第36章 — 二つの世界の狭間のレース
エンジンが、コンクリートの下に閉じ込められた雷鳴のように轟く。
群衆は静まり返る。
空気が変わった——濃く、重く、
まるで街全体が衝突の直前に息を止めているかのように。
リョクは“もうひとりの自分”を見据えた。
影は肺も肉体もないのに呼吸しているように震え、
それなのに、あまりにも“生きすぎていた”。
金属光の瞳は、浸水したトンネルで光るヘッドライトのように輝いた。
即席の旗が上がる。
時間が圧縮される。
そして——
スタート。
リョクはアクセルを踏み抜く。
車は恐怖を飲み込み、舗道に吸い込まれるように飛び出す。
影も同時に動く。
車もタイヤもない。
だが常識を超えた速度で地面すれすれを浮き、
焼けたインクのような黒い軌跡を残す。
街が溶けていく——
ビル、電柱、光、サイレン。
すべてがレースの中で崩れ落ちる。
内側の存在が吠える。
「もっと速く! あれは“限界を持たないお前”だ!」
リョクは急カーブに突っ込む。
車体は滑るように横へ流れるが、
今の彼は数週間ぶりに“自分で操縦している”と実感した。
影は壁を霧のように通り抜け、
側面から一瞬で現れ、
腕を伸ばし——
闇の指でボンネットを引き裂こうと掴みかかる。
リョクは急旋回。
車は危うく転倒しかける。
だが彼は立て直す。
東橋に差しかかる頃、街灯が明滅し始めた。
風が異様に冷たい。
影は手すりの上を走っていた。
何もない空間に足を置き、
足音は折れた骨のようにパキッと鳴る。
存在が囁く。
「勝てるものか。
あれは“お前の強い部分だけ”でできている。」
リョクは低く唸る。
「でもこれは……」
彼はハンドルを握る。
手に力が戻る。
胸に、消えかけた温かさが灯る。
「……あいつにない部分だ。」
車は加速。
大型トラックの下をギリギリで潜り抜ける。
影は真似をしようとする——
だが一瞬遅れた。
一瞬の、
小さな、
誤差。
リョクは理解した。
そして、笑った。
存在が驚いた声を漏らす。
「感じたか? あれは失敗した。」
リョクは答える。
「あいつは“犠牲”を知らない。
知っているのは“喰らう”ことだけだ。」
レースは街の中心部に突入する。
鏡張りのビルに映る二つの影——
人間と悪夢が並走する。
影はバスをすり抜けて前に出ようとする。
リョクはアクセルを踏み込み、車体を横にスライド。
側面をぶつけ、強引に影の進路を奪う。
存在が歓喜する。
「それだ! “道に生まれたのはお前だ”と教えてやれ!」
影は爆発的な怒りを放った。
腕を伸ばし、触れた車を潰し、
標識を引き裂き、
窓を粉砕しながら暴走する。
影はリョクの車の屋根に飛び乗る。
拳を振り下ろし、
フロントガラスが蜘蛛の巣のように砕けた。
リョクは割れたガラスに映る自分の目を見た。
片方は人間。
片方は悪魔。
分かれ、迷い、揺れている。
存在が言う。
「あれが生きている限り、お前は消える。
お前が生きるには……奴を消すしかない。」
リョクはハンドルを強く握りしめた。
そして、やっと悟った。
「じゃあ……俺が選ぶ。」
次のトンネルの壁に向かって車を叩きつけた。
衝撃が全身を貫く。
車体が壁を削り、火花が雨のように散る。
影は弾き飛ばされ、
千の記憶が割れるような悲鳴を上げ、
壁を貫通して黒い跡を残した。
リョクは寸前で立て直し、
煙と火花をまき散らしながらトンネルを抜ける。
影は再び現れた。
歪み、怒り狂い、
嵐のように追ってくる。
これはもうレースではない。
追跡。
そして——ミクロの転換点が訪れた。
リョクは恐ろしい事実に気づく。
自分が血を流せば、影は癒える。
自分が疲れれば、影は加速する。
自分が生きているほど……影は“完成する”。
次のカーブが、
どちらが存在を続けられるかを決める。




