第十一話 ヴァネッサ夫人の追加攻撃
本番前日の朝。
厨房はすでに動いていた。グレンと料理人たちが早朝から来て、仕込みの最終確認をしている。マカロンのフィリングの固さ。ミルフィーユのクリームの温度管理。ガトーショコラの表面に乗せるカカオパウダーの量。どれも昨日の段階でほぼ完成しているが、最後の確認は何度やってもやりすぎということはない。
私も作業台についてサブレの最終仕上げをしていた。
この七日間で、厨房の空気がすっかり変わった。最初の日は「令嬢がなぜここに」という目線があった。今は違う。全員が同じ方向を向いている。私が何かを確認するとき、グレンが先に気づいて動いている。料理人の一人が自主的にスポンジの弾力を確かめている。言葉を交わさなくても、全員の頭の中に明日の晩餐会がある。
(チームだな)
前世で言えば、大事なプレゼン前日の深夜のオフィスに似ている。誰も帰らず、全員が黙って自分の分担をやっている。あのときの空気と同じだ。
作業を続けていたとき——廊下がにわかに騒がしくなった。
複数の足音。革靴の硬い音。急ぎ足で、しかし乱れのない歩き方。訓練されたか、慣れた人間の足音だ。
グレンが眉をひそめた。料理人たちが手を止めた。私も作業台から目を上げた。
厨房の扉が、ノックなしで開いた。
四人の男が入ってきた。先頭は四十代ほどの役人で、紺色の詰め衣に王宮監察部の紋章が入っている。後ろの三人は事務方らしく、羊皮紙の束を抱えていた。全員の顔に、緊張と「やりたくないがやらされている」という空気が混じっていた。
「カルドア公爵令嬢殿、失礼いたします」
役人が深く礼をした。声だけはよく通る。
「我々は王宮監察部の者です。ただいまより、こちらの食材の確認を行わせていただきます」
「確認」と私は言った。「理由をお聞きできますか」
「南方より持ち込まれた可可という植物について、禁制植物に該当するとの申告がございました。確認のため、現物を一時押収させていただきます」
役人の後ろで、若い料理人が息をのんだ。グレンが「令嬢様」と低い声で言った。
(来た。予想はしていた)
私は作業台に置いていたサブレを皿に移した。急がず、ゆっくりと。深呼吸を一つして、社畜スイッチをオンにする。こういう状況で焦ったら終わりだ。相手は「申告に基づいて動いているだけ」の役人だ。この人たちを責めても意味がない。必要なのは、申告の根拠を崩すことだ。
「一点、確認させてください」
「はい」
「禁制植物の根拠となる法令を、ご提示いただけますか」
役人が止まった。「……法令、とは」
「禁制植物の規制は、施行日と対象品目の詳細が法令に明記されているはずです。どの法令の、何条に基づいてのご判断でしょうか」
前世の法務部の先輩が、口を酸っぱくして言っていた。「規制の話が出たら、まず法令の条文を聞け。根拠のない規制は存在できない。焦って従うな」と。法令には必ず施行日がある。対象品目の定義が曖昧な場合は争える。申告者の主張が「噂」に過ぎないなら、法令は存在しないはずだ。
役人が答えるより前に、後ろの三人が頭を寄せて耳打ちを始めた。その様子を見て——(やはりない)と確信した。役人の顔が少し引きつった。
「……確認して参ります」
「その間、こちらの作業を続けてもよろしいでしょうか。明日に向けて本日中に終わらせたい仕上げがありますので」
「……はあ」
「ありがとうございます」
私は作業台に戻った。グレンが横に来て、小声で言った。
「よろしいんですか」
「ええ」
「でも彼らが食材を——」
「法令を出せなければ押収できません。出せるものがないはずなので」
「なぜわかるんですか」
「ヴァネッサ夫人が申告したなら、根拠は噂です。噂は法令ではありません」
グレンが一拍置いてから、低くうなった。「……なるほど」
それから小声で続けた。「令嬢様は、菓子だけを作ってきたわけではないんですね」
「前世では商社に勤めていたので」
「……そうですか」
グレンは何も言わなかったが、鍋を磨く手が少し力強くなった気がした。
(……一体どんな職場で生きてきたんだ、この令嬢は)
グレンのつぶやきが、背中越しに聞こえた気がした。聞こえなかったふりをした。
*
役人たちが廊下で相談している間、厨房の作業は続いた。
最初は手を止めていた料理人たちも、私が普通に手を動かしているのを見て、一人また一人と作業に戻った。でも全員が、廊下の気配に耳を向けていた。
若い料理人が、ボウルを持ったまま近づいてきた。顔が青い。
「……令嬢様、大丈夫なんですか。あの人たちが本当に食材を——」
「大丈夫です」と私は言った。「これはコンプライアンスの問題なので」
「こ、コンプラ……?」
「適正な手続きの問題、ということです。手続きを踏んでいない要求には従う必要がない、という話です」
料理人が「は、はあ」と言った。あまり納得していない顔だったが、私が落ち着いているのを見て、少し肩の力が抜けた。
「手を動かしていましょう。止まっていても何も変わりません」
「……はい」
厨房が、ゆっくりと動き始めた。
十五分ほどして、役人が戻ってきた。顔が硬い。廊下での相談が、うまくいかなかったことはすぐわかった。
「……少々、時間をいただきたいのですが」
「どのくらいですか。本日中に終わらせたい作業が残っていますので」
「それが……法令の確認に、上への照会が必要で——」
「そうですか」と私は言った。「では、念のためお伝えしておきます」
役人が止まった。
「根拠となる法令を提示できないまま食材に手をかけた場合、カルドア家より正式な抗議文を提出させていただくことになります。不当な押収として、上申先も含めた記録を残す形で」
役人の顔が、見る間に変わった。
「き、記録……」
「こういった手続きは、後で問題になることがありますので。お互いのためにも、根拠が揃ってからにしていただいた方がよいかと」
役人が後ろの三人と顔を見合わせた。三人が何かを耳打ちした。役人の額に、うっすらと汗が浮いた。
(あとは待つだけだ)
前世の経験で知っている。「記録に残す」という言葉は、ほとんどの場合、相手の動きを止める。問題が大きくなることを誰も望んでいない。特に「命令で動いているだけ」の人間は。
役人が口を開きかけた——そのとき、廊下の奥から足音がした。
一人だけ。早足で、迷いのない足音だ。
役人たちが振り返った。
若い男が来た。殿下の側近だ。彼は役人たちを一目見てから、真っ直ぐに言った。
「王命により、明日の晩餐会は予定通り執り行われます。食材の確認については、晩餐会終了後に改めて行っていただきますよう」
役人が「し、しかし——」と言いかけた。
「王命です」
たった四文字だった。でも役人たちの背筋が一斉に伸びた。長い沈黙の後、「……承知いたしました」と言って、四人全員が頭を下げて厨房を出ていった。
廊下が静かになった。
若い料理人が「令嬢様……」と息を吐いた。目が少し潤んでいた。
「続きをやりましょう」と私は言った。「仕上げが残っています」
グレンが「はい」と短く言って、鍋に向かった。その背中が、今日一番、誇らしそうに見えた。
*
夕方になって、仕込みが一段落したころ——廊下に、ゆっくりとした足音がした。
グレンが「令嬢様」と小声で言った。私も気づいていた。
扉の外に、ヴァネッサ夫人が立っていた。
一人だ。随行の貴婦人たちはいない。いつもの扇子を手に持って、厨房の扉の前に立っている。夫人は中に入らなかった。扉越しに、じっとこちらを見た。
今日は笑っていなかった。
「……ご無事で何よりですわ、セシル様」
「おかげさまで」と私は微笑んだ。
夫人が扇子を手に取った。開いた。閉じた。それからもう一度開いて——扇子の骨の部分を指先で強く押さえたとき、かすかに軋む音がした。
夫人は気づいていないようだった。
(ああ、焦っているんだ)
いつもの夫人なら、扇子の扱いはもっと優雅だ。今日の夫人は、自分でも気づかないうちに力が入っている。それを見て、初めて「この人も追い詰められている」とわかった。
「あの役人たちを追い返すとは、思っていませんでしたわ」
「追い返してはいません。お引き取りいただいただけです」
夫人がかすかに目を細めた。「……うまいことを言いますね」
「夫人のおかげで、法律の勉強ができました」
一瞬の沈黙があった。
「明日」と夫人は言った。「あなたが失敗するのを、楽しみにしていますわ」
笑顔だった。でも扇子を持つ指先に、また力が入っていた。今度はもう少し強く——骨が軋む音が、もう一度した。夫人はそれに気づいていないようだった。
「ぜひご期待ください」
私は優雅に礼をした。夫人がしばらくこちらを見てから、身をひるがえして廊下の奥へ消えた。
足音が遠ざかってから、グレンが腕を組んで言った。
「……あの方が今日の役人を」
「おそらく」
「明日も何か仕掛けてくるでしょうか」
「来るとしたら会場の中でしょう。でも——」
私はガトーショコラの仕上がりを確認しながら言った。
「会場の中なら、こちらのフィールドです」
グレンが少し間を置いてから言った。「明日、私も会場に立ちます」
「料理長がいらしてくださるんですか」
「菓子を作った人間が、その場にいるのは当然でしょう。令嬢様一人に任せるつもりはない」
私はしばらく、その横顔を見ていた。
「……ありがとうございます」
「礼は要りません」
「グレン」
「なんですか」
「明日、絶対に成功させましょう」
グレンが少し間を置いてから、短く言った。
「——当然です」




