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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第五話 差し入れるつもりじゃなかった

 翌日の午後、厨房に向かうと、グレンが棚の奥から何かを取り出してきた。


 茶色く乾燥した、豆のような塊だ。表面がざらついていて、見た目だけでは食べものとは思えない。グレンが無造作に手のひらに乗せてくる。


 私はそれを見た瞬間、息をのんだ。


 (……可可(カカオ)だ)


「南方の港から入ってくる珍しい豆だ」とグレンは言った。「発酵させて乾燥したものらしいが、そのままでは苦くて食えたものじゃない。ずっと薬扱いで棚に眠っていた。昨日から、令嬢様なら何かに使えるかと思って引っ張り出してはみたんだが」


 グレンが少し()れくさそうに鼻を鳴らした。昨日の夜、気になって棚を掘り返したのだろう。この人は素直ではないが、料理への好奇心は本物だ。


「使えます」


 間を置かずに答えた。


「苦いんだぞ」


「砂糖と合わせれば——別のものになります」


「……どんなものに」


「前世で言えば、チョコレート菓子です。この世界の言葉では……まだ名前がありません」


 グレンが私を見た。訝しみながらも、好奇心が勝っている顔だった。


「……やってみろ」


 (前世では年間三キログラムは食べていた。たぶん)


 もちろん口には出さなかった。



 作業は、地道だった。


 まず豆を(くだ)く。粗い欠片になるまで木槌で叩いて、それを鉄の()り鍋に入れて弱火にかける。じわじわと熱が入るにつれて、茶色い豆から脂が滲み出してくる。この世界には前世のような製菓用チョコレートはない。だから豆から全部やるしかない。


 炒った豆を石臼(いしうす)で丁寧にすり潰す。粒が消えて、なめらかなペーストになるまで何度も繰り返す。重くてきつい作業だが、やめるわけにいかない。


 グレンが一言も発さず横で見ていた。料理人たちも、気づけばまた集まってきていた。昨日より人数が多い気がした。噂が広まったらしい。


 ペーストにバターと砂糖を加えて練り合わせる。さらに卵と粉を合わせて、()き型に流し込む。


 黒い生地が石窯(オーブン)に入った。


 扉を閉めると、しばらくして——厨房全体に、甘苦い香りが広がり始めた。


 この世界では嗅いだことのない類の匂いだ。カカオが熱で変化するときの、複雑で深い、どこか暗くて甘い香り。温かさがあるのに重く、甘いのに切ない、そういう匂い。


 厨房がぴたりと静まり返った。


 全員が鼻を動かして、顔を見合わせていた。


「……なんだ、この匂いは」


 グレンが小さく言った。


可可(カカオ)が熱で変化するときの香りです」と私は答えた。「前世では、この匂いがしてきたら心が浮き立つ——そういうものでした」


「食えるのか、これ」


「食べてみてください」


 焼き上がったケーキを取り出した。黒みがかった茶色の、少し(つや)のある表面。型から外すと、かすかに湯気が立った。グレンが一切れ受け取って、口に入れた。


 五秒間、黙っていた。


「……苦い」とグレンはようやく言った。「苦いが……後から甘さが来る。なんだ、この……舌の上で重みが変わっていく感じは。沈んでいたものが、じわじわ溶けていくような——」


可可(カカオ)バターが溶けているからです。温度で状態が変わる」


「カカオ……バター……」


 グレンが独り言のようにつぶやいて、また一切れ取った。今度は黙って、ゆっくりと噛んでいた。それからもう一切れ。後ろで料理人の一人が「私も……」と手を伸ばしかけて、グレンの横目に気づいて引っ込めた。


 (この人も、おいしいものを黙って確認するタイプだ)


 グレンは最終的に三切れ食べて、「続けろ」とだけ言って鍋に戻っていった。


 褒め言葉だと受け取ることにした。その後、料理人たちが一人ずつ皿の前に並んで、順番に試食していった。誰も何も言わなかったが、全員が黙ったまま二切れ取っていた。



 試作品を皿に並べたとき、リリが厨房に顔を出した。


「セシル様、そろそろお時間ですよ——あ、それ何ですか? すごい色してる」


可可(カカオ)で作った菓子。チョコレートケーキ、と言います」


可可(カカオ)って薬じゃないんですか?」


「甘くしたら菓子になります」


 リリが皿を覗き込んで、目をまるくした。それから「食べていいですか」と聞く前に、もう一切れ取っていた。令嬢の侍女として、ずいぶん遠慮のない娘だ。


 一口かじって——硬直した。


「……甘くて、苦くて……なんか、罪悪感ある感じがします」


「それが正しい感想です」


「え、なんで罪悪感?」


「深夜に食べたくなる味だから」


 (前世でも真夜中に食べるたびに同じことを思っていた。止まらなくなるんだよな)


 さあ片付けよう、と思ったとき——リリが皿を手に、厨房の出口へ向かっていた。


「リリ?」


「廊下に殿下がいらっしゃったので、お届けしてきますね!」


「リリ、待って!」


 私は慌ててエプロンを外し、厨房を飛び出した。


 (どうする。よりによって試作の一発目を。しかもチョコレートケーキを。この世界では見たことのない黒い物体を、無口な第二王子に無許可で届けているんだぞ)


 前世のクレーム対応マニュアルが脳内を駆け巡る。最悪のケースから逆算しろ、というのが社畜の基本だ。


 ケース一:「なんだこの黒い泥みたいなものは」と言われて皿を突き返される。これは最低限許容範囲。


 ケース二:「怪しい食べものを持ち込んだ」と宮廷警備に通報される。弁解に三十分かかる。


 ケース三:苦い、と感じた瞬間に毒を疑われる。チョコレートは苦い。この世界の人間はカカオを知らない。知らない食材+苦味=毒、という連想は、決して的外れではない。


 (最悪だ。なんで止めなかったんだ私は)


 エプロンが廊下の角に引っかかった。剥がして走る。


 とにかく「これは食べられます」と言う。「私が先に毒見をします」と申し出る。令嬢として可能な限り品のある土下座スレスレの謝罪から入る。それしかない。


 前世のクレーム電話対応のときと同じだ。まず謝る、次に説明する、最後にまた謝る。


 そんな社畜的思考をフル回転させながら廊下の角を曲がると——


 殿下が、少し先に立っていた。


 「通りかかっただけ」という顔で廊下の突き当たりの窓を眺めていたが、リリが皿を差し出した瞬間にそちらに目を向けた。無表情のまま皿を受け取って、一口食べて——


 止まった。


 三秒間、何も言わなかった。


 目が、わずかに動いた。口が、ほんの少し開きかけて、また閉じた。無表情は崩れていない。なのに三秒間、確かに止まっていた。


 (……あ、これ加藤先輩と同じ顔だ)


 前世で、先輩が初めて私の手作り菓子を食べたとき——あれは入社三年目の冬だった。残業が続いていた時期で、私は気の迷いで会社の休憩室の机に手作りのクッキーを置いていった。誰が食べてもいいつもりだったのに、気づいたら先輩の前にしかなかった。先輩が気づいて、一口食べて、三秒間止まった。あのとき「表情が変わった」とは言えなかった。でも確かに何かが止まっていた。


 今の殿下の顔が、まったく同じだった。


「……もう一切れある?」


 殿下が、静かに言った。


「……あります」


「持ってきてくれ」


 私はしばらく、その顔を見ていた。無表情なのに、目の奥がわずかに違う。前世でも今世でも、この人はおいしいものを食べると三秒間だけ固まる。それだけのことなのに——なぜか、胸の奥がじわりと温かくなった。


「……ただし」と私は言った。「『普通だった』とは言わせません」


 殿下の目が、かすかに動いた。


 一拍、置いた。


「……そうだな」


 今度は「普通だった」と言わなかった。


 それだけのことが、なぜか廊下の空気をほんの少しだけ変えた気がした。


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