第26章 — 闇を受け入れる
リョクは細い路地を、
逃げる亡霊のように駆け抜けていた。
だが一歩進むごとに足は重くなる。
背後ではサイレンが遠く反響し、
“もう戻れない”という事実だけを
何度も何度も突きつけてくる。
彼は人けのない裏路地へ飛び込んだ。
非常灯が赤く点滅し、
まるで裂けた傷口のように闇を照らす。
空気は黴と錆の臭いで満ち、
さらに――
名前のない“何か”が
彼を呼ぶように息づいていた。
影はリョクの横をゆっくり滑り、
まるで逃げているのがリョクではなく、
街そのものだと言わんばかりだった。
「逃げるのはやめろ。」
存在が囁く。
「この街がお前を狩るというのなら……
今度は“街”を走らせろ。」
リョクは膝から崩れ落ちた。
身体は震え、
息は乱れる。
「……俺は……こんなの望んでない!
ただ……ただ、強くなりたかっただけだ。
守れるほど……走れるほど……!」
影は巨大な姿で彼の上に垂れ下がる。
音もなく、しかし圧倒的な存在感で。
「望みは叶った。」
その笑いは、
抑えつけられたエンジンの咆哮のようだった。
「お前は痛みから、
弱さから、
あの日世界がお前を救わなかった“現実”から
解放された。」
リョクは胸を押さえた。
心臓は不規則に脈打ち、
その鼓動の中に――
“自分ではない何か”が脈動していた。
路地の突き当たり、
錆びた車が停めてある。
唯一、
友と呼べる存在。
リョクは悟った。
――速度の外にはもう、自分の生はない。
「戻れないんだな……俺は。」
かすれた声で呟く。
「戻れない。」
存在は満足げに言う。
「だが……前へ進める。」
その言葉に呼応するように――
車のエンジンが、自動で唸りを上げた。
誰も触れていないのに
ライトが点灯し、
リョクを射抜くように照らす。
影は背後で形を固める。
腕。
胸。
長く伸びた頭部。
顔はない。
だが“意志”だけが禍々しく宿っていた。
「受け入れろ。」
存在が命じる。
「俺を使え。
お前を無敵にしてやる。」
リョクはゆっくりと顔を上げた。
まだ恐怖は残っている。
しかし――
その奥に、
別のものが芽生えていた。
空洞のような安堵。
もはや、
戦い続ける方が苦しい。
彼は深く息を吸った。
その一呼吸は、
路地の闇をそのまま肺に取り込むような
黒い呼吸だった。
「……なら来い。」
声は低く、
二重に響いた。
「誰も俺を救えないなら……
俺が“この街の恐怖”になってやる。」
影はリョクの肉体へと半ば溶け込み、
腕、胸、首へと絡みつく。
まるで生きた刺青のように
肌を這いずり回った。
リョクは車に乗り込む。
ハンドルは脈打っていた。
まるで心臓の鼓動。
「賢い選択だ。」
存在は歓喜に満ちた声で言った。
「さあ――本当の加速を始めよう。」
ルームミラーに映ったリョクの顔。
片方の目は普通。
もう片方は――
完全な漆黒。
そして“微細な変化”が訪れる。
アクセルを踏み込んだ瞬間、
リョクの足跡が路面に残った。
黒い跡。
煙のように揺らめき、
すぐに消え去る。
まるで――
人間が、
存在としての“形”を手放し始めたかのように。




