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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第七話 得体のしれない黒い菓子

 噂というのは、思いのほか早く広まるものらしい。


 気づいたのは、リリが青い顔で自室に飛び込んできた日のことだ。


「セシル様、大変です!」


「何がですか」


「噂が……噂が流れているんです」


 リリが息を整えながら言った。「カルドア公爵令嬢様が、第二王子殿下に毒を盛ろうとしている——という噂です」


 私は刺繍の手を止めた。


「……毒」


「はい。その、宮廷で。何人かの侍女の間で、すでに……」


 リリが言いづらそうに続ける。「殿下が毎日、厨房の前を通りかかっているということが知られていて……そこでセシル様が差し入れていると……それが」


「それが、毒だと」


「黒い、見たことのない菓子を食べさせている、と。宮廷医には可可(カカオ)という薬草を使っているという話もあって……薬草を大量に摂取させるのは毒殺と同じだ、という人がいて……」


 私はしばらく黙った。


 (可可(カカオ)が毒……)


 前世の私なら、一人で年間三キログラムは食べていた。バレンタインの時期に自分用にトリュフを作り、誕生日にガトーショコラを焼き、深夜にチョコレートバーを(かじ)りながら締め切り前の書類を仕上げていた。あれが毒なら前世の私はとっくに死んでいる。


 (——だが、ここは現代日本ではない)


 私は持っていた刺繍針を、ゆっくりと布に刺して、手を止めた。


 王族への毒殺疑惑。もしこれが公の場で正式に追及されれば、婚約の保留どころの話ではない。カルドア公爵家への反逆罪。家名の失墜。最悪の場合は——


 (落ち着け。まだ「噂」の段階だ)


 背筋が冷たくなるのを感じながら、私は意識的に呼吸を一つ整えた。前世で身に()みついた習慣だ。締め切りが重なって頭が白くなりそうなとき、まずやることは「最悪を想定して、逆算して、今できることに絞る」——それだけだ。


 現状:噂が流れている。出所はおそらく特定できる。公式な追及はまだない。


 つまり、今の段階ではまだ動ける。


 私は前世で培った「最悪の事態を想定して動く」社畜のスイッチを、静かにオンにした。


 「……なるほど」


 私はわざとゆっくりと、刺繍の続きを始めた。


「セシル様、お怒りにならないんですか?」


「怒るより先に、整理したいことがあります」


 リリが「はあ」と首をかしげた。


 整理すべきことは、一つだ。誰が流したか——ではなく、誰が流せる立場にいたか。


 (ヴァネッサ伯爵夫人)


 昨日の廊下での会話が、頭に蘇る。あの人は厨房の方角を「聞いた」と言った。聞いたということは、誰かから報告を受けている。宮廷内に情報源がいる、ということだ。


 そして「ご婚約中の殿下もご存知なのかしら」という一言。あれは探りではなく、すでに知った上での確認だったのかもしれない。


 「噂の出所に心当たりはありますか」とリリが聞いた。


「ないことはないですね」


「……もしかしてヴァネッサ伯爵夫人様ですか」


 私は少し驚いてリリを見た。「なぜわかったんですか」


「昨日廊下でお会いになっていたと聞いたので。あの方、情報収集がお得意らしくて……侍女仲間でも有名なんです」


 (案外、こういう情報はリリの方が詳しい)


 前世でも、社内の噂は総務の派遣さんが一番早く知っていた。情報は権力の近くではなく、場を動き回る人間のところに集まるらしい。今世でも同じようだ。



 問題は、噂の内容だった。


 「毒殺疑惑」——言葉だけ聞けば物騒だが、根拠を確認すると笑いを(こら)えるのに苦労した。


 根拠その一。この世界で流通していない食材を使っている。


 (可可(カカオ)は南方の港から入ってくる珍しい豆だ。確かに流通量は少ない)


 根拠その二。見たことのない黒い色をしている。


 (それはチョコレートの色だ。毒の色じゃない)


 根拠その三。食べた殿下が三秒間動かなくなった。


 (あれはおいしくて固まっていたんだ)


 どれ一つとして「毒だ」という証拠にならない。だが逆に言えば、この世界の人間が見れば「怪しい」と思うには十分な状況が揃っていた。


 私はため息をついた。


 「前世の知識は、チートのつもりで使っていたが、怪しまれる要素でもあったか」


「え、何かおっしゃいましたか?」


「なんでもないです」


 リリが心配そうな目でこちらを見ている。十七歳の侍女にこの複雑な事情を全部説明する気にはなれなかった。



 夕方になって、殿下に報告すべきかどうか迷った。


 婚約は「保留」だ。しかし同じ屋根の下、少なくとも同じ王宮の中で関係者として暮らしている。自分についての噂が広まっているなら、相手に伝える義務くらいはある。


 それに——


 (殿下が知らないままなのは、少し居心地(いごこち)が悪い)


 なぜ居心地が悪いのかは、深く考えないことにした。


 使いを出して、殿下の執務室を訪ねた。


 扉を開けると、殿下は書類を机に置いて、こちらを見た。


「何かあったか」


「少し、お耳に入れたいことがあって」


 私は短くまとめて報告した。噂の内容。その出所として考えられる人物。自分としての見解——これはおそらく、婚約に対する外からの圧力だということ。


 殿下は報告の間、一言も遮らずに聞いていた。


「……わかった」と殿下は言った。「対処は?」


「今のところ、様子見です。ただ——」


「ただ?」


「ヴァネッサ伯爵夫人から、何か動きがあるかもしれないと思っています」


 殿下がわずかに目を細めた。灰色の目が、少しだけ鋭くなる。


「フォルカー家か」


「御存知ですか」


「宮廷内で知らない者はいない。……君は、どう動くつもりだ」


 私は少し考えた。


「まだ決めていません。向こうが動くまで待ってから、考えます」


 殿下は何も言わなかった。何かを考えるように、少しだけ間を置いた。


「……無理はするな」


 とても静かな声だった。


 私は礼をして、執務室を出た。廊下に出てから、その一言をもう一度、頭の中で繰り返した。


 (無理はするな)


 前世の加藤先輩は、締め切り前に私が無理をしていても何も言わなかった。ただコーヒーを置いていった。


 今の殿下は、言葉で言った。


 (また、変わっている)



 翌朝。


 リリが一通の封書を持ってきた。上品な藤色(ふじいろ)の封蝋。


「ヴァネッサ伯爵夫人からのお手紙です」


 開封すると、流麗な文字でこう書かれていた。


 ——来週の昼に、私のお茶会へぜひお越しください。先日のご無礼をお()びしたく。


 「無礼をお詫び」——昨日廊下で探りを入れてきた行為を、形式上は詫びている。


 (本当に詫びる気なら招待状など出さない。つまり、これはお茶会という名目の、何かだ)


 私は封書をテーブルに置いて、少しだけ目を閉じた。


 前世では、こういう「形だけ丁寧な呼び出し」は、だいたい一種類しかなかった。会議室に呼ばれて、複数の上席から一斉に詰められる、あれだ。


 でも今回は違う。あのときは逃げることもできなかった。今回は、逃げなくていい。


 私は封書を手に取って、返事の紙を用意した。


 ——謹んでお受けいたします。

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