第39章 — 灰の噂
その夜、街は眠らなかった。
存在してはならないものを目撃したかのように――
あらゆる角、路地、窓が、生存本能だけで目を覚ましたままになっていた。
リョクは通りをふらつきながら歩く。
身体は焼けただれ、呼吸は裂けた肺を引きずるよう。
顔は刻まれ、両手の皮膚は失われ、
その身は“痛み”そのものの生きた monument。
それでも――生きている。
影は数メートル後ろから彼を見つめていた。
まだ震えている。
半分は煙、半分は出来たばかりの黒い肉。
金属のような瞳は不規則に瞬き、
崩れかけた記憶が必死に形を取り戻そうとしていた。
二人は歩く。
味方でもなく。
敵でもなく。
ただ――共に罰された者たちのように。
屋根の上では住民が懐中電灯を向ける。
祈りを呟く者もいれば、
震える手で動画を撮る者もいる。
「奴だ……」
「影の少年……」
「爆発から生き残った怪物……」
「二人とも……死んでなかった……」
「神よ……あれは何なんだ……?」
リョクには、すべてが遠い雑音だった。
自分の荒い呼吸のほうが、ずっと大きい。
内側の存在は何か言おうとしたが――
失敗した。
声は途切れ、燃料切れのエンジンのように弱く揺らぐだけ。
だが関係なかった。
影が代わりに語れるようになっていた。
影は近づく。
ゆっくりと――慎重に。
まるで、まだ“存在する方法”を学んでいるかのように。
「……いきる……」
歪んだ声が響く。
複数の声が重なり、こだまのさらにこだまのように。
「……いきたい……」
リョクはその存在を見て、予想外の感情を覚えた。
哀れみ。
「お前は……生きるって何か分かってない」
彼はかすれ声で言う。
「お前は……“喰う”ことしか知らない」
影はぎこちなく首を振った。
調整の狂った機械のように。
「ちが……う……
……おれ……まなんだ……」
影は自分の胸に
闇の液体でできた指を押し当てる。
「……いたい……
……たりない……
……しってる……
……おまえが……すくおうと……した……」
一歩。
そしてまた一歩。
「おれ……“いたみ”だけに……なりたくない……」
リョクの心臓が軋む音が聞こえた気がした。
影は嘘をついていない。
影はリョクの痛みから生まれた。
欠落から生まれた。
救いたいという願望が歪んだ末に生まれた。
そして今、
怪物が“生きたい”と願っている。
街全体が見ていた。
窓から身を乗り出す者。
泣く者。
逃げる者。
動けず立ち尽くす者。
それが悲劇なのか、
奇跡なのか、
終末なのか、
判別できないまま。
リョクは身体を支えきれず、膝をついた。
影はすぐに彼を支えようとして――
だが、触れる直前で止まった。
まるで、
触れれば壊してしまうことを恐れたかのように。
アベニューは完全な静寂に包まれた。
そして――
世界がまた割れようとした瞬間。
ビルの屋上からレポーターが叫んだ。
「生きていたぞ! 爆発から!」
「もう一つの怪物もだ!」
「影の怪物には“子供”がいる!」
「街はもう終わりだ!!」
叫びは街を切り裂いた。
扉が閉まる音。
逃げる足音。
広がる悲鳴。
監視ドローンが空を埋める。
影はリョクの前に立った。
守るように。
本能的に。
リョクは息を吸い、内側から燃える痛みに顔を歪めた。
「……生きたいなら……」
彼は呟く。
「……俺が……これを終わらせるのを……止めるな……」
影は首を傾ける。
「……おわらせる……?」
その答えを言う前に、
遠くでサイレンが鳴り始めた。
どんどん近づく。
警察か。
軍か。
それとも――もっと別の何かか。
そして、この物語の転換点が訪れる。
影ははじめて“完全な意志”を宿した目でリョクを見つめ、
彼の肩をしっかりと掴んだ。
そして言った。
「……おまえ……ころさせない……」
それは――脅しではなかった。
約束だった。




