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第19章 — 愛そうとする者

夜明け前の静寂は異様だった。

まるで世界そのものが、リョクの近くで音を立てることを避けているように。


彼は目的もなく走り続けていた。

奪われた記憶が空いた場所を、鈍い痛みが脈打つ。

信号は遠すぎ、影は近すぎる。


閉まったガソリンスタンドに車を停めたとき、

足音が近づくまで、そこに誰かいることすら気づかなかった。


ミカだった。


ここ数ヶ月、

工場以外でリョクに声をかけ続けていた、

唯一の人間。


疲れた瞳。

大きすぎるコート。

かすかな不安の影。


彼が何日も姿を消すたび、

いつも心配してくれていた。


「リョク?」

彼女の声は小さく…

まるで、触れたら壊れてしまうものに話しかけるようだった。

「ケガしてる…それに、なんか違う。」


リョクは返事をしようとするが、喉が閉じる。

ミカは彼の震える両手に気づき、そっと眉を寄せた。


「あなたがあのレースに関わってるの、知ってる」

彼女は続けた。

「それが必要だって思ってるのもわかる。

 でも……心配なんだよ。すごく。」


声が少しだけ震える。


「あなたまで失いたくないの。」


その言葉は、

見えない衝撃のように胸を打った。


――失いたくない。

両親のように。

記憶のように。

タケダのように。

自分自身のように。


リョクは半歩後退した。

彼女から逃げたのではない。

“彼女を傷つける自分”が怖かった。


あの存在が囁く。

ほとんど笑いながら。


「離れろ。

  あの子は“温かさ”。

  お前にそんなものは必要ない。」


リョクは眼を閉じ、

その声を押し殺そうとした。


「ミカ……今、俺に近づかないほうがいい。」


それでも彼女は足を踏み出した。


「帰らないよ。

 こんな状態のあなたを置いて行けるわけない。

 助けさせて。お願い。」


その瞬間、存在が反応した。

空気が冷え、

リョクの体は硬くこわばる。


「あの子は“道”を消そうとしている。

  押しのけろ。」


リョクの中で二つの衝動がぶつかる。

ひとつは温かく、人間らしい。

もうひとつは冷たく、飢えている。


「ミカ……」

声が震える。

「離れてくれ。俺は……俺はもう安全じゃない。」


ミカは彼の腕に触れた。


ただの、優しい、人間の触れ方。


リョクが痛みなく思い出せる、

最後の“温かい記憶”の種類。


その一瞬だけ、存在は後ろに下がった。

その一瞬だけ、彼の中に温度が戻った。


「私はあなたを怖がらない。」

ミカの声は揺れず、まっすぐだった。


それが、リョクの内側の何かを壊した。


彼は腕を振り払った。

乱暴に。

ほとんど押し飛ばすように。


「怖がれよ。」


ミカは怯えて後退した。

「リョク…?」


彼は車に飛び乗り、

彼女が言い切る前にドアを閉めた。


エンジンは――自動で、獣のように咆哮して起きた。


リョクが走り去ると、

ミカはその場に取り残され、

震えながら彼の名前を呼んだ。


ルームミラーを見ると――

ミカの姿は距離以上に小さく映っていた。


まるでリョクの“影”が周囲の世界を押し広げ、

彼女を遠ざけているように。


そして“微細な変化”は、

満足げな囁きとして届いた。


「あの子が消えるのは時間の問題だ。

 選ぶのはお前か……それとも俺か。」

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