第十三話 これは毒ではなく、芸術だ
外交使節が、止まった。
三秒間、動かなかった。
(また三秒だ)
私はそのことに気づいて、少し可笑しくなった。おいしいものを前にして三秒止まるのは、国籍も身分も関係ない、人間の共通仕様らしい。
使節がゆっくりと口を開いた。隣国の言葉で何かを言った。通訳が素早く訳した。
「……なんだ、これは」
広間が、ざわめいた。
別の使節が手を伸ばした。ガトーショコラを一切れ取って、口に入れた。止まった。三秒後に顔を上げて、また何かを言った。通訳が「信じられない」と訳した。
貴族の一人が、おそるおそる手を伸ばした。ミルフィーユに触れて、断面を見てから、一口かじった。
サクサク、という音が広間に響いた。
その音が聞こえた瞬間、周囲の数人が同時に同じ菓子に手を伸ばした。先ほどまでの静寂が崩れて、広間に小さな音楽のような音が広がった。マカロンが割れる音。ミルフィーユの層が崩れる音。サブレがほろりと砕ける音。全部違う音なのに、重なると心地よかった。
「これはなんという菓子か」と誰かが言った。
「見たことがない」と誰かが言った。
「どこで作られたのか」と誰かが言った。
グレンが横で、硬くしていた拳を、少しずつ開いていた。
「……グレン」
「はい」
「やりました」
グレンは何も言わなかった。でも肩が、一気に落ちた。七日間分の緊張が、一息に抜けていく音がした気がした。
横で、グレンが大きく息をついた。
*
会場が沸き始めたころ——広間の中ほどで、ヴァネッサ夫人が立ち上がった。
さっきまでの余裕が少し剥がれていた。でも声は落ち着いていた。さすがに、社交界で長年生きてきた人間の底力だ。
「少々、よろしいですか」
広間が静まった。夫人の声には人を静かにさせる力がある。
「この菓子についてですが——見たことのない食材を使っているとのこと。可可という南方の植物。正体不明の材料で作られたものを、このように無造作に振る舞われても」
夫人が会場を見回した。
「毒物の可能性がある——そのようなものを、外交使節の方々にお出しするのは、いかがなものかと思いますが」
広間が少し揺れた。先ほどまで楽しそうにしていた貴族の数人が、手を止めた。食べかけのマカロンを皿に戻す人もいた。使節団の通訳が何かを耳打ちしている。
(最後の一手だ)
夫人の言葉は計算されていた。「毒」という言葉は、状況を一瞬で変える力を持っている。楽しい空気の中に投げ込まれると、人間は不安の方に引っ張られる。
でも——
私は夫人の方を向いた。
「おっしゃる通りですわ」
静かに言った。
夫人が目を細めた。「……え?」
「毒かどうか、今ここで確認いたしましょう」
私はガトーショコラを一切れ取った。皿に乗せて、広間の全員が見える位置で——口に入れた。
広間が、完全に静まった。
カカオの深みと砂糖の甘さが、口の中でゆっくりと広がった。七日間、何十回と食べてきた味だ。体が覚えている。安心する味だ。
ゆっくりと飲み込んで、夫人を見た。
「——毒ではありません」
それから、傍らに立つ殿下の方を向いた。
殿下がこちらを見ていた。
私は皿を差し出した。
広間が息をのんだ。
殿下が——一瞬だけ目を細めた。それから、迷わず受け取った。会場に向けて少し角度を変えて、全員が見える形で、一口食べた。
三秒間、止まった。
殿下が静かに言った。
「——問題ない」
二文字だった。でも広間を変えるには、それで十分だった。
しばらく、誰も動かなかった。
先ほどまで気難しい顔をしていた隣国の使節が、ゆっくりと立ち上がった。広間の視線が、その動きに集まった。
使節が、残っていたマカロンをもう一つ手に取って、口に入れた。目を閉じた。三秒間——止まった。それから目を開けて、通訳も介さず、この国の言葉で言った。
「毒などとんでもない」
静かな、でもよく通る声だった。
「これは——芸術だ」
広間が、割れた。
外交使節たちが一斉に拍手した。貴族の間でどよめきが起きた。一人、また一人と続いて、やがて広間全体が拍手に包まれた。
ヴァネッサ夫人が口を開きかけた。
でも言葉が、出なかった。
夫人は扇子を膝の上に置いて、静かに着席した。背筋を伸ばして前を向いた。その横顔は美しかった。でも今夜の勝負は、ここで終わった。
*
拍手が落ち着いたころ、殿下が会場に向かって言った。
「これは我が婚約者が作ったものだ」
それだけだった。説明も補足もなかった。
「婚約者」という言葉が広間に広がった。外交使節が顔を見合わせた。貴族たちが少し改まった表情になった。
私は礼をした。
(婚約者、か)
正確には、保留中の婚約者だ。解消するとも継続するとも、まだ正式には決まっていない。でも今夜、あの人は「婚約者」と言った。それがどういう意味を持つかは——あとで考えることにした。今は、この拍手の中に、少しだけ立っていたかった。
グレンが横で、固まっていた。
「……グレン」
「……はい」
「表情に出ていますよ」
「出ていません」
「出ています。耳が赤い」
グレンが「——失礼しました」と言って、すっと顔を戻した。耳はまだ赤かった。
料理長歴二十年以上の男の耳が赤くなるのを、私は今夜のことの中で一番鮮明に、後から思い出すような気がした。




