第六話 毎日来るのはなぜですか
翌日。
厨房で作業を始めてしばらくしたとき、扉の外に人の気配がした。
料理人の一人が気づいて、首をわずかに動かした。私も手を止めずに視線だけ扉の方へ向ける。
廊下に、殿下が立っていた。
扉は開いていない。廊下の端で、こちらには背を向けて、窓の外を眺めている。その佇まいはいつも通り完璧で、ここへ来た理由など何もない——という顔をしていた。
(……「通りかかった」のか)
私は作業を続けながら、内心でため息をついた。
声はかけなかった。かけても「通りかかっただけだ」と言うに決まっている。そしてそれ以上の言葉は出てこない。前世の加藤先輩もそうだった。用があるわけでも、用がないわけでもない、ただそこにいる——というあの距離感が、今の殿下とぴたりと重なる。
厄介だ、と思う。顔だけ似ているなら、まだ割り切れた。
事実、しばらくして殿下は廊下の奥へ消えていった。
グレンが横目でこちらを見た。
私は何も言わなかった。グレンも何も言わなかった。
ただ、鍋をかき混ぜるグレンの口元が、かすかに動いた気がした。
*
二日目。
今日は焼きりんごの砂糖がけに挑戦していた。林檎の芯をくり抜いて、蜂蜜と砂糖を詰めて、バターを薄く塗って焼く。前世では秋になると必ず作っていた。この世界にも林檎はある。材料として問題ない。
石窯に入れると、しばらくして——砂糖と蜂蜜が熱で溶けて林檎に馴染んでいく、甘くて少し焦げた芳醇な香りが厨房に満ちてきた。
若い料理人が鼻をひくつかせて手を止めた。グレンまで一瞬、鍋の前で動きを止めた。
林檎が焼けていく匂いは、どの世界でも人の手を止めるらしい。
焼き上がりを取り出していると、また扉の外に気配がした。
昨日と同じ場所に、殿下がいた。
今日は窓ではなく、廊下に貼られた王宮の案内図を眺めている。二年間この王宮に住んでいる人が、今さら案内図を読む理由は何もない。
料理人たちも今日は気づいていた。全員が「見てはいけない」という顔で手だけを動かしていた。
「……カルドア公爵令嬢様」
若い料理人が小声で私の袖を引いた。「声をかけなくていいんですか」
「いいです」
「でも殿下が——」
「通りかかっているだけです」
「そうですか」と若い料理人は引き下がった。しかしどこか釈然としない顔だった。
殿下は五分ほどして、また廊下の奥へ消えた。
グレンが今度は完全に口元をほころばせていた。私はそれを視界の端で確認して、何も言わないことにした。
言ったところで、この人は「そうですか」しか言わないに決まっている。
*
三日目。
昨夜、布団の中で一時間ほど悩んだ。
「気づいていないふりを続ける」か「折れて差し出す」か——社会人的に考えれば、答えは明白だ。相手が何かを求めて三日間通い続けているなら、素直に渡す方が互いの時間を無駄にしない。
(でも気づいてしまったら、負けな気がする)
これは感情の問題だ。論理ではない。
殿下が毎日「通りかかる」のは、昨日のチョコレートケーキが目当てだろう。それはわかっている。わかっているが、「わかってます、どうぞ」と差し出すのと、「余りものです」と押しつけるのでは、微妙に違う。前者だとこちらが用意していたことがバレる。後者なら、偶然差し出しただけだ。
(……前世でも、こういう些細なことで悩んでいたような気がする)
結論を出せないまま朝になって、厨房に来た。
今日は昨日の焼きりんごのアレンジ版——りんごを薄く切って砂糖と重ね、パイ生地で包んで焼いたものだ。この世界のパイとは全然別物で、層が何十にも分かれて、切ると断面がはらりと崩れる。
石窯から取り出したとき、グレンがしばらく無言で断面を眺めた。「……なんで崩れるんだ」「層が剥がれるようにできているからです」「令嬢様の作るものは、毎回なんだ、こう……」「こう、なんですか」「わからなくさせる」
(褒め言葉として受け取っておく)
オーブンから取り出した焼きりんごパイを一切れ、皿に乗せた。
今日の殿下は、廊下の天井の漆喰の模様を観察していた。三日目にして鑑賞対象がなくなってきたらしい。
(さすがに忍びない)
私は皿を持って、厨房の扉を開けた。
「殿下」
殿下が振り返った。無表情だった。
「何かご用でしょうか」
「……通りかかっただけだ」
(三日間、同じ台詞だ)
「そうですか」と私は言った。「では、これはただの余りものです」
皿を差し出した。殿下が一瞬、私を見た。
それから、黙って受け取った。
「……ありがとう」
とても小さな声だった。
廊下の向こうへ歩いていく背中を見送りながら、私は扉を閉めた。
振り返ると、グレンが鍋の前で腕を組み、こちらを見ていた。珍しいことに、口元が完全にほころんでいた。
「……令嬢様」
「なんですか」
「あの殿下を、三日で懐かせましたか」
「懐かせてません」
「そうですか」
グレンは鍋に向き直った。その肩が、かすかに揺れていた。料理人たちも全員、背中を向けたまま肩を震わせていた。
(……全員で笑わないでほしい)
私は作業台に向かいながら、そっと息をついた。
殿下が「ありがとう」と言った。
前世の加藤先輩が、自動販売機のコーヒーを机に置いてくれた日——あの日だって、先輩は何も言わなかった。「どうぞ」とも「飲めよ」とも言わずに、ただ置いていった。受け取ったこちらも何も言えなくて、結局二人ともそれ以上何も言わないまま、また仕事に戻った。
それが先輩のやり方で、それが私のやり方だった。
でも今の殿下は、「ありがとう」と言った。
(……少し、変わったのかもしれない。どちらが、とは言わないが)
答えが出ないまま、私は次の作業に戻った。どこか、胸の奥が静かに温かかった。
*
その日の帰り際。
王宮の正門へ向かう廊下を歩いていると、向こうから数人の貴婦人たちが連れ立って歩いてくるのが見えた。
先頭の女性が、私に気づいて目を細めた。
五十代ほどの、上品な装いの女性だ。柔らかく微笑んでいる。でもその目は、笑っていない。
「あら、カルドア公爵令嬢様。こんなところで」
すれ違いざま、夫人がふと足を止めた。柔らかく微笑んだまま、小首をわずかに傾げる。その鼻先が——ほんの少し、動いた気がした。
「ヴァネッサ伯爵夫人」
私は礼をした。社交界の実力者、ヴァネッサ=フォルカー伯爵夫人。息子を第二王子の側近に据えようと画策しているという話は、以前から耳に入っていた。
「……甘く、香ばしい匂いがいたしますわね」
夫人が扇子を開いて、口元へ添えた。その目は、笑っていない。
「王宮の北棟にいらっしゃったと聞きましたが……まさか、厨房の方面でしょうか?」
(しまった。焼きりんごの香りが移っている)
ドレスか、あるいは髪か。砂糖と果実が焼ける甘い香りは、気をつけていても布に染みつく。前世では「仕事終わりにスイーツの匂いがする」と電車の中で笑われたことがあった。今世でそれを突かれるとは思っていなかった。
私は内心の焦りを完璧な笑顔で覆い隠し、優雅に礼をした。
「ええ、少し」
「まあ」と夫人は扇子の陰でかすかに笑った。「令嬢様が厨房に……珍しいこともあるものですね。ご婚約中の殿下もご存知なのかしら」
一瞬だけ、空気が澱んだ。
「ご存知」——という言葉の重みが、微妙に普通ではない。知っている、ではなく、知らされているか、という含みがある。
「殿下にはご報告しております」
「まあ、それは安心しましたわ」
夫人はそう言って、また微笑んだ。完璧に優雅な笑顔だった。
(この人は、なんでも知っている)
私は礼をして、その場をやり過ごした。
廊下の角を曲がりながら、さりげなく振り返った。
夫人がまだ、こちらを見ていた。
扇子を口元に添えたまま、何かを考えるように——静かに、ずっと、こちらを見ていた。




