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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第十二話 お披露目当日

 当日の朝は、夜明け前から始まった。


 外がまだ暗いうちに厨房に来ると、グレンと料理人たち全員がすでにいた。灯りを点けて、それぞれの持ち場に立って、それぞれの手が動いていた。私が扉を開けると、グレンが「来ましたか」とだけ言って、視線を手元に戻した。


 それだけで十分だった。


 まず全体を確認した。マカロンのフィリングの固さを指で触れて確かめる。バタークリームの光沢を見る。ガトーショコラをナイフで薄く切って断面の色を確認する——濃い茶色の中心部に、しっとりとした層がある。これでいい。ミルフィーユのパイ生地の張りを確かめる。サブレを一枚手に取って、指先に軽く力をかける。ほろりと崩れた。これでいい。


 七日間で作り上げた全種類が、今朝の光の中に並んでいる。


 (悪くない)


 自分でそう思えた。前世でも、本当に納得のいく仕上がりのときは、このくらい静かな気持ちになった。浮き立つのではなく、静まる。やりきった、という感覚だ。それは誇りではなく、準備が終わった、という落ち着きだ。


「令嬢様」とグレンが言った。「ミルフィーユのクリームの最終仕上げだけ残しています。それ以外は完成しています」


「わかりました。私がやります」


「はい」


 グレンが一歩引いた。最後の仕上げを私に任せる、という意思表示だ。七日間、この人は一度も「私がやります」と割り込まなかった。技術を見て、認めて、任せる。職人としての敬意の示し方だと思った。


 ボウルの中のクリームを泡立てる。今日は晩餐会が始まるまでに数時間ある。その時間を考えて、ほんの少し固めに仕上げる。柔らかすぎると時間で崩れる。前世で何度も失敗して身に染みた勘だ。


 クリームを重ねながら、今夜の会場を頭の中で描いた。


 広間。外交使節。有力貴族の当主たち。王宮の関係者。そして——ヴァネッサ夫人。


 (来るだろう。来ないわけがない)


 昨日「失敗するのを楽しみにしている」と言った。それは言い換えれば、必ず来る、ということだ。失敗を見届けるために。だから今夜、失敗は許されない。失敗しないためではなく、失敗しない仕上がりができているから——問題ない。


 (やれることは全部やった)


 前世の締め切り前に、先輩がよく言っていた。「やれることをやったなら、あとは出すだけだ」と。今夜がそれだ。



 晩餐会は夕刻から始まった。


 広間に入ると、すでに三十人ほどが着席していた。外交使節が数名——殿下が「味覚が鋭く、菓子の評価が特に厳しい」と事前に教えてくれた、隣国の気難しい使節も来ていた。王宮に出入りする有力貴族の当主たち。それから——広間の中ほど、よく見える位置に、ヴァネッサ夫人が座っていた。


 淡い青のドレスに白い扇子。完璧に優雅な姿で、私が入ってくるのを見て微笑んだ。


 (「これで終わり」という顔だ)


 私は夫人に向かって丁寧に礼をした。


 上座に目を向けると、殿下が着席していた。視線が一瞬だけこちらに向いた。頷くでも微笑むでもなかった。でもその目が「問題ない」と言っていた気がした。気がしただけかもしれないが、そう受け取ることにした。


 最初に、王都一の菓子職人の作品が運ばれてきた。白と金のきらびやかな砂糖細工。金箔の飾り。台の上に整然と並んだそれは、遠目から見ても「手間と金がかかっている」と一目でわかる仕上がりだった。


 貴族たちが拍手した。礼儀のためだけではない、本心からの拍手だ。


「さすがフォルカー家のお手配ですな」と誰かが言った。「あの職人を呼べるのは王都でも数軒だけだ」


「この砂糖細工の精巧さを見てください。これが本物の格というものですよ」と別の声がした。


「菓子とは、こういうものでなくては。見る者の目を喜ばせ、身分に恥じない——」


 ヴァネッサ夫人が、満足そうに微笑んでいた。


 (そうだ、この世界の菓子は「見た目と権威」が評価基準だ)


 前回お茶会で食べた。甘いだけで香りも食感もなかったが、「王都一の職人の作品」という肩書きが、全員の評価を決めていた。そういう世界だ。


 (だから——「見たことのない何か」が来たとき、評価の基準が崩れる)


 比べてもらえれば、わかる。食べてもらえれば、わかる。


 次に運ばれてくるものを、この広間の全員に——わかってもらえるはずだ。


 グレンが厨房から出てきて、私の隣に立った。白い調理衣のまま。広間の中に料理長が立つのは異例のことだろうが、グレンはそんなことは気にしない顔だった。


 大きな体が、かすかに——本当にかすかに、緊張で固くなっているのがわかった。


 七日間、一緒にやってきた。この人も、今夜が怖いのだと思った。怖いのに来た。それが、グレンという人間だ。


「グレン」と私は小声で言った。


「……なんですか」


「大丈夫です」


 グレンが一拍置いて、低く言った。「……わかっています」


 わかっていると言いながら、拳が硬くなっていた。



 菓子が、運ばれてきた。


 白いクロスの台に、マカロン、ガトーショコラ、ミルフィーユ、サブレ、バタークリームケーキが並ぶ。


 広間が——静まり返った。


 音が消えた、というより、全員が息を止めた、という感じだった。それは沈黙ではなく、驚きが言葉になる前の、あの一瞬の無音だ。


 マカロンの表面のなめらかな(つや)と、並べられた鮮やかな色。ガトーショコラの濃い茶色の表面と、薄く均一に乗せたカカオパウダーの白。ミルフィーユは一つだけ断面が見えるよう切り分けてある——何十もの薄い層が、整然と重なっている。バタークリームケーキの側面には花の形のデコレーション。サブレは等間隔に並べられて、表面がほんのりきつね色に焼けている。


 この世界の人間が今まで見たことのない形と色が、テーブルの上に静かに並んでいた。


 三秒間——誰も動かなかった。


 (前世の田中サリが作ってきた菓子は、全部——誰かに喜んでもらうためだった)


 残業中の同僚に。締め切り前の差し入れとして。好きな先輩の机の上に、黙って置いていくために。言葉にできないものを、形にして渡すために、私はずっと作り続けてきた。誰かの顔が少し変わる瞬間が好きだった。三秒間止まって、それから「なんだこれ」と言うあの顔が。


 今夜のこれも——同じだ。ただ、食べる相手の数が少し増えただけ。


 (失敗できない理由は、婚約のためじゃない。七日間、一緒に作ってきた人たちのためだ)


 グレンが、拳を硬くしたまま横に立っている。料理人たちも、今夜は全員、広間の端に控えている。全員の目が台の上に向いている。


 「作ってよかった」と思えるかどうかは、この三秒の後に決まる。


 外交使節の一人が、静かに手を伸ばした。


 マカロンを一つ、手に取った。


 口に入れて——止まった。


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