決断の境界線 ― 憐れみと無関心の果て
第3部:決断の境界線 ― 憐れみと無関心の果て
1. 魂の摩耗と、冷えたスープ
その日、真由美が自宅の玄関を開けたのは午後九時を回った頃だった。 指先が悴み、重いビジネスバッグの持ち手が掌にくい込んでいる。一歩足を踏み入れた瞬間に鼻を突くのは、生活の匂いだ。湿った洗濯物の残り香、換気扇から漏れた油の匂い、そして――自分を待つこともなく流れていく、停滞した空気。
(ああ、今日も呼吸が浅い)
真由美はコートも脱がず、暗い廊下で立ち尽くした。心臓の鼓動が耳の奥で、秒針のように正確に、けれどひどく寂しく時を刻んでいる。 かつて、この扉を開けることが「安らぎ」だった時代があっただろうか。記憶を辿っても、セピア色の霞がかかっていて判然としない。 リビングに入ると、和樹がソファに寝そべり、スマートフォンの画面をぼんやりと眺めていた。テーブルの上には、食べ散らかされたコンビニ弁当の空き殻と、飲みかけの缶ビール。
「おかえり。遅かったな」 和樹の声には、労りよりも「自分のルーチンを乱された」という微かな苛立ちが混じっている。 「……ええ。プロジェクトの詰めがあって」 「ふーん。まあ、頑張るのもいいけどさ、家のことも少しは考えてくれよ。美羽が『お腹空いた』って泣くんだからさ。結局、俺がコンビニ連れてったんだぞ」
(……あなたが連れて行ったんじゃない。美羽があなたに気を遣って『コンビニでいいよ』って言ったんでしょう?)
真由美は反論する気力さえ湧かなかった。言葉を紡ぐにはエネルギーがいる。今の彼女にとって、和樹に費やす言葉は、底に穴の開いたバケツに水を注ぐような、虚しい徒労に思えた。 彼女はキッチンへ向かい、美羽のために残しておいたスープを鍋で温め直した。ポコポコと泡立つ赤いトマトスープを見つめながら、真由美の意識は自分の内側へと潜っていく。
(私はいつから、自分を「透明な人間」だと思い込むようになったんだろう。家事をし、育児をし、仕事をこなす。そのどれもが『誰かのため』で、そこに『私の意志』は介在していなかった。私はただ、機能だったんだ。永井家という組織を破綻させないための、メンテナンス用の部品)
ふと、和樹がスマートフォンの陰で、口元を緩めて指を動かしているのが見えた。誰かとメッセージをやり取りしているのだろう。その顔には、自分に向けることのない、卑屈で、けれど高揚した笑みが浮かんでいた。
(浮気ね……)
真由美は冷めた目でその光景を眺めた。不思議なほど、胸が痛まない。怒りも、悲しみも、裏切られたという衝撃も。今の自分にとって、和樹という存在は「夕飯の献立を考える際に考慮しなければならない面倒な変数」程度の意味しか持たなくなっていた。
2. ゴミ箱の中の「他人の人生」
翌朝、真由美は和樹が脱ぎ捨てたスラックスを洗濯機に入れようとして、ポケットの膨らみに気づいた。 取り出したのは、一枚のレシート。 新宿の、女性向けのラグジュアリーなバー。時刻は午前一時。さらに、それと一緒に、小さな貴金属店の保証書が丸まって入っていた。
真由美はそれをダイニングテーブルの上に広げた。 昨夜、彼は「仕事のトラブルで遅くなる。接待だから飯はいらない」と言っていた。その「トラブル」の解決策が、見知らぬ女へのネックレスだったというわけだ。
(……滑稽ね)
真由美は、自分自身の冷酷さに驚いた。 かつての彼女なら、証拠を突きつけ、泣き喚き、修羅場を演じていただろう。あるいは、「私の何がいけなかったの?」と自分を責め、夜通し眠れずに過ごしただろう。 けれど、今の彼女が感じたのは、乾いた失笑だった。 39歳の女性が、命を削るようにして働いて得た「家族の時間」を、彼はこんなにも安っぽく、無意味なものに変換している。その事実が、彼という人間への「決定的な評価」を下した。
(この人は、もう私の人生の登場人物ですらない。エキストラ、あるいは風景の一部。私の貴重な感情を、彼のために一滴たりとも遣いたくない)
真由美は、レシートと保証書を手に取ると、キッチンのゴミ箱の奥深くに押し込んだ。 問い詰める必要すらない。彼を正す価値も、彼に謝罪させる必要もない。 彼が外で何をしようが、誰と眠ろうが、今の真由美には「どうでもいいこと」だった。彼女の視線は、すでにそのもっと先――この家を出た後の、美羽と二人で迎える静かな朝に向かっていたから。
3. 母の独白、娘のまなざし
「ママ、これ、どうかな?」 美羽が、学校の課題で描いたという将来の夢の絵を持ってきた。 そこには、大きな木の下で、二人の女性が手を繋いで笑っている姿が描かれていた。 「……これは、美羽と、ママ?」 「うん。パパも描こうと思ったんだけど、パパはいつもお仕事か、寝てるかだから、外に描いちゃった」
美羽が指差したのは、キャンバスの隅っこ、小さく描かれた家のイラストだった。 真由美の胸に、鋭い痛みが走った。 子供は、分かっている。 父親という存在が、この家においていかに希薄で、いかに母親を孤立させているかを。 そして、母親が無理をして笑い、背筋を凍らせながら「平穏」を維持していることも。
「美羽。ママね、近いうちに、このお家を出ようと思ってるの」 真由美は、美羽の小さな手を包み込んだ。 「パパとは、もう一緒に住まない。美羽と二人で、新しいお家を探そうと思うんだけど……どう思う?」
美羽は、しばらくの間、真由美の瞳をじっと見つめていた。 39歳の女性としての苦悩、疲労、そしてその奥に潜む「再起」の光。 美羽はその光を、自分と同じ純粋な色として捉えたようだった。
「……いいよ。ママが笑ってるお家がいい」 「美羽……」 「最近のママ、パパと喋ってる時、声が死んでるみたいだったもん。私、ママと二人で、お菓子パーティーとかしたいな」
美羽の言葉が、真由美の心の中にあった最後の堤防を決壊させた。 涙が溢れた。けれど、それは悲しみの涙ではない。 「子供のために我慢する」という美名のもとに、自分が自分を殺し続けていたことへの、許しの涙だった。 子供は、親の犠牲を糧に育つのではない。親が、一人の人間として誇り高く生きる背中を見て、自分の足で立つ方法を学ぶのだ。
(そうよ、私はずっと『抜け出せない理由』を美羽のせいにしていた。美羽が傷つくから、美羽の環境が変わるから……。でも、本当は違う。私が、変化を恐れていただけ。私が、自分の人生の責任を取る勇気がなかっただけだ)
真由美は、美羽を抱きしめた。 その温もりは、どんな暖房器具よりも、どんな和樹の言葉よりも、真由美の冷え切った魂を熱くした。
4. 憐れみの終焉、そして自立
最終プレゼンの当日、真由美は戦士のような心持ちで鏡の前に立った。 肌はまだ疲れを湛えているが、瞳には確かな殺気が宿っている。これは、仕事を成功させるためだけの殺気ではない。過去の自分を、自分を蔑ろにした環境を、根こそぎなぎ倒すための意志だ。
「永井さん、プレゼン、期待しています」 部長の佐藤が声をかける。 「はい。完璧に仕上げてきました。今の私には、守るべきものと、捨てるべきものがはっきり分かっていますから」 その言葉の意味を、佐藤は「仕事に集中している」と解釈したようだが、真由美の真意はもっと深いところにあった。
プレゼンは、歴史に残る成功となった。 真由美が提案したのは「30代後半、出口のない家事に追われる女性が、自分を取り戻すためのシェア空間」という、極めてパーソナルな痛みを起点とした事業計画だった。 彼女の語る言葉には、机上の空論ではない、血の通った「真実」が宿っていた。 役員たちは、彼女の気迫に圧倒され、最後には全員が拍手を送った。
帰宅後、リビングには和樹がいた。 彼は珍しく、真由美のためにシャンパンを用意していた。 「おめでとう、真由美! 部長から聞いたよ、大成功だったってな。さすが俺の妻だ」
(俺の妻……?)
その言葉が、ひどく卑屈に、ひどく汚らわしく聞こえた。 自分の不倫は棚に上げ、手に入りそうな「成功」にだけすり寄ってくる男。 真由美は、出されたグラスに手を触れることもなく、バッグから一通の茶封筒を取り出した。
「和樹さん。これ、読んで」 「なんだよ、改まって。ボーナスの明細か?」 笑いながら封筒を開けた和樹の顔が、一瞬で凍りついた。 中に入っていたのは、離婚届。そして、彼がゴミ箱に捨てたはずの、あのバーのレシートと保証書のカラーコピーだった。
「な……これ、何だよ。嫌がらせか?」 「嫌がらせじゃないわ。私の、最後の手続きよ」 真由美は、コートも脱がず、凛とした声で続けた。 「あなたの浮気も、仕事の嘘も、全部知ってる。でも、それを責める気はないの。だって、私にとって、もうあなたという存在は、怒りを感じる対象ですらなくなったから」
「待てよ、真由美! 俺が悪かったよ。あれは、ただの遊びで……」 「遊びでも本気でも、どっちでもいいの。あなたが誰と過ごそうが、私の人生には一ミリの影響もない。ただ、私は美羽と、新しい人生を始めたい。そこに、あなたは必要ない。それだけよ」
和樹が縋るように真由美の腕を掴もうとしたが、彼女はそれを鮮やかにかわした。 彼女の体からは、不可視の障壁が立ち上がっているようだった。 憐れみ、という名の感情さえ、今の彼女には重すぎる。
「美羽との親権、養育費、それからこの家をどうするか。弁護士さんを通して話をしましょう。私はもう、あなたと直接話す時間は持たないと決めたの」
真由美は、リビングの窓の外を見つめた。 夜の街の明かりが、宝石のように美しく、冷たく輝いている。 39年間の、長い長い冬が終わろうとしていた。 あの日、神社の境内で引いた『凶』のおみくじに書いてあった言葉を思い出す。 『汝の人生は最底辺なり。何をなすも災いとならん』。
(そうね。最底辺まで来たわ。だから、あとは上がるしかない)
真由美は、自分自身の足元を見つめた。 そこには、一歩を踏み出すための、強い力が宿っていた。 情に流されず、未来を見据え、一人の母親として、一人の女性として。 彼女は今、ようやく自分の人生の「ハンドル」を、両手でしっかりと握りしめたのだ。




