第十話 一週間の準備:前世の記憶をすべて使う
一日目。
材料のリストをグレンに渡すと、グレンはそれを見て黙った。長い沈黙だった。
「……マカロン」
「はい」
「ミルフィーユ」
「はい」
「ガトーショコラ」
「はい」
「バタークリームケーキ。それから——」グレンが紙の一番下を指さした。「これは何ですか。文字は読めますが、読み方がわからない」
「薄片砂糖菓子です。前世の言葉で書いてしまいました」
「サブレ」
「薄焼き菓子の応用版です。バターをふんだんに使って、触れると崩れるくらい軽く焼く。塩を少し効かせると砂糖の甘さが締まります」
グレンがリストを折りたたんで、エプロンのポケットに突っ込んだ。
「材料は今日中に揃えます」
「ありがとうございます」
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「材料費は」
「カルドア家で負担します」
グレンが一瞬だけ目を丸くした。「……全部ですか」
「全部です。試作で失敗した分も含めて」
「……失敗する想定ですか」
「一発で全部うまくいくとは思っていません。でも七日あれば、失敗しても立て直せます」
グレンは何も言わなかったが、リストをポケットから取り出してもう一度見た。それから今度はしっかりと折りたたんで、胸ポケットに仕舞い直した。大事なものをしまう動作だった。
厨房に向かうグレンの足取りが、心なしか速くなった気がした。
*
二日目。
まずマカロンの生地から始めた。
アーモンド粉を篩いにかける。粒の粗さが仕上がりに出るので、ここは丁寧にやる。砂糖と合わせて、卵白を泡立ててメレンゲにする。ここまでは、この世界の料理人にも馴染みのある工程だ。
問題は次だった。
二つを合わせて、「折り混ぜる」——泡立てたメレンゲをわざとつぶすように、大きくゆっくりと混ぜ込む。
「……なぜつぶすんですか」
横で見ていた若い料理人が、我慢しきれずに聞いた。「せっかく時間をかけて泡立てたのに」
「空気を抜きすぎず、でも残しすぎない。この加減が一番難しくて」
「……つまり、つぶし方にも技術がいると」
「そうです。硬すぎると焼いたときにひびが入る。柔らかすぎると広がって形にならない」
若い料理人が「はあ」と言って、また真剣な顔で手元を見た。
絞り袋に詰めた生地を、丸く絞り出す。均等な大きさに、均等な間隔で。この工程もまた、何度か失敗した。大きさが不ぞろいになると焼きムラが出る。料理人の一人が「私にやらせてください」と名乗り出て、三回目でようやく整ってきた。
「これを今から焼きますか」とグレンが聞いた。
「いいえ。乾かします」
「……焼く前に、乾かす」
「表面に薄い膜を張らせるためです。触ってもべたつかなくなるまで待ちます。そうしないと、焼いたときに割れます」
グレンが「膜を……」とつぶやいて、しばらく黙って考え込んでいた。
待つこと一時間。石窯に入れて、適温で焼く。
焼き上がったマカロンコックを見て、グレンが息をのんだ。
「……なんだ、この艶は」
「うまく膜が張れました」
「割ってみていいですか」
「どうぞ」
グレンが一つ手に取って、静かに割った。外がさくりとした薄い殻で、内側がわずかに湿ってしっとりとした二層になっている。断面からほんのりアーモンドの香りが立つ。グレンがその断面をじっと見た。長い間、動かなかった。
「……令嬢様」
「はい」
「この人生で初めて、料理で悔しいと思いました」
(それは複雑な感想だ)
「悔しいのですか」
「こんな工程、考えつかなかった。思いついていても、一人では試せなかった」グレンがマカロンコックを作業台に置いた。「悔しいです」
言い方は素直だった。職人の顔だった。
私は黙ってバタークリームを絞り始めた。
*
三日目、四日目は麺皮と向き合った。
バターを薄く伸ばした生地に重ねて、折って、冷やして、また伸ばす——この作業を決まった回数繰り返す。腕に力が要る。冷やす時間が足りないとバターが溶けて層が潰れる。急いでも駄目で、かといって待ちすぎると生地が締まりすぎる。
前世では既製品を使うことが多かった工程だ。一から作るのは体力がいる。
「なぜこんなに何度も折るんですか」と三度目の折り込みのとき、グレンが聞いた。
「層を作るためです。バターと生地が交互に重なって、焼いたときにそれぞれが剥がれる。それがミルフィーユの食感になります」
「何層になりますか」
「……理論上は、二百七十二層です」
グレンが手を止めた。止まったまま、紙の上の生地を見た。
「二百七十二」
「はい」
「……一枚の生地に」
「はい」
「この——」グレンが生地を指さした。「この薄い生地に」
「折り込む回数と方法によって計算できます。今やっている折り方だと、最終的に二百七十二になります」
厨房が、静まり返った。
グレンだけでなく、料理人たちが全員、手を止めてこちらを見ていた。誰も何も言わなかった。ただ全員が「二百七十二」という数字を頭の中で繰り返しているような顔をしていた。
「……令嬢様」とグレンがようやく言った。「なぜこんなに複雑な手順を知っているんですか」
私は手を動かしながら、少し考えた。
嘘をつく理由はない。かといって、どこまで話すべきか。
でも——グレンはこれだけのことを一緒にやってくれている。「材料費は全部負担します」と言ったとき、リストを胸ポケットに仕舞い直したこの人に、隠すのは失礼だという気がした。
「……前世の記憶、です」と私は答えた。「現代日本というところで、二十八年間、菓子を作り続けた記憶があります。その記憶がそのまま、今の私に残っています」
グレンが、私を見た。
驚いた顔だった。でも怪しむ顔ではなかった。前世の記憶がどういうものか知らないまま、それでも「そういうことが起きたのだろう」と受け取ろうとしている——職人が、初めて見る技法と向き合うときの真剣な目だった。
「……そうか」
グレンは一言そう言って、また手を動かし始めた。
それだけだった。「本当か」とも「信じられない」とも言わなかった。ただ「そうか」と言って、次の作業に入った。
(この人は本当に、話が早い)
私は少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
前世の記憶を持っていることを、誰かに正直に話したのは、殿下を除けば初めてだった。殿下に話したときは、向こうも記憶を持っていたから成立した。今回は違う。グレンは記憶を持っていない。それでも「そうか」と言った。
グレンに話してよかった、と思った。
*
五日目。
厨房が変わっていた。
気づいたのは、私が扉を開けた瞬間だった。いつもより空気が違った。何かが動いている——そういう気配があった。
料理人の一人が自主的にアーモンドを篩いにかけていた。別の一人が昨日乾かしておいた生地の状態を確認していた。グレンが昨日より格段に手際よく麺皮を折っていた。折る角度が、昨日より正確だった。
誰も指示していないのに、全員が動いていた。
「……みなさん、昨日もいらしたんですか」
グレンが素っ気なく答えた。「夜も少し残ってやっていました」
「夜に」
「材料を無駄にするのは嫌なので。練習が必要だと判断しました」
「……ありがとうございます」
「礼は要りません。我々の仕事です」
グレンが麺皮を伸ばしながら、少しの間があってからぽつりと言った。
「令嬢様が来る前は、この厨房は晩餐会の料理だけ作っていればよかった。それで十分だと思っていました」
「今は?」
「十分ではなかったことに、気づきました」グレンの手が止まらない。「令嬢様が来て——この厨房の料理人全員が、初めて『知らないことがある』と気づいた。それは、悪くないことだと思っています」
私は何も言わなかった。
何か言える気がしなかったし、言う必要もなかった気がした。
*
六日目の夜。
明日の本番に向けて最後の仕込みをしていた。マカロンのフィリング。ミルフィーユのクリーム。ガトーショコラの仕上げのカカオパウダー。一つひとつ確認しながら、作業台を片付けていた。
グレンたちは先に上がっていた。「明日は早く来ます」と言い残して。
一人で厨房に残って、灯りを落とす前に最後の確認をしていたとき——廊下に足音がした。
聞き慣れた足音だった。聞き間違えるはずがない。
足音は厨房の前で止まった。
扉は開かなかった。声もかからなかった。ただ、止まっていた。どのくらいだろう——十秒か、二十秒か。厨房の中の物音に耳を傾けているような間があって、それからまた歩き始めた。
(確認しに来た、のかもしれない)
あるいは——様子を見に来た。
前世の加藤先輩も、締め切り前の深夜に残業している私のそばを、用もないのに通りかかることがあった。声はかけない。ただ一度だけこちらに目を向けて、そのまま自分の作業に戻る。あれも「確認」だったのだと、今になって思う。
私は仕込みの続きをしながら、その足音が遠ざかるのを聞いていた。
どこか、安心したような足音だった——気がした。
(気がしただけかもしれない。でも)
明日の本番まで、あと一日。
全部、揃っている。
私は最後の確認を終えて、厨房の灯りを消した。




