった後で言う台詞ではない。でも他に言い方が思いつかなかった。感謝とも謝罪とも違う、何か——そういうものが口をついて出た。
殿下が振り返った。
「頼るのと甘えるのは違う」
静かに、でも確かに言った。
「必要なら頼め。それだけだ」
扉が閉まった。
しん、と厨房が静まり返った。
料理人たちが全員、まだ鍋を磨いていた。全員の肩が、微妙な角度でこちらに向いていた。聞いていた、という顔を必死に隠している。グレンだけが手を動かさずにこちらを見ていた。その口元が、ゆっくりと動いていた。
「……グレン」
「なんですか」
「笑わないでください」
「笑っていません」
「笑っています」
グレンが「失礼しました」と言って、鍋に向き直った。その肩は、まだかすかに揺れていた。
(……加藤先輩は、いつもこういうことを言っていた)
前世でも、締め切り前に「一人でやります」と言い張っていた私に、先輩はいつも同じことを言った。「抱え込むのと自立するのは別の話だぞ」と。あの人も、言葉が少なかった。でも少ない言葉が、毎回なぜかきれいに急所を突いてきた。いつも過不足なく、必要なことだけを言った。
今の殿下も、同じだった。
(前世と今世で、二回も同じ人に急所を突かれている。二回分まとめて効いている気がする)
私は小さくため息をついて、作業を再開した。メニューを絞り出す作業は続く。本番まで七日。悩んでいる時間はない。
*
一時間ほどして、殿下がまた扉を開けた。
片手で扉を押さえたまま、中には入らずに言った。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「一週間で、何を作るつもりだ」
私は少し考えた。いつもなら「様子を見ながら」とか「材料次第で」とか、条件をつけて答えるところだ。何かが失敗したときの退路を残して、慎重に言葉を選ぶ。それが前世の社会人として身についたやり方だった。
でも今回は——
「全部です」
迷わなかった。
殿下が、わずかに目を細めた。
「全部」
「前世で作ってきたもの、全部です。この世界にないものを、全部持ち込みます。一週間あれば足ります」
断言した。自分でも少し驚いた。
殿下は何も言わなかった。数秒間、こちらを見ていた。
それから扉を閉めた。その直前に——ほんの少し、口元が動いた気がした。笑った、とは言いきれない。でも確かに、何かが動いた。
料理人の一人が「今、殿下……」とつぶやいた。
「見ていません」と私は言った。
嘘だった。




