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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第一話 三日前から眠れていない

 夜中の二時に厨房へ忍び込むのは、公爵令嬢(こうしゃくれいじょう)としていかがなものか——とは思う。


 思うが、やめられなかった。


 理由は単純だ。眠れないのだ。三日間、まともに眠れていない。原因もはっきりしている。三日前の夜、就寝前に窓の外を眺めていたら、ふいに頭の中で何かがほどけるような感覚があって、気づいたら二十八年分の別の記憶が流れ込んできた。


 前世の記憶、というやつだ。


 田中サリ。享年二十八歳。都内の中堅商社に勤める、どこにでもいる会社員。残業は多いが人間関係はそこそこ。趣味はお菓子作り。休日はほぼ確実に台所に立っていた。


 それが私の、前の人生だった。


 そして今の私はセシル=フォン=カルドア、十八歳、ヴェルタ王国カルドア公爵家の長女。第二王子ファルク殿下と二年前から婚約中。成績優秀、礼儀正しい、将来有望な令嬢——というのが世間の評価らしい。


 (当の本人は今、夜中に厨房でバターを常温に戻しているわけだが)


 薄暗い厨房の中、私は棚から材料を引っ張り出した。小麦粉、バター、砂糖、卵。分量は体が覚えている。二十八年間、毎週末繰り返してきた手順だ。



 この世界には薄焼き菓子(クッキー)が存在しない。


 いや、正確に言えば、サクサクとした食感の焼き菓子そのものがない。菓子といえば鈍器のように重たい焼き菓子(パウンドケーキ)か、ただ砂糖を固めただけの飴細工(あめざいく)か、どちらかだ。噛んだときの軽い音も、鼻に抜けるバターの芳醇(ほうじゅん)な香りも——そういった「食感と香りを楽しむ菓子」という発想が、そもそもこの世界には薄い。


 だから材料を並べ始めたとき、背後で物音がした。


「……セシル様?」


 侍女のリリだった。眠そうに目をこすりながら、ランプを手に立っている。十七歳の少女が夜中に厨房に来た主人を見つけて、どう反応すべきか迷っている顔だった。


「起こしてごめんね」と私は言った。「眠れなくて」


「厨房に来るんですか、眠れないとき?」


「……前世では、そうだった」


 リリが「前世」という単語にぽかんとした顔をしたので、「気にしないで」と付け加えた。



 バターと砂糖を混ぜながら、私は前世の記憶を辿(たど)る。


 問題は、その記憶の中に、困った人物がいることだ。


 (……加藤先輩)


 同じ会社の先輩社員だった。無口で真面目で、感情をほぼ表に出さない人。残業続きの夜でも淡々(たんたん)と仕事をこなして、後輩の失敗を責めるでもなくさらりとフォローして——そういう人だった。


 好きだと気づいたのは、入社して二年目の秋だった。


 夕方、締め切り(デッドライン)直前の資料を必死に仕上げていたとき、突然、机の上にコーヒーの缶が置かれた。自動販売機の、温かいやつ。見上げると、加藤先輩がすでに自分の席に戻るところだった。話しかけた様子も、見返りを求めた様子も、何もない。ただそこにあった。


 (……あれで好きになるな、というほうが無理だ)


 卵を割り入れながら、私は苦笑する。


 その日から、田中サリは加藤先輩のことが好きだった。ずっと好きだったのに、ついに一度も言えないまま、気づいたらこの世界に生まれていた。


 (……そして今世の婚約者が、その顔と同じ顔をしている)


 小麦粉を合わせながら、私はため息をつく。


 第二王子ファルク=フォン=アルカディス殿下。黒い髪、灰色の(ひとみ)、無口、完璧な(たたず)まい。感情をほぼ表に出さない——前世の加藤先輩と、同じ顔だ。


 三日前、前世の記憶が戻った瞬間、私は窓の外を眺めたまましばらく動けなかった。頭の中で二人の顔が重なって、どちらへの感情がどちらのものなのか、咄嗟(とっさ)に判断できなかった。


 (これは前世の感情の(のこ)(かす)なのか。それとも今世で本当に、殿下のことを——)


 考えるほど、答えが出ない。


 だから、こんな状態で婚約を続けるのは相手に失礼だ、と判断した。きちんと話し合う。それが唯一、誠実にできることだと思った。


 (……それが、三日前から眠れていない理由だ)


 生地をひとまとめにする。



 石窯(オーブン)に生地を並べて入れる。しばらく待つ。


 やがて、厨房いっぱいに芳醇(ほうじゅん)な香りが広がり始めた。


 焦がしバターの甘い匂い。砂糖がわずかに焦げる、鼻の奥をくすぐるような(ぬく)い香り。前世で何百回と嗅いできたはずなのに、この世界の空気の中で嗅ぐとまた少し違って——なぜか、じわりと目の奥が熱くなった。


 (泣くな、私)


 石窯(オーブン)を覗き込む。(ふち)がきつね色に染まりかけている。もう少し。


 焼き上がったクッキーを一枚、布巾で摘んで取り出す。まだ熱い。少し待って、かじった。


 サクッ、という軽快な音が、夜の厨房に響いた。


 舌の上でほろりと崩れる生地。焦がしバターの芳醇(ほうじゅん)なコクが広がって、絶妙に効かせた塩気が砂糖の甘さを引き締める。香りと食感と甘さが、ほぼ同時に来る。


「……やっぱりこれが一番落ち着く」


 思わず口に出てしまった。令嬢らしくない発言だった。でもリリしかいないので、まあいい。


 リリがおずおずと一枚受け取り、小さな口でかじった。


 それから、完全に目をまるくした。


「なんですか、これ。すごく……軽い」


「でしょ」


「今まで食べたお菓子と全然違います。噛むたびに口の中でほろほろ崩れて——なんか、止まらなくなりますね、これ」


「それが狙い。前世ではこれで、深夜の書類仕事を乗り切っていたから」


「しょるい……?」


「気にしないで」


 二人でしばらく、無言でクッキーを食べた。夜中の二時の厨房で、公爵令嬢と侍女が並んで菓子をかじっている光景は、まあ人に見せられたものではない。


 でも、なかなか悪くなかった。


 少し、気持ちが落ち着いた。


「明日、殿下のところに行こう」


 声に出すと、決意が固まった気がした。きちんと話し合う。前世の記憶が戻った状態で婚約を続けることが正しいのかどうか、誠実に伝える。それだけだ。


 リリに「もう休みなさい」と言って、自分も厨房を出た。


 部屋に戻る途中で気づいた。


 手に、クッキーの包みを持っていた。


 無意識に、余ったクッキーを布巾に包んでいた。


 (……誰かに持っていくつもりか、私は)


 しばらく手の中の包みを見つめた。それから、そっとテーブルに置いた。


 持っていくかどうかは、明日の朝に決めればいい。

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