第二話 婚約破棄しようとしたら
結局、クッキーを持っていくことにした。
自分でも呆れるが、朝になってテーブルの上の包みを見たら、捨てる気になれなかった。持っていくか捨てるかの二択で、なぜか「持っていく」を選んだ自分がいた。
(落ち着け。これは話し合いに行くついでに余り物を処分するだけだ)
馬車の中でそう言い聞かせながら、私は王宮へ向かった。
石畳の廊下を歩くたびに、靴音が響く。東棟の三階、突き当たりの扉。二年間の婚約期間中に数えるほどしか来たことがない場所だ。いつも公式の場か晩餐会か——二人きりで話したことは、ほとんどない。
(……いや、話したことがないから余計に混乱するんだろうな)
前世の加藤先輩のことは知っていた。三年間、同じ部署で働いた。好きだと気づいてからも、一年以上ただ隣にいた。でも今世のファルク殿下とは、必要最低限の会話しかしていない。
似ている顔。似ている物静かさ。でも中身は別人かもしれない。
そう思いながらも——足が止まらないのはなぜだろう。
三回、ノックした。
「どうぞ」
低くて静かな声が返ってくる。
扉を開けると、窓を背にして書類を手にした殿下がいた。黒い髪、灰色の瞳。室内の光の中で、その顔が前世の記憶と重なって——私は一瞬、視線をずらした。
「セシル嬢か。珍しい、予約なしで来るとは」
殿下が書類を机に置いた。訝しむわけでも歓迎するわけでもない、いつもの無表情だ。
「急ぎの用件ができてしまいまして」
私は礼をして、できるだけ落ち着いた声で切り出した。
「殿下、少しよろしいでしょうか。大切な話があります」
一拍の沈黙。
殿下が私を見て、何かをはかるように目を細めた。そして——
「奇遇だな」
静かに、言った。
「実は私も、話があった」
私は、止まった。
(……話?)
「先に私から言っていいか」と殿下は続けた。
「いえ」と私は反射的に言った。「私から先に申し上げます」
「なぜ」
「なぜとは」
「順番にこだわる理由があるのか」
ある。絶対にある。
もし殿下が先に「婚約を正式なものにしたい」などと言い出したら、そのあとで破棄を切り出すのが十倍難しくなる。前世の社会人経験から言えば、交渉というのは先に議題を設定した側が有利だ。根回しと先手。それが鉄則だ。
「……礼儀として、先に伺いを立てに来た側が話すべきかと思いまして」
「ならば私が先に君の屋敷へ伺う予定だったとしたら?」
「……は?」
思わず素の声が出た。
殿下はわずかに眉を上げた。珍しいものを見た、という顔だった。
「今日の午後、カルドア邸に伺う予定だった。出発しようとしたところへ、君が来た」
つまり、向こうも私に「話」があった。しかも自分から屋敷へ来ようとしていた。
(……どういうこと)
私は内心でフル回転する。
殿下が私に用がある。自分から動こうとしていた。理由は何か。
可能性は二つ。婚約を進めるための話し合い——あるいは、婚約の解消。
(……まさか、同じことを考えていた?)
「……殿下の話というのは」と私はゆっくり言った。「婚約に関するものですか」
殿下の目が、かすかに動いた。
「……そうだ」
一秒の間。
「君も、そうか」
問いではなかった。確認だった。
私は答えなかった。答える必要がなかった。
しん、と執務室が静まり返った。窓の外で鳥が鳴いている。
殿下は机に軽く腰を預けて腕を組み、こちらを見ていた。いつもと変わらない無表情のはずなのに——今日は目が、どこか違う。いつもより、ずっと真剣だ。
「どちらが先でも構わない」と彼は言った。「ただ——」
一秒の間。
「君が言おうとしていることと、私が言おうとしていることは、おそらく同じだ」
心臓が、跳ねた。
「……同じ、とは」
「婚約についての話だろう」
私は黙った。
「違うか」
「……違いません」
殿下はわずかに目を伏せた。それから、静かに言った。
「解消を、考えているのか」
(図星だ。でも——)
私は殿下を見た。前世の先輩と同じ顔。でも、前世では見たことのない表情で、こちらを見ている。
「……殿下こそ」と私は言い返した。「解消を考えているから、今日いらっしゃる予定だったのでは?」
彼は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
そこで気づいた。手の中に、まだクッキーの包みを持っていることに。
(……今さら「差し入れです」と言える空気ではまったくない)
私はそっと手を後ろに回した。殿下は気づいていないようだった。
「セシル嬢」と殿下が言った。「一つ、聞いていいか」
「……なんでしょう」
「三日前から、私を避けているな」
心臓が、もう一度跳ねた。
「そんなことは——」
「食事の席で、一度も目が合わなかった。いつもは合う」
……見ていたのか。私のことを。
「……気のせいではないでしょうか」
「私は細かいことをよく覚えている質なんだ」
それは知っている。前世のあの人も、そうだった。
——ちょっと待て。
私はゆっくりと、殿下の顔を見た。
(……似ているどころじゃ、ないのかもしれない)
「少し、頭を整理したくなりました」と私は言った。「明日、また伺っていいですか」
「……わかった」と殿下は言った。「明日、同じ時間にここへ来い」
「はい」
私は礼をして、扉に向かった。
「それは何だ」
振り返ると、殿下が私の手元を見ていた。布巾に包まれた小さな塊を。
「……菓子、です」と私は言った。「夜中に焼いたもので、余りましたので……」
「置いていけ」
「……え」
「捨てるつもりなら、置いていけ」
殿下は静かにそう言って、また書類に目を落とした。
私は少し迷って、包みを机の端に置いた。それから何も言わずに扉を閉めた。
廊下に出た瞬間、どっと力が抜けた。
話し合いは明日に持ち越し。何も解決していない。なのに足取りが、来るときよりなぜか軽い。
(……あの人、絶対に食べる気だ)
前世の加藤先輩も、甘いものが好きだった。
私はそれを思い出して——廊下の真ん中で、一人で少し笑った。




