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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第六話 毎日来るのはなぜですか

 翌日。


 厨房で作業を始めてしばらくしたとき、扉の外に人の気配がした。


 料理人の一人が気づいて、首をわずかに動かした。私も手を止めずに視線だけ扉の方へ向ける。


 廊下に、殿下が立っていた。


 扉は開いていない。廊下の端で、こちらには背を向けて、窓の外を眺めている。その(たたず)まいはいつも通り完璧で、ここへ来た理由など何もない——という顔をしていた。


 (……「通りかかった」のか)


 私は作業を続けながら、内心でため息をついた。


 声はかけなかった。かけても「通りかかっただけだ」と言うに決まっている。そしてそれ以上の言葉は出てこない。前世の加藤先輩もそうだった。用があるわけでも、用がないわけでもない、ただそこにいる——というあの距離感が、今の殿下とぴたりと重なる。


 厄介だ、と思う。顔だけ似ているなら、まだ割り切れた。


 事実、しばらくして殿下は廊下の奥へ消えていった。


 グレンが横目でこちらを見た。


 私は何も言わなかった。グレンも何も言わなかった。


 ただ、鍋をかき混ぜるグレンの口元が、かすかに動いた気がした。



 二日目。


 今日は()きりんごの砂糖(さとう)がけに挑戦していた。林檎の(しん)をくり抜いて、蜂蜜と砂糖を詰めて、バターを薄く塗って焼く。前世では秋になると必ず作っていた。この世界にも林檎はある。材料として問題ない。


 石窯に入れると、しばらくして——砂糖と蜂蜜が熱で溶けて林檎に馴染(なじ)んでいく、甘くて少し焦げた芳醇(ほうじゅん)な香りが厨房に満ちてきた。


 若い料理人が鼻をひくつかせて手を止めた。グレンまで一瞬、鍋の前で動きを止めた。


 林檎が焼けていく匂いは、どの世界でも人の手を止めるらしい。


 焼き上がりを取り出していると、また扉の外に気配がした。


 昨日と同じ場所に、殿下がいた。


 今日は窓ではなく、廊下に貼られた王宮の案内図を眺めている。二年間この王宮に住んでいる人が、今さら案内図を読む理由は何もない。


 料理人たちも今日は気づいていた。全員が「見てはいけない」という顔で手だけを動かしていた。


「……カルドア公爵令嬢様」


 若い料理人が小声で私の袖を引いた。「声をかけなくていいんですか」


「いいです」


「でも殿下が——」


「通りかかっているだけです」


「そうですか」と若い料理人は引き下がった。しかしどこか釈然としない顔だった。


 殿下は五分ほどして、また廊下の奥へ消えた。


 グレンが今度は完全に口元をほころばせていた。私はそれを視界の端で確認して、何も言わないことにした。


 言ったところで、この人は「そうですか」しか言わないに決まっている。



 三日目。


 昨夜、布団の中で一時間ほど悩んだ。


 「気づいていないふりを続ける」か「折れて差し出す」か——社会人的に考えれば、答えは明白だ。相手が何かを求めて三日間通い続けているなら、素直に渡す方が互いの時間を無駄にしない。


 (でも気づいてしまったら、負けな気がする)


 これは感情の問題だ。論理ではない。


 殿下が毎日「通りかかる」のは、昨日のチョコレートケーキが目当てだろう。それはわかっている。わかっているが、「わかってます、どうぞ」と差し出すのと、「余りものです」と押しつけるのでは、微妙に違う。前者だとこちらが用意していたことがバレる。後者なら、偶然差し出しただけだ。


 (……前世でも、こういう些細なことで悩んでいたような気がする)


 結論を出せないまま朝になって、厨房に来た。


 今日は昨日の焼きりんごのアレンジ版——りんごを薄く切って砂糖(さとう)と重ね、パイ生地で包んで焼いたものだ。この世界のパイとは全然別物で、層が何十にも分かれて、切ると断面がはらりと崩れる。


 石窯から取り出したとき、グレンがしばらく無言で断面を眺めた。「……なんで崩れるんだ」「層が剥がれるようにできているからです」「令嬢様の作るものは、毎回なんだ、こう……」「こう、なんですか」「わからなくさせる」


 (褒め言葉として受け取っておく)


 オーブンから取り出した焼きりんごパイを一切れ、皿に乗せた。


 今日の殿下は、廊下の天井の漆喰の模様を観察していた。三日目にして鑑賞対象がなくなってきたらしい。


 (さすがに忍びない)


 私は皿を持って、厨房の扉を開けた。


「殿下」


 殿下が振り返った。無表情だった。


「何かご用でしょうか」


「……通りかかっただけだ」


 (三日間、同じ台詞だ)


「そうですか」と私は言った。「では、これはただの余りものです」


 皿を差し出した。殿下が一瞬、私を見た。


 それから、黙って受け取った。


「……ありがとう」


 とても小さな声だった。


 廊下の向こうへ歩いていく背中を見送りながら、私は扉を閉めた。


 振り返ると、グレンが鍋の前で腕を組み、こちらを見ていた。珍しいことに、口元が完全にほころんでいた。


「……令嬢様」


「なんですか」


「あの殿下を、三日で懐かせましたか」


「懐かせてません」


「そうですか」


 グレンは鍋に向き直った。その肩が、かすかに揺れていた。料理人たちも全員、背中を向けたまま肩を震わせていた。


 (……全員で笑わないでほしい)


 私は作業台に向かいながら、そっと息をついた。


 殿下が「ありがとう」と言った。


 前世の加藤先輩が、自動販売機のコーヒーを机に置いてくれた日——あの日だって、先輩は何も言わなかった。「どうぞ」とも「飲めよ」とも言わずに、ただ置いていった。受け取ったこちらも何も言えなくて、結局二人ともそれ以上何も言わないまま、また仕事に戻った。


 それが先輩のやり方で、それが私のやり方だった。


 でも今の殿下は、「ありがとう」と言った。


 (……少し、変わったのかもしれない。どちらが、とは言わないが)


 答えが出ないまま、私は次の作業に戻った。どこか、胸の奥が静かに温かかった。



 その日の帰り際。


 王宮の正門へ向かう廊下を歩いていると、向こうから数人の貴婦人たちが連れ立って歩いてくるのが見えた。


 先頭の女性が、私に気づいて目を細めた。


 五十代ほどの、上品な装いの女性だ。柔らかく微笑んでいる。でもその目は、笑っていない。


「あら、カルドア公爵令嬢様。こんなところで」


 すれ違いざま、夫人がふと足を止めた。柔らかく微笑んだまま、小首をわずかに(かし)げる。その鼻先が——ほんの少し、動いた気がした。


「ヴァネッサ伯爵夫人」


 私は礼をした。社交界の実力者、ヴァネッサ=フォルカー伯爵夫人。息子を第二王子の側近に据えようと画策(かくさく)しているという話は、以前から耳に入っていた。


「……甘く、香ばしい匂いがいたしますわね」


 夫人が扇子を開いて、口元へ添えた。その目は、笑っていない。


「王宮の北棟にいらっしゃったと聞きましたが……まさか、厨房の方面でしょうか?」


 (しまった。焼きりんごの香りが移っている)


 ドレスか、あるいは髪か。砂糖と果実が焼ける甘い香りは、気をつけていても布に染みつく。前世では「仕事終わりにスイーツの匂いがする」と電車の中で笑われたことがあった。今世でそれを突かれるとは思っていなかった。


 私は内心の焦りを完璧な笑顔で覆い隠し、優雅に礼をした。


「ええ、少し」


「まあ」と夫人は扇子の陰でかすかに笑った。「令嬢様が厨房に……珍しいこともあるものですね。ご婚約中の殿下もご存知なのかしら」


 一瞬だけ、空気が(よど)んだ。


 「ご存知」——という言葉の重みが、微妙に普通ではない。知っている、ではなく、知らされているか、という含みがある。


「殿下にはご報告しております」


「まあ、それは安心(あんしん)しましたわ」


 夫人はそう言って、また微笑んだ。完璧に優雅な笑顔だった。


 (この人は、なんでも知っている)


 私は礼をして、その場をやり過ごした。


 廊下の角を曲がりながら、さりげなく振り返った。


 夫人がまだ、こちらを見ていた。


 扇子を口元に添えたまま、何かを考えるように——静かに、ずっと、こちらを見ていた。

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