第三話 二人とも思い出したらしい
翌日。
私は昨日より少し早く王宮に着いた。
東棟への廊下を歩きながら、昨夜考えたことを頭の中で整理する。殿下も婚約について話があった。解消か、継続か——どちらにせよ、今日はきちんと話す。前世の記憶が戻って感情が混乱していること。その状態で婚約を続けるのは相手に誠実ではないと思っていること。だから一度、婚約の解消を考えたいということ。
話の順番まで決めた。気持ちも整理した。
(準備はできている)
そう言い聞かせながら歩いていると、窓の外に中庭が見えた。朝の光の中に、手入れされた植え込みと石畳。この王宮で二年間、婚約者として定期的に顔を出してきた場所だ。でもほとんどの時間、殿下と二人きりで話したことはなかった。公式の場か、晩餐会か、どちらかだった。
(……二年間、何を話していたんだろう)
前世の記憶が戻る前は、それで十分だと思っていた。婚約者として必要な礼儀を果たして、それだけでいいと。でも今は、その二年間がひどく空虚に見える。
三回、ノックした。返事を待って、扉を開けた。
殿下は昨日と同じ場所に立っていた。書類は持っていない。最初から私を待っていたらしかった。
「来たか」
「はい」
私は礼をして、室内に入った。
机の上を確認した。昨日置いていったクッキーの包みが、なかった。
(……食べた)
内心でそう確認した。表情には出さなかった。
「昨日の話の続きだ」と殿下が言った。「先に私から言っていいか」
「いえ」と私はまた言った。「私から先に申し上げます」
「また同じやりとりをするつもりか」
「……今日は譲りません」
殿下が少し間を置いた。それから「わかった」と言って、窓際の椅子に腰を下ろした。聞く姿勢を取った、ということらしい。
私は一度、深く息を吸った。
「三日前に、前世の記憶が戻りました」
静かに、言った。
殿下は何も言わなかった。
「現代日本というところで、会社員として生きていた記憶です。その記憶の中に——殿下によく似た人物がいました。感情が混乱して、今世の殿下への気持ちが前世の記憶と区別できなくなっています。そのような状態で婚約を続けるのは、殿下に対して誠実ではないと思い——」
「セシル嬢」
殿下が、私の名前を呼んだ。静かに、でも確かに遮った。
「……はい」
「田中サリ」
空気が、変わった。
「……え」
「それが、君の前世の名前か」
私は固まった。
私は一度も、前世の名前を口にしていない。
「……なぜ、それを」
「四日前に、私も記憶が戻った」
殿下は静かに言った。灰色の瞳が、まっすぐ私を見ている。
「加藤礼人。それが前世の名前だ」
加藤礼人。
世界が、音を失った気がした。
加藤礼人。加藤先輩。自動販売機のコーヒーを二本持ってきてくれた、あの人。
「……嘘、でしょう」
声が出た。小さくて、かすれていた。
「嘘をついて何になる」
「でも……」
「阿爾珂提斯商会なら知っているか」と殿下が言った。「前世で私が勤めていた会社の名を、この世界の言葉に直せばそうなる。元は阿爾珂那商事という」
阿爾珂那商事。
私が前世で勤めていた会社の、この世界への翻訳名だ。
「……同じ、会社の」
「同じ部署だった。私が三十歳、君が二十八歳のとき」
言葉が出なかった。
二回の人生で、同じ人に出会っていた。前世で好きだったその人が、今世では婚約者の顔をしていた。
目の奥が、じわりと熱くなった。泣くな、と思った。泣く場面じゃない。
「……なぜ」とやっと声が出た。「なぜ、先に言ってくれなかったんですか」
「君も言わなかったろう」
「それは——」
「似た理由だったと思うが」と殿下は静かに続けた。「前世の記憶が戻って、感情が整理できていなかった。その状態で余計なことを言うべきではないと判断した」
余計なこと。
私はその言葉を、しばらく頭の中で転がした。
「……それで」とやがて私は言った。「殿下が婚約について話そうとしていたのは」
「君と同じ理由だ」と殿下は静かに答えた。「前世の記憶が戻って、感情の整理がつかなくなった。そのまま婚約を続けるのは君に対して誠実ではないと思った」
全く同じだった。
二人とも、相手への感情がわからなくなったから、相手のために婚約を解消しようとしていた。
(……間抜けにもほどがある)
私はしばらく沈黙した。殿下も黙っていた。窓の外で風が鳴っている。
「……加藤先輩」
気づいたら、口から出ていた。
殿下の目が、かすかに揺れた。
「……こっちで呼ぶな」
「すみません」
「混乱する」
「……わかりました」
また沈黙。
でも今度の静けさは、昨日までとは違う種類だった。気まずいというより——何か、ほどけたような静けさだ。前世の会社の休憩室で、二人とも作業しながら黙っていた、あのときの空気に、少し似ていた。締め切り前の夜、残業中に隣の席でそれぞれが書類と向き合っていた、あのときの。
あの時間を、懐かしいと思っていた。
今の沈黙も、同じ種類の懐かしさがあった。
「どうするつもりだ」と殿下が言った。「婚約を」
「……正直、まだわかりません」
「そうか」
「殿下は」
殿下はすぐには答えなかった。灰色の目が、窓の外に向いた。光の中で、その横顔が前世の記憶と重なる。会議室の窓際で、同じように遠くを見ていたあの人の顔と。
「……私にも、まだわからない」
それが答えだった。
「では」と私は言った。「いったん保留、ということでどうでしょう」
殿下が私を見た。
「保留」
「婚約を解消するとも継続するとも決めない。少し時間をおいて、お互いに整理する」
殿下はしばらく考えるように黙っていた。
前世の加藤先輩が、困ったときによくやっていた表情と、同じだった。眉をわずかに寄せて、視線を少し下げて、自分の中で何かを検討しているときの顔。三十歳の先輩も、二十歳の殿下も、同じ顔をしていた。
「……わかった」
やがて、短く言った。
「保留にしよう」
「ありがとうございます」
私は礼をして、立ち上がった。帰り際に、ふと思い出して振り返る。
「殿下」
「なんだ」
「昨日の菓子は、おいしかったですか」
一拍。
「……普通だった」
「そうですか」
(絶対嘘だ)
私は内心でそう思いながら、扉を閉めた。
廊下を歩きながら、状況を整理する。婚約は保留になった。相手も前世の記憶を持っていることがわかった。前世で同じ職場の同僚だったこともわかった。
解決したことは何もない。
なのに——頭の中が、昨日よりずっと静かだった。
(まずは今夜も厨房を借りよう)
私は帰りの馬車の中で、次に作るものを考え始めた。




