砂の味のする日常
序章:砂の味のする日常
1. 午前六時の無音の号砲
スマートフォンのアラームが、枕元で無機質な電子音を奏でる。 真由美は、意識が浮上するよりも先に右手を伸ばし、その音を黙らせた。隣で眠る夫、和樹を起こさないためではない。これ以上、この部屋に不協和音を響かせたくないという、本能的な拒絶だった。
カーテンの隙間から差し込む冬の朝の光は、ひどく冷淡だ。 「……あと五分」 そんな願いは、脳裏に浮かぶ「やることリスト」によって即座に打ち消される。 朝食の準備、娘・美羽のお弁当、洗濯機を回す、自分の身支度、ゴミ出し、そして駅までの全力疾走。
真由美は重い体を剥がすようにしてベッドから起き上がった。足の裏が触れたフローリングの冷たさが、心臓をキュッと縮ませる。 鏡に映った自分の顔を見る。39歳。四捨五入すれば四十。 目元には隠しきれないクマが居座り、肌は乾燥して艶を失っている。「主婦」で「母親」で「会社員」。いくつもの顔を使い分けているうちに、自分自身の本当の顔を忘れてしまったかのようだ。
キッチンに立ち、機械的に湯を沸かす。 ガスの青い炎を見つめながら、真由美はふと思う。 (私はいつから、深呼吸の仕方を忘れてしまったんだろう)
「ママ、おはよ……」 寝癖をつけた小学校三年生の美羽が、目をこすりながらリビングに現れた。 「おはよう、美羽。早く顔を洗ってきなさい。お味噌汁できてるわよ」 「はーい……」 美羽の幼い声だけが、この凍てついた空間を辛うじて人間味のある場所に繋ぎ止めていた。
遅れて、和樹が起きてくる。 彼は無言で食卓につき、スマートフォンを眺めながら、真由美が出したトーストを口に運ぶ。 「今日、帰り遅い?」 真由美の問いに、和樹は画面から目を離さずに答えた。 「ああ、接待が入った。飯はいらない」 「わかった」
会話はそれだけだ。 「気をつけてね」も「いつもありがとう」も、いつの間にか私たちの語彙から消えてしまった。 仲が悪いわけではない。ただ、お互いが「家庭」という組織を運営するための、替えのきかない、けれど興味の対象ではない「部品」になってしまったのだ。
2. 呼吸を止めて走る
職場である中堅の商社へ向かう電車の中、真由美は吊り革に掴まりながら、スマートフォンのスケジュール帳をなぞる。 仕事は中堅どころの事務職。責任は重くなる一方なのに、給料は微々たる上昇。後輩たちのミスをフォローし、上司の機嫌を伺い、定時になった瞬間に「すみません、お先に失礼します」と、まるで罪を犯したかのような顔で会社を飛び出す。
スーパーでの買い物は、もはや戦いだ。 特売の挽肉を掴み、夕飯の献立を脳内で組み立てる。美羽の塾の送迎時間から逆算し、調理時間を十五分に設定する。 家に戻れば、そこには第二の戦場が待っている。
洗濯物を取り込み、掃除機をかけ、揚げ物をしながら美羽の宿題を見る。 「ママ、ここ教えて」 「ちょっと待って、今火を使ってるから。和樹さんに聞いて……あ、和樹さんいなかったわね」 独り言のような返答。 そう、いつも「ちょっと待って」と言っている。 美羽に対しても、そして、自分自身の心の声に対しても。
夕食後、美羽をお風呂に入れ、寝かしつける。 ようやく訪れた「自由な時間」は、すでに深夜十一時を回っていた。 キッチンに残された汚れた食器、リビングに散らばったプリント、溜まったアイロンがけ。 真由美はソファに深く沈み込み、天井を見上げた。
「……疲れちゃったな」
声に出すと、それは重たい鉛のように床に落ちた。 かつて夢見ていた人生は、こんなものだっただろうか。 もっと鮮やかで、もっと心が震えるような瞬間が散りばめられているはずではなかったか。
3. 週末という名の労働
待望の週末が来ても、真由美に安息はない。 土曜の朝、隣で高い鼾をかいて眠る和樹を横目に、彼女は這うようにしてベッドを出る。 週末は「溜まった家事」を片付ける日だ。平日に手が回らなかった窓拭き、シーツの洗濯、一週間分の副菜の作り置き。
ベランダで重いシーツを干しているとき、隣の家のベランダから、若い夫婦の笑い声が聞こえてきた。 「ねえ、今日はどこに行こうか」 「映画でも観に行く?」 そんな会話。
真由美は、乾いた布をパンパンと叩いた。 自分たちにも、あんな時代があった。 和樹の手が自分の髪に触れるだけで、胸が高鳴った日々。 今の彼は、真由美が髪型を変えても、新しい服を着ても、気づきもしないだろう。 それどころか、最近では彼に触れられることを想像するだけで、奥歯のあたりがゾワリとするような嫌悪感が込み上げる。
「今更、求められても……気持ち悪い」
そう毒づく自分に驚くこともなくなった。 夫婦関係は、いつしか「同居人」ですらなく「共同経営者」へと成り下がった。 愛があるから一緒にいるのではない。 住宅ローンという負債と、子育てという責任を分担するために、同じ屋根の下にいるだけだ。
夜、帰宅した和樹が、リビングで缶ビールを開ける。 「美羽、寝たのか」 「ええ、さっきね」 「そうか」 それっきり、沈黙が支配する。 和樹のネクタイから、見知らぬ香水の匂いがしても、今の真由美にはそれを問い詰める気力すら湧かない。 浮気? していたとしても、構わない。 それで彼が外で機嫌を直して、家の中に波風を立てないなら、むしろ好都合だ。 それほどまでに、彼女の心は彼に対して、絶望を超えた「無関心」の領土に足を踏み入れていた。
4. 檻の中の問い
ふとした瞬間、鏡を見る。 そこには、39歳の「誰でもない女性」が立っている。 「子供のために、頑張ってるのかな」 自分に問いかけてみる。 美羽が成人するまで、あと十年。 その十年を耐え抜けば、私は自由になれるのだろうか。 けれど、その時の私は49歳だ。 人生の盛りを、ただ「耐えること」に費やしてしまっていいのだろうか。
「今、別れてもいいんじゃないの?」 頭の中のささやき。 けれど、経済的な不安、美羽の情緒、世間体。 いくつもの目に見えない鎖が、真由美の足をこの家の床に縫い付けている。
(いや、違う) 真由美は、冷たくなったコーヒーを一口飲んだ。 (私は、抜け出せる行動をしていないだけだ。この檻の鍵は、本当は開いているのに、外に出るのが怖くて、自分で内側から閉めているだけなんだ)
窓の外では、夜の街が静かに呼吸している。 どこかで誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが新しい一歩を踏み出している。 真由美は拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込み、微かな痛みを与える。 このまま、砂を噛むような日常の中で、枯れていくだけの人生。 そんな結末は、死んでも御免だ。
「……変えなきゃ」
震える声で呟いたその言葉が、真由美の胸の奥で、小さく、けれど消えない火を灯した。 それは、39年間の惰性を焼き尽くすための、孤独な反逆の始まりだった。




