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ボルドーの靴で、真っ白な朝を歩く ― 39歳、私の再起動(リブート)  作者: 久遠 睦


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鏡の中の反乱 ― 私を取り戻すための儀式

第2部:鏡の中の反乱 ― 私を取り戻すための儀式


1. はさみの音と、新しい私


土曜日の朝。いつもなら溜まった洗濯機を三回回し、一週間分の食材を買い出しに行く時間に、真由美は駅前の美容院の椅子に座っていた。


「……本当によろしいんですか? 結構切りますよ」 若い美容師が、真由美の肩まで伸びた髪を鏡越しに確認する。 「ええ。思いっきり、いってください。手入れが楽で、でも、どこか強そうな感じで」


シャキ、シャキ、という金属音が耳元で心地よく響く。 床に落ちていく黒い髪は、これまでの十数年、真由美を縛り付けてきた「お母さん」という役割の残骸のように見えた。 カットを終え、鏡の中にいたのは、顎のラインで切り揃えられたシャープなボブスタイルの女性だった。 「……これが、私」 真由美はそっと自分の頬に触れた。髪が軽くなっただけで、肺の奥まで新鮮な空気が入り込むような気がした。


帰り道、彼女は自分のために一足のパンプスを買った。 美羽の運動会や近所のスーパーに行くためのスニーカーではなく、凛として歩くための、少しヒールの高い、鮮やかなボルドーのパンプス。 それは、誰のためでもない、自分の足元を美しく彩るための投資だった。


2. 空白のキッチン

帰宅すると、リビングには異様な光景が広がっていた。 和樹がソファで頭を抱え、床には美羽の宿題のプリントと、脱ぎ散らかされた和樹のスーツが散乱している。


「おい、遅いぞ! 昼飯どうなってるんだよ。美羽がお腹空かせたってうるさくて……」 和樹が立ち上がり、真由美の姿を見て言葉を失った。 「……なんだよ、その髪。それに、その格好」 「髪を切ったの。似合う? あ、お昼は冷蔵庫にあるもので適当に食べてって言ったわよね」 真由美は買ってきたばかりの靴の箱を抱えたまま、平然と答えた。


「適当って、何があるか分からないから聞いてるんだろ! それに、洗濯も終わってないじゃないか」 和樹の怒鳴り声に、真由美はふっと微笑んだ。 「分からないなら、探してみて。それでも見つからなかったら、外で食べてきてもいいわよ。私はこれから、少し出かけてくるから」


「出かけるって、どこに!」 「秘密。自分の時間を、自分だけで使いたいの」 真由美は和樹の返事を聞かずに、再び家を出た。 背後で「ふざけるな!」という声が聞こえたが、今の真由美には、それが遠い異国の言語のようにしか感じられなかった。 彼女が向かったのは、かつて学生時代に通っていた絵画教室の跡地にある、小さなカフェだった。 鞄の中には、昨日買い揃えたばかりのスケッチブックと色鉛筆。 何年も封印していた「描く」という行為。 白い紙に最初の一線を引いた瞬間、真由美の指先が歓喜に震えた。


3. 家事という名の「聖域」の崩壊

真由美の「反乱」は、さらにエスカレートしていった。 彼女は家事代行サービスを週に一度、独断で契約した。 「他人が家に入るなんて、防犯上どうなんだ」 和樹の反対を、彼女は一言で切り捨てた。 「私が全部やるか、誰かに頼むか、あなたがやるか。三択よ。あなたはどれを選ぶの?」 和樹はぐうの音も出ず、自室に引きこもった。


家の中は、以前のような「完璧な清潔」ではなくなったかもしれない。 けれど、真由美の心は、かつてないほど澄み渡っていた。 仕事ではプロジェクトのリーダーとして、取引先との交渉に奔走した。 「永井さんの提案は、現場のリアリティがあって素晴らしい」 クライアントからの称賛が、枯れ果てていた彼女の自尊心に、恵みの雨のように注がれた。


一方で、和樹は目に見えて疲弊していった。 真由美が「背景」であることをやめたことで、彼は自分がどれほど無能な同居人であったかを突きつけられていたのだ。 自分の下着の場所も分からない。 娘が学校で何を学び、何に悩んでいるかも知らない。 真由美が提供していた「快適な日常」というインフラが止まった途端、彼の生活はガタガタと崩れていった。


「……なあ、真由美。もういいだろ、こんなの」 ある夜、和樹がキッチンでカップ麺を啜りながら、弱々しく話しかけてきた。 「前みたいに戻ってくれよ。俺だって仕事が大変なんだ。家くらい、休ませてくれ」


真由美は、明日の会議の資料に目を落としたまま答えた。 「私も仕事が大変なのよ、和樹さん。でも、私は家で休んだことなんて、一度もなかった」 「それは……」 「あなたが『休む』ために、私がどれだけの呼吸を止めてきたか、考えたことがある?」


沈黙が流れる。 真由美は資料を閉じ、和樹の目を真っ直ぐに見つめた。 「私はもう、あなたの休息のための道具には戻らない。もし、この家があなたにとって居心地が悪いなら、別の場所を探してもいいのよ」


それは、遠回しな「別れ」の宣告だった。


4. 娘の瞳と、母の決意

美羽は、そんな両親の様子を静かに見守っていた。 子供は残酷なほどに親の変化に敏感だ。 真由美は、美羽を傷つけているのではないかという罪悪感に、時折押し潰されそうになる。


ある日、美羽が真由美の描いたスケッチブックを覗き込んできた。 そこには、凛とした表情で前を向く、名もなき女性の姿が描かれていた。 「……これ、ママ?」 「うーん、ママの理想かな」 真由美が苦笑いすると、美羽はスケッチブックを指でなぞった。


「ママ、今のほうがいいよ」 「え?」 「前は、ずっと怒ってるか、悲しそうだったもん。今のママは、なんだか……かっこいい」


美羽の言葉に、真由美の視界が急激に滲んだ。 子供のために我慢し、仮面を被り続けることが「良い母親」だと信じ込んでいた。 けれど、美羽が見ていたのは、そんな偽りの微笑みではなく、苦しみながらも自分の足で立とうとする、不器用な母親の真実の姿だったのだ。


真由美は美羽を強く抱きしめた。 「ありがとう、美羽。ママ、もっと頑張るね」


「成人まで別れないほうがいいのか」 そんな問いは、もう必要なかった。 今、この瞬間を、母親が自分らしく生きていない姿を見せ続けることこそが、娘に対する最大の裏切りなのだ。


真由美は、机の引き出しの奥に隠していた一枚の紙を取り出した。 まだ署名はしていない。けれど、その紙が持つ重みは、すでに彼女の覚悟の中に深く刻まれていた。


彼女を閉じ込めていた鏡は、もう粉々に割れている。 映っているのは、歪んだ虚像ではなく、鋭く輝く、39歳の真実の光だった。


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