第四話 保留中につき、厨房に逃げ込む
婚約が「保留」になって、三日が経った。
何も変わっていない。朝食の席で殿下と顔を合わせ、礼をして、必要最低限の言葉を交わして、それぞれの場所へ戻る。傍から見れば、いつも通りの婚約関係に見えるはずだ。
問題は、傍から見えない部分だった。
(……なんで今さら、あの顔がこんなに気になるんだ)
自室に戻ってから、私はベッドの縁に腰を下ろした。頭を抱えたいのをこらえて、天井を見上げる。
前世の記憶が戻る前は、殿下の顔を見ても何も感じなかった。婚約者として礼儀正しく接して、それで十分だと思っていた。ところが今は、廊下ですれ違うたびに視線がずれる。食事のとき、殿下が静かに書類を読んでいる横顔を見るたびに、前世の記憶が浮かんでくる。
仕事帰りの自動販売機。二本のコーヒー。「いつも」と言わずに「また」と言わずに、黙って置いていくだけだったあの人。
あの人が、今は向かいの席で書類をめくっている。
(これは前世の感情を今世に引きずっているだけだ)
そう片付けようとするたびに、今朝の殿下の目が浮かぶ。「保留にしよう」と言ったとき、あの灰色の目が何かを考えていた。何を、とは言えない。でも確かに、何かを。
落ち着かない。
落ち着かないまま昼を過ぎて、気づいたら夕方になっていた。
(こういうときは、手を動かすに限る)
私は立ち上がって、上着を羽織った。
*
宮廷の厨房は、王宮の一階、北棟の奥にある。
貴族が足を踏み入れる場所ではない——というのが、この世界の常識だ。でも私には前世の感覚がある。台所は、気持ちを整える場所だ。何百回も繰り返した手順が、頭の余計な回転を止めてくれる。材料を量る。バターを混ぜる。オーブンの前で待つ。それだけのことで、不思議と頭がからっぽになる。
前世でも、締め切り前の深夜や、職場で嫌なことがあった日の帰りに、真っ先にスーパーへ寄って材料を買い込んでいた。友人には「お菓子作りが好きなんだね」と言われたが、正確には違う。作ることが好きなのではなく、作っているときの状態が好きなのだ。
廊下を歩きながら、そんなことを考えた。
厨房の扉を開けると、夕食の準備中だった厨房が一瞬、静まり返った。
料理人たちが私を見て、それから互いに顔を見合わせた。
「……カルドア公爵令嬢様?」
奥から声がした。でかい体に白い調理衣を着た男が、鍋から顔を上げている。宮廷料理長のグレンだ。五十代、熊のような体格、職人気質で有名だと聞いていた。
「突然、申し訳ありません」と私は礼をした。「少しの間、厨房をお借りできますか」
グレンの眉が、ゆっくり上がった。
「……お借りする、とは」
「菓子を作りたいのです」
沈黙。
グレンが私を見た。令嬢が厨房に来て菓子を作りたいと言う——何かの冗談を待っているような顔だった。
「恐れながら申し上げますが」とグレンは言った。「ここは王宮の厨房です。令嬢様がいらっしゃる場所では——」
「一時間だけで構いません」
「……はあ」
「作ったものはお渡しします。材料費もお支払いします」
「そういう問題では」
「では実力を見ていただいてから判断してください」
私はそう言って、グレンの返事を待たずにエプロンを借りた。
グレンが何か言おうとしていたが、止まった。どこかで「まあ、見ていればいい」と判断したのだろう。豪快な見た目のわりに、話の通じる人らしい。
*
まず、バターを取り出した。
この世界にバタークリームは存在しない。バターそのものはあるが、それを泡立てて砂糖と合わせてクリームにするという発想がない。菓子に使う「甘いもの」といえば、砂糖を直接加えるか、果物の煮汁を使うか——それだけだ。
私は室温に戻したバターをボウルに入れ、砂糖を加えて混ぜ始めた。
ただそれだけの作業なのに、厨房が少しずつ静かになっていくのがわかった。料理人たちが、手を動かしながら横目で見ている。しゃもじを持ったまま固まっている者もいる。
グレンが、鍋から離れてこちらに近づいてくる気配がした。
バターが白くなる。空気を含んで、ふわりと膨らむ。砂糖の粒が消えて、なめらかになる。泡立てるたびに、甘くこっくりした香りが手元から立ちのぼってくる。
(……この匂いがいい)
前世の台所でも、バタークリームを作るとき、いつもこの香りで少し気持ちがほぐれた。記憶と現在が重なって、不思議と落ち着く。
「……なんだ、これは」
グレンの声だった。
私は手を止めずに答えた。「バタークリームです。この世界にはないかもしれませんが、前世では普通のものでした」
「前世……」
「気にしないでください。それより」
私はボウルをグレンに向けた。
「指でとって、食べてみてください」
グレンが、少し迷ってから人差し指をボウルに入れた。口に持っていって——止まった。
三秒間、何も言わなかった。
「……甘い」とグレンはようやく言った。「甘いが……なんだ、この、口の中で消えていく感じは」
「空気が入っているからです。バターを泡立てると、こういう食感になります」
「泡立てる……バターを……」
グレンが独り言のようにつぶやいて、また指をボウルに入れた。今度は黙って食べた。それからもう一度。
後ろで料理人の一人が、「私も……」と手を伸ばしかけて、グレンの視線に気づいて引っ込めた。
「令嬢様」
「はい」
「これを使って、何を作るつもりですか」
「層にしたスポンジ生地に塗り重ねて、ケーキを作ろうと思っています」
「……ケーキ」
「この世界のパウンドケーキとは別物です。軽くて、口の中でとろけるような」
グレンがしばらく黙っていた。私もボウルを持ったまま待った。厨房の奥でことことと鍋が鳴っている。誰かが唾を呑み込む音がした。
「……好きに使え」
グレンはそう言って、鍋に戻っていった。
背中が、少しだけ残念そうに見えたのは、気のせいではないと思う。
*
一時間半後。
スポンジを焼いて冷まして、バタークリームを塗り重ねて、仕上げにベリーのソースを添えた。前世でいう簡易なデコレーションケーキだ。この世界の菓子と比べると、見た目だけで別の次元にある。
グレンが横から覗き込んで、一切れ食べて——長い間、黙っていた。
その間、後ろで料理人たちが全員こちらに背中を向けて立っていた。気を遣っているのか順番待ちをしているのか、よくわからなかった。
「……令嬢様」
「はい」
「明日も来てよろしいですか」
私は少し考えてから、頷いた。
「厨房を貸してもらえるなら」
「使え」とグレンは即答した。「……材料が必要なら言え。手配する」
「ありがとうございます」
帰り道、私は少し、肩の力が抜けた気がした。
逃げ場ができた。手を動かせる場所ができた。頭が静かになれる時間ができた。
(……これで少し、落ち着いて考えられる)
そのはずだった。翌日、殿下が厨房の前を「通りかかる」まで——は。




