再起動(リブート) ― 私たちの、新しく真っ白な朝
最終章:再起動 ― 私たちの、新しく真っ白な朝
1. 始まりは、六畳間の静寂から
新しい朝は、驚くほど静かに訪れた。 かつて真由美を毎朝絶望させていた、あの無機質なアラーム音はもう鳴らない。代わりに彼女を揺り起こしたのは、新しいマンションの窓から差し込む、遮るもののない冬の柔らかな日差しだった。
真由美は、糊のきいた真っ白なシーツの中でゆっくりと目を覚ました。 かつての「家」にいた頃、朝は戦場だった。隣で眠る夫の機嫌を伺い、彼の「背景」として機能するために、心臓を叩き起こして台所へ走る。そんな日々は、もう遠い過去の出来事のようだ。
「……おはよう、私」
声に出してみる。その音は誰にも遮られず、自分の耳に真っ直ぐに届く。 離婚届を提出し、あの閉塞感に満ちた家を出てから一ヶ月。真由美と美羽が選んだのは、都心から少し離れた、古いけれど手入れの行き届いたヴィンテージマンションだった。広さは以前の半分以下。けれど、ここにあるすべてのものは、真由美が自分の意志で選び、自分の手で配置したものだ。
キッチンへ立ち、一人分のコーヒーを淹れる。 豆を挽く音、立ち上る香ばしい匂い。それはかつて、誰かのために「こなしていた」作業ではなく、自分自身をもてなすための大切な儀式に変わっていた。 ふと、ダイニングテーブルに置かれたカレンダーに目が留まる。 一月九日。 真由美、四十歳の誕生日。
四十年という月日を歩んできて、今ほど自分が「自分である」と実感できている日はない。鏡に映る自分を見る。目尻の小じわ、少し痩せた頬。けれど、そこにはかつての「死んだ魚のような目」をした女性はもういなかった。
2. 「お母さん」という名前の、その先へ
「ママ、お誕生日おめでとう!」
寝癖をつけた美羽が、パジャマのままリビングに駆け込んできた。手には、一生懸命隠していたらしい小さな包みが握られている。 「はい、これ。私とお小遣いと、あとお手伝いのご褒美で買ったんだよ」 包みを開けると、そこには真由美が以前「綺麗ね」と呟いた、小さな琥珀色のヘアクリップが入っていた。
「……ありがとう、美羽。嬉しい」 「ママ、最近ずっと髪を下ろしてるから。お仕事の時に使って?」
美羽を抱きしめると、日向のような温かい匂いがした。 離婚を決めた時、一番の不安は美羽のことだった。「子供から父親を奪うのか」という自責の念が、夜な夜な真由美の心を切り刻んだ。けれど、実際に二人きりの生活を始めてみて、真由美は気づかされたのだ。 子供が求めているのは、完璧な「両親」という形ではなく、笑っている「母親」という存在なのだと。
今の美羽は、以前よりもずっとお喋りになり、自分の意見をはっきりと言うようになった。和樹がいた頃、彼女は無意識に「争いを避けるための静かな子供」を演じていたのかもしれない。 「ママ、今日のご飯は何にする? お祝いでしょ?」 「そうね。美羽の好きなハンバーグにしようか。それとも、ちょっと贅沢してお寿司でも取っちゃう?」 「お寿司! ママとお寿司食べるの、世界で一番好き!」
そんな些細な会話が、真由美の胸を熱くする。 自分は「母親」だ。それは変わらない。けれど、犠牲の上に成り立つ母親ではない。美羽と共に歩み、共に成長し、共に幸せを分かち合う「一人の人間」としての母親だ。 そして同時に、自分は「真由美」という名前の、一人の女性でもある。 誰の所有物でもなく、誰の影でもない。自分の足で立ち、自分の言葉で語る、一人の自立した女性。
3. 社会という荒野を、ボルドーの靴で
誕生日の午後。真由美は一人で街へ出た。美羽が「今日はママの自由な時間をプレゼントする!」と、塾の自習室へ行ってくれたのだ。
真由美は、あのボルドーのパンプスを履いて歩道を歩く。 かつて、この靴を買った時は「反乱」の象徴だった。けれど今は、それが彼女の「日常」の一部になっている。 仕事は順調だ。あのライフスタイル提案プロジェクトは、本格的な事業部として独立することが決まった。真由美はその中核メンバーとして、日々忙しく、けれど充実した時間を過ごしている。 もちろん、困難がないわけではない。 キャリアにブランクがある自分への風当たり、新しいシステムへの適応、そして何より、シングルマザーとして「稼ぎ続けなければならない」という経済的な重圧。 夜、通帳の残高を見つめて溜息をつくことも、将来への不安で心臓が震えることもある。
けれど、以前の絶望とは決定的な違いがあった。 今の不安には、「手応え」があるのだ。 誰かに運命を握られている不安ではなく、自分が進む道を選んだがゆえの、心地よい緊張感。 (困難は、これからも起こる。でも、私はそれを乗り越える方法をもう知っている)
真由美は、ふと立ち寄ったデパートの化粧品売り場で、一本の口紅を選んだ。 派手すぎないけれど、内側から情熱が滲み出すような、落ち着いたレッド。 店員に勧められるまま鏡の前に座り、色を乗せる。 「お客様、とてもお似合いです。表情がぱっと明るくなりますね」 お世辞かもしれない。けれど、鏡の中の自分は確かに、自信に満ちた笑みを浮かべていた。 和樹に「気持ち悪い」と思われないように、あるいは和樹に「女」として認められるように……そんな歪んだ動機で化粧をしていた頃とは、見える景色が違う。 私は、私のために美しくありたい。 私は、私のために、この人生を謳歌したい。
4. 過去からの手紙、未来への航路
夕暮れ時、真由美は公園のベンチに座り、スマートフォンのフォルダを整理していた。 そこには、和樹との離婚協議中にやり取りした、無機質なメッセージが並んでいる。最後の方は、弁護士を通したやり取りばかりだった。 彼が今、どこで何をしているのかは知らない。あの時捨てたレシートの相手とどうなったのかも。 不思議なほど、憎しみは消えていた。 ただ、「あんな時代もあったわね」と、古い映画の一シーンを思い返すような、奇妙なほど淡白な感慨だけが残っている。
かつての私は、彼が浮気をしていないか、彼がいつ帰ってくるか、そんなことに自分の全神経を集中させていた。自分の幸せの鍵を、他人のポケットに預けていたのだ。 なんて勿体ない時間を過ごしていたのだろう。
真由美は、スマートフォンの画面を消し、大きく深呼吸をした。 肺いっぱいに、冬の冷たくて清らかな空気が入り込む。
(私の人生は、これからだ)
四十歳。世間的には「もう若くない」と言われる年齢かもしれない。 けれど、真由美にとっては、ようやく重たい鎖を解いてスタートラインに立った、ゼロ歳の始まりのような気がしていた。 これから先、美羽が反抗期を迎えるかもしれない。親の介護が始まるかもしれない。仕事で大きな挫折を味わうかもしれない。 けれど、今の真由美には、揺るぎない確信があった。 自分を愛し、自分を信じている限り、どんな逆境も「人生という物語」を彩るスパイスに変えていける。
5. 真っ白な朝に、花束を
夜、マンションに戻ると、美羽がテーブルの上に花を飾って待っていた。 ささやかなケーキと、二人だけの乾杯。
「ママ、四十歳はどう?」 美羽がジュースのグラスを掲げて聞く。 真由美は、新しく買った口紅を引いた唇で、最高の笑顔を見せた。 「最高よ。今までのどの年よりも、ずっと自由で、ずっと楽しい」
二人でケーキを食べ、笑い合い、何気ない学校の話や仕事の話をする。 ふと窓の外を見ると、満天の星空が広がっていた。 かつてのあの狭い檻のような家では見ることのなかった、広大な夜空。
真由美は、心のノートにそっと書き込んだ。
これからの私への約束
自分の「好き」を後回しにしない。
誰かの背景ではなく、自分の人生の主役として生きる。
困難が来たら、それを「ネタ」にして笑い飛ばす強さを持つ。
娘に、幸せに生きる女性の背中を見せ続ける。
夜が明け、また新しい朝が来る。 そこにはもう、砂を噛むような日常はない。 一歩踏み出すたびに、新しい色が世界に加わっていく。
真由美は、美羽の寝顔にそっとキスをして、自分のベッドに入った。 明日、目が覚めたら、どんな面白いことが待っているだろう。 ワクワクしながら目を閉じる。
39歳の終わりに始まった彼女の冒険は、今、まばゆい光に包まれた本番を迎えようとしていた。 彼女の名前は、永井真由美。 自分の足で歩き出した、一人の美しき旅人だ。
(完)




