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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第四話 保留中につき、厨房に逃げ込む

 婚約が「保留」になって、三日が経った。


 何も変わっていない。朝食の席で殿下と顔を合わせ、礼をして、必要最低限の言葉を交わして、それぞれの場所へ戻る。傍から見れば、いつも通りの婚約関係に見えるはずだ。


 問題は、傍から見えない部分だった。


 (……なんで今さら、あの顔がこんなに気になるんだ)


 自室に戻ってから、私はベッドの縁に腰を下ろした。頭を抱えたいのをこらえて、天井を見上げる。


 前世の記憶が戻る前は、殿下の顔を見ても何も感じなかった。婚約者として礼儀正しく接して、それで十分だと思っていた。ところが今は、廊下ですれ違うたびに視線がずれる。食事のとき、殿下が静かに書類を読んでいる横顔を見るたびに、前世の記憶が浮かんでくる。


 仕事帰りの自動販売機。二本のコーヒー。「いつも」と言わずに「また」と言わずに、黙って置いていくだけだったあの人。


 あの人が、今は向かいの席で書類をめくっている。


 (これは前世の感情を今世に引きずっているだけだ)


 そう片付けようとするたびに、今朝の殿下の目が浮かぶ。「保留にしよう」と言ったとき、あの灰色の目が何かを考えていた。何を、とは言えない。でも確かに、何かを。


 落ち着かない。


 落ち着かないまま昼を過ぎて、気づいたら夕方になっていた。


 (こういうときは、手を動かすに限る)


 私は立ち上がって、上着を羽織った。



 宮廷の厨房は、王宮の一階、北棟の奥にある。


 貴族が足を踏み入れる場所ではない——というのが、この世界の常識だ。でも私には前世の感覚がある。台所は、気持ちを整える場所だ。何百回も繰り返した手順が、頭の余計な回転を止めてくれる。材料を量る。バターを混ぜる。オーブンの前で待つ。それだけのことで、不思議と頭がからっぽになる。


 前世でも、締め切り前の深夜や、職場で嫌なことがあった日の帰りに、真っ先にスーパーへ寄って材料を買い込んでいた。友人には「お菓子作りが好きなんだね」と言われたが、正確には違う。作ることが好きなのではなく、作っているときの状態が好きなのだ。


 廊下を歩きながら、そんなことを考えた。


 厨房の扉を開けると、夕食の準備中だった厨房が一瞬、静まり返った。


 料理人たちが私を見て、それから互いに顔を見合わせた。


「……カルドア公爵令嬢様?」


 奥から声がした。でかい体に白い調理衣を着た男が、鍋から顔を上げている。宮廷料理長のグレンだ。五十代、(くま)のような体格、職人気質で有名だと聞いていた。


「突然、申し訳ありません」と私は礼をした。「少しの間、厨房をお借りできますか」


 グレンの眉が、ゆっくり上がった。


「……お借りする、とは」


「菓子を作りたいのです」


 沈黙。


 グレンが私を見た。令嬢が厨房に来て菓子を作りたいと言う——何かの冗談を待っているような顔だった。


「恐れながら申し上げますが」とグレンは言った。「ここは王宮の厨房です。令嬢様がいらっしゃる場所では——」


「一時間だけで構いません」


「……はあ」


「作ったものはお渡しします。材料費もお支払いします」


「そういう問題では」


「では実力を見ていただいてから判断してください」


 私はそう言って、グレンの返事を待たずにエプロンを借りた。


 グレンが何か言おうとしていたが、止まった。どこかで「まあ、見ていればいい」と判断したのだろう。豪快な見た目のわりに、話の通じる人らしい。



 まず、バターを取り出した。


 この世界にバタークリームは存在しない。バターそのものはあるが、それを泡立てて砂糖(さとう)と合わせてクリームにするという発想がない。菓子に使う「甘いもの」といえば、砂糖を直接加えるか、果物の煮汁(にじゅう)を使うか——それだけだ。


 私は室温に戻したバターをボウルに入れ、砂糖を加えて混ぜ始めた。


 ただそれだけの作業なのに、厨房が少しずつ静かになっていくのがわかった。料理人たちが、手を動かしながら横目で見ている。しゃもじを持ったまま固まっている者もいる。


 グレンが、鍋から離れてこちらに近づいてくる気配がした。


 バターが白くなる。空気を含んで、ふわりと膨らむ。砂糖の粒が消えて、なめらかになる。泡立てるたびに、甘くこっくりした香りが手元から立ちのぼってくる。


 (……この匂いがいい)


 前世の台所でも、バタークリームを作るとき、いつもこの香りで少し気持ちがほぐれた。記憶と現在が重なって、不思議と落ち着く。


「……なんだ、これは」


 グレンの声だった。


 私は手を止めずに答えた。「バタークリームです。この世界にはないかもしれませんが、前世では普通のものでした」


「前世……」


「気にしないでください。それより」


 私はボウルをグレンに向けた。


「指でとって、食べてみてください」


 グレンが、少し迷ってから人差し指をボウルに入れた。口に持っていって——止まった。


 三秒間、何も言わなかった。


「……甘い」とグレンはようやく言った。「甘いが……なんだ、この、口の中で消えていく感じは」


「空気が入っているからです。バターを泡立てると、こういう食感になります」


「泡立てる……バターを……」


 グレンが独り言のようにつぶやいて、また指をボウルに入れた。今度は黙って食べた。それからもう一度。


 後ろで料理人の一人が、「私も……」と手を伸ばしかけて、グレンの視線に気づいて引っ込めた。


「令嬢様」


「はい」


「これを使って、何を作るつもりですか」


(そう)にしたスポンジ生地に塗り重ねて、ケーキを作ろうと思っています」


「……ケーキ」


「この世界のパウンドケーキとは別物です。軽くて、口の中でとろけるような」


 グレンがしばらく黙っていた。私もボウルを持ったまま待った。厨房の奥でことことと鍋が鳴っている。誰かが唾を呑み込む音がした。


「……好きに使え」


 グレンはそう言って、鍋に戻っていった。


 背中が、少しだけ残念そうに見えたのは、気のせいではないと思う。



 一時間半後。


 スポンジを焼いて冷まして、バタークリームを塗り重ねて、仕上げにベリーのソースを添えた。前世でいう簡易(かんい)なデコレーションケーキだ。この世界の菓子と比べると、見た目だけで別の次元にある。


 グレンが横から覗き込んで、一切れ食べて——長い間、黙っていた。


 その間、後ろで料理人たちが全員こちらに背中を向けて立っていた。気を遣っているのか順番待ちをしているのか、よくわからなかった。


「……令嬢様」


「はい」


「明日も来てよろしいですか」


 私は少し考えてから、頷いた。


「厨房を貸してもらえるなら」


「使え」とグレンは即答した。「……材料が必要なら言え。手配する」


「ありがとうございます」


 帰り道、私は少し、肩の力が抜けた気がした。


 逃げ場ができた。手を動かせる場所ができた。頭が静かになれる時間ができた。


 (……これで少し、落ち着いて考えられる)


 そのはずだった。翌日、殿下が厨房の前を「通りかかる」まで——は。

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