ひび割れる平穏 ― 仮面の下の鼓動
第1部:ひび割れる平穏 ― 仮面の下の鼓動
1. 予兆の月曜日
月曜日の朝は、一週間の中で最も「砂を噛む」感覚が強い。 真由美はいつものように、分刻みのスケジュールで動いていた。昨夜、深夜までかけて作り置きした副菜を詰め込んだお弁当。美羽を送り出し、和樹が残したパン屑を拭き取り、駅へと走る。
満員電車に揺られながら、真由美は吊り革に掴まった自分の手元を見つめた。 乾燥でささくれた指先。結婚指輪は、家事の邪魔になるからと外して久しい。 「……あと何年、これ(・・・・)を繰り返すんだろう」 思考が暗い沼に沈みかけたその時、スマートフォンの通知が鳴った。
会社に到着すると、部長の佐藤に呼び出された。 「永井さん、少し時間いいかな」 会議室に呼ばれるのは、大抵ろくなことではない。誰かのミスか、あるいは緊急の対応。真由美は反射的に「すみません」という言葉を喉の奥に用意した。
しかし、佐藤が差し出したのは、新しいプロジェクトの企画書だった。 「来期から始まる、ライフスタイル提案事業のサブリーダーを君に任せたいと思っている。君の正確な事務処理能力と、主婦としての視点を活かしてほしいんだ」
真由美は息を呑んだ。 サブリーダー。それは、定時に帰ることを最優先に「責任の軽い仕事」を自ら選んできた彼女にとって、あまりにも大きな変化だった。 「でも、私は……家庭もありますし、残業も難しいかもしれません」 いつもの「逃げの言葉」が口を突いて出る。 「調整はつける。君のキャリアをここで止めておくのはもったいないんだ。39歳、ここが踏ん張りどころじゃないか?」
佐藤の言葉が、真由美の胸の奥を突き刺した。 「踏ん張りどころ」という言葉を、自分はこれまで「家庭を維持すること」にだけ使ってきた。仕事で評価される喜びを、いつの間にか放棄していたのだ。 「……少し、考えさせてください」 「ああ。良い返事を待っているよ」
デスクに戻った真由美の指先は、微かに震えていた。 自分にはまだ「期待される価値」がある。それは、家事や育児という「無償の奉仕」ではない、社会的な対価としての価値だった。
2. 透明な存在
その夜、帰宅した真由美を待っていたのは、暗いリビングと山のような家事だった。 美羽は塾から帰り、一人で冷凍保存していた夕飯を食べていた。 「ママ、おかえり。今日の数学のプリント、全然わかんない」 「ごめんね美羽、先にこれを片付けさせて」 真由美はコートも脱がずにキッチンへ向かう。美羽の問いかけに、心ここにあらずで生返事をする。
十時を過ぎて、和樹が帰宅した。 「あー、疲れた。飯あるか?」 和樹は真由美の顔も見ず、ソファに倒れ込む。 真由美は、先ほどまで考えていたプロジェクトのことを話そうとした。自分の価値が認められたこと、新しい挑戦をしたいということ。
「ねえ、今日、仕事でね……」 「悪い、今ちょっと頭回んないんだ。明日早いからさ」 和樹はスマートフォンをいじりながら、真由美の言葉を遮った。 「飯、温めて置いてくれ。風呂先に入るわ」
真由美は言葉を飲み込んだ。 彼にとって、真由美は「自分の生活を整える背景」に過ぎないのだ。 背景は喋らない。背景は感情を持たない。ただ、心地よい環境を提供し続ければいい。 和樹が脱ぎ捨てた靴下を拾い上げようとして、真由美の手が止まった。
(どうして、私はこれを拾っているの?)
急激な吐き気が彼女を襲った。 今まで「仲が悪くない」と思っていたのは、真由美が一方的に不満を飲み込み、彼に合わせていたからだ。 彼が気にかけないのは、真由美が「気にかけさせる必要がないほど完璧に背景を演じていた」からに他ならない。
真由美は靴下をそのまま放置し、寝室へ向かった。 「おい、飯は?」 背後から和樹の声が聞こえたが、彼女は振り返らなかった。
3. ひび割れる朝
翌朝、真由美は人生で初めての行動に出た。 アラームを無視し、六時を過ぎてもベッドから出なかったのだ。
「おい、真由美。時間だぞ。美羽も起きてこないし、朝飯どうなってるんだ?」 隣で和樹が不機嫌そうに声を上げる。 真由美は薄目を開け、天井を見つめたまま答えた。 「……今日は、体調が悪いの」 「はあ? 風邪か? 薬飲んで早く作れよ。俺、今日大事な会議なんだぞ」 心配の言葉は一言もない。自分の不都合に対する苛立ちだけが、和樹の声に混じっている。
「自分でやって。美羽のも」 「なんだよ、それ……」 和樹は舌打ちをして部屋を出て行った。キッチンから「どこに何があるか分かんねえよ」という怒鳴り声が聞こえ、美羽が「パパ、うるさい」と泣きそうになる声が続く。
布団の中で、真由美は心臓が激しく波打つのを感じていた。 恐ろしかった。長年守り続けてきた「平穏」という名の仮面が、今、自分の手で粉々に砕かれている。 けれど、同時に、言いようのない高揚感が体を駆け巡っていた。 (私は、断った。私は、自分のために時間を止めたんだ)
結局、和樹はコンビニの袋をガサつかせながら、美羽を連れて出て行った。 嵐が去った後の静かな家の中で、真由美はゆっくりと起き上がった。 いつもなら洗濯機の終了合図に追い立てられる時間に、彼女は丁寧にドリップコーヒーを淹れた。
一口、熱い液体を飲む。 苦味が舌に広がり、視界がクリアになる。 「……できるじゃない」 誰に頼まれたわけでもない、自分だけのための時間。 それは、39年間で最も贅沢な朝食だった。
4. 仮面の剥落
その日、真由美は会社に行き、佐藤部長に告げた。 「例のプロジェクト、お引き受けします。ただし、火曜日と木曜日は、チーム全体でノー残業デーを徹底させてください。その代わり、パフォーマンスで返します」
佐藤は驚いた顔をしたが、すぐにニヤリと笑った。 「いいだろう。君のそういう『決意』が見たかったんだ」
その日から、真由美の生活は劇的に変化した。 仕事では、これまで隠していた提案力や調整力を遺憾なく発揮した。プロジェクトは順調に動き出し、チームの雰囲気も変わっていった。 一方で、家庭での「背景」としての役割を、彼女は意図的に放棄し始めた。
夕飯を作らない日を週に二回設けた。 和樹に美羽の塾の迎えを(有無を言わせず)任せた。 「できない」と言うたびに、和樹との間に亀裂が走る。 「お前、最近変わったな。自分勝手すぎるだろ」 ある夜、和樹が真由美の腕を掴んで詰め寄った。
真由美は、真っ直ぐに和樹の目を見つめ返した。 「自分勝手? 自分のやりたいことをやるのが自分勝手なら、これまであなたの希望通りに動いてきた私の時間は、誰のものだったの?」 「それは……主婦として当たり前のことだろ」 「当たり前なんて、どこにもないわ。私がそう(・・)してきただけよ。でも、もうやめたの」
和樹の手が力なく離れる。 彼の瞳の中に、初めて「恐怖」の色が混じった。 真由美が自分の支配下から抜け出し、手の届かない場所へ行こうとしていることに、ようやく気づいたのだ。
真由美は鏡を見た。 そこには、クマは消えないまでも、意志の強い光を宿した一人の女性がいた。 「美羽、パパとママ、もしかしたら別々に暮らすことになるかもしれない」 ある夜、寝物語にそっと美羽に告げた。 美羽はしばらく沈黙した後、真由美の手をぎゅっと握りしめた。 「……ママ、最近、笑うようになったね」
その言葉が、真由美の頬を濡らした。 子供のために我慢していると思っていたのは、自分の独りよがりだった。 子供は、母親の犠牲の上に成り立つ幸せなんて、望んでいない。 母親が、一人の人間として、前を向いて歩く姿を見たいのだ。
真由美の中で、大きな音が立てて、何かが崩れ去った。 それは、彼女を閉じ込めていた「良妻賢母」という名の檻だった。




