9話
馬の蹄が地面を叩く音の中で、
ルイの視界にふいに“別の景色”が浮かんだ。
それは、
彼の人生を変えた“たった一日の記憶”。
幼いルイは、
王宮の広間の隅に立っていた。
外交の儀式。
各国の貴族が集い、礼装の音が響く。
いつものように、
ルイは壁の影に隠れていた。
気弱で、
人前ではうまく言葉も出ず、
兄たちより劣ってばかり。
(誰も僕なんて見ない……
見ても笑うだけだ……)
その時――
広間に、
まるで空気が変わるほどの“輝き”が現れた。
少女だった。
金糸のような髪。
翡翠のような瞳。
凛とした立ち姿。
まだ幼いのに、
まるで“何かの象徴”のように清らかだった。
マリー・アントワネット。
人々の視線が吸い寄せられるのが分かった。
空気が澄み、
空間が彼女を中心に整っていく。
そしてルイは――
ただ、息を忘れた。
(……綺麗だ……)
そんな言葉で足りない。
“美しい”も弱い。
あれは──
奇跡だった。
ルイは息を忘れた。
(……な、んだ……
この……美しさ……)
気弱で、人前が苦手で、
自分に自信など欠片もなかった彼は、
身体が硬直して動けなかった。
ただ、見惚れた。
ただ、その存在に魅せられた。
ただ、世界が静止した。
そして、少女はルイの前に歩いてきた
彼女は緊張も傲りも見せず、
堂々と、しかし柔らかに歩く。
そして、
“まだ誰にも気づかれていない影”のように立っていたルイを、
まっすぐ見つけた。
少女は微笑んだ。
その一瞬だけで、
広間の空気が優しく揺れた。
ルイの胸が跳ねる。
(……ぼくなんか……
見られるような人間じゃ……)
そう思った瞬間――
少女は、静かにスカートの裾をつまみ、
気品ある所作で頭を下げた。
「初めまして。
マリー・アントワネットと申します。」
ルイは完全に言葉を失った。
声が出ない。
呼吸すら上手くできない。
それでも少女は責めない。
困らせない。
ただ優しく、話しかける。
「あなたが、ルイ殿下ですね。
お会いできて嬉しいです。」
その声は鈴のように澄んでいた。
⸻
ルイはようやく、震えながら答えた。
「……ぼ、僕も……
その……会えて……」
少女は微笑み、周囲の喧騒など気にも留めず、
まるで“二人だけの会話”の空間を作るようだった。
「フランスは、とても美しい国ですね。
お父様も、お母様も、この日のことを喜んでいました。」
「……そ、そうなんだ……」
「この国で、私にできることがあれば……
いつかお力になれれば、と思います。」
ルイは驚いた。
気品ある言葉なのに、
押しつけがましさも、高慢さもない。
ただ純粋に、
人のために何かをしたいという意思だけがある。
少女が続ける言葉は、
子どものものとは思えなかった。
深い教養と知識。
気高さ。
優しさ。
聡明さ。
温かさ。
ルイは、胸の奥で何かが弾けた。
(……この人は……
ただ綺麗なだけじゃない……
本当に……すごい人だ……)
⸻
自分が恥ずかしくなった瞬間
少女がこちらに微笑むたび、
ルイは胸が痛んだ。
(僕なんか……
こんな素晴らしい人に釣り合うわけがない……)
情けなさが襲いかかった。
しかしそれ以上に、
胸の奥で燃え上がった。
(変わりたい……!)
(彼女に見合う人間になりたい……!)
(彼女の願いを、
彼女の夢を、
叶えられる王になりたい……!)
この瞬間、
少年ルイの人生は変わった。
弱々しくて怯えてばかりの三男は、
“ひとりの少女”のために
強くなろうと決意した。
たった一度の出会いで。




