第二話 崩壊は静かに、確実に
俺の無実が報道されたのは、逮捕から一週間後だった。
『大手IT企業法務部長の痴漢冤罪、虚偽告訴で女を逮捕』
ニュースは瞬く間に拡散された。だが、最初に俺を叩いた者たちの反応は鈍かった。「冤罪だったんだ、可哀想」という声もあったが、多くは沈黙した。自分たちが誹謗中傷に加担したことなど、都合よく忘れているのだろう。だが、俺は忘れない。スクリーンショットで保存した全てのコメント、アカウント、投稿内容。法的措置の準備は既に整っている。
真冬が事務所に来た。
「壬琴さん、お疲れ様です」
彼女は柔らかく微笑んだ。三十三歳、聡明で美しい女性だ。俺が法務部長時代に育てた部下の中で、最も優秀だった。
「真冬、報告を」
「まず、時任修司の件ですが、会社に横領の証拠を提出しました。金額は約三千万円。明日にも警察に告発されるでしょう」
「それから?」
「時任の妻、弓華さんにも接触しました。彼女は時任の不倫と横領を全く知らされていませんでした。離婚を決意されています」
「子供は?」
「二人とも小学生です。弓華さんが親権を取る方向で進めています」
俺は頷いた。
「時任の浮気相手は?」
「璃々音さん以外に三人確認しました。全員に証拠を送付済みです」
「完璧だ」
真冬は少し表情を曇らせた。
「壬琴さん、本当にこれでいいんですか?」
「何が?」
「璃々音さんも、紬希さんも、まだ家族じゃないですか」
俺は窓の外を見た。
「家族というのは、信じ合えるから家族なんだ。俺が冤罪で苦しんでいる時、彼女たちは俺を信じなかった。それどころか、切り捨てようとした」
「でも」
「真冬、お前は俺を信じてくれた。俺が何も言わなくても、無実だと信じて動いてくれた」
真冬は黙った。
「家族の定義は、血縁じゃない。信頼だ」
その夜、家に帰ると妻が土下座していた。
「お願い、許して」
床に額をつけて、妻は泣いていた。
「時任さんに騙されてた。私、バカだった。もう一度やり直させて」
俺は無言でその姿を見下ろした。
「壬琴、お願い。離婚だけは……」
「遅い」
俺は冷たく言った。
「もう弁護士を通して離婚調停を申し立てた。慰謝料は二千万円だ」
妻は顔を上げた。
「そんな金額、払えない」
「お前の退職金と貯金で足りるだろう。足りなければ、時任修司にでも請求すればいい。あ、でも彼はもうすぐ逮捕されるから無理か」
妻は絶望的な表情になった。
「時任さん、逮捕されるの?」
「横領でな。三千万円。懲役は確実だ」
「嘘……」
「それと、時任には妻と子供が二人いる。お前は不倫相手の一人に過ぎなかった」
妻は崩れ落ちた。
「そんな……時任さんは私を愛してるって……」
「愛?あいつがお前に言ったセリフを、他の女にも言っていたよ。全く同じ言葉でな」
俺はスマートフォンを取り出し、メッセージのスクリーンショットを見せた。時任が複数の女性に送っていた、判で押したような甘い言葉の数々。「お前は特別だ」「君だけを愛してる」「妻とは形だけの関係だ」。全て同じ。コピー&ペーストされた愛の言葉。妻は嗚咽を漏らした。
「私……私……」
「お前は利用されただけだ。そして、俺を裏切った」
俺は背を向けた。
「明日から俺は実家に戻る。家はお前と紬希に任せる。だが、離婚調停には必ず出席しろ」
「待って」
妻が俺の服を掴もうとしたが、俺は振り払った。その瞬間、娘の紬希が部屋から出てきた。
「お父さん、待って」
紬希の目は泣き腫らしていた。
「お父さん、ごめんなさい。私、お父さんを信じなかった」
「今更謝られても遅い」
「でも……」
「紬希、お前は俺が逮捕された時、恥ずかしいと言った。お前にとって俺は、恥ずかしい存在だったんだろう」
「違うの。私、パニックになってて」
「そのパニックの時に出た言葉が本音だ」
紬希は泣き崩れた。
「お父さん、お願い。もう一度チャンスを」
「チャンスはもうやった。お前たちはそれを無駄にした」
俺は玄関に向かった。
「それと紬希、お前の学費はもう払わない。奨学金でも何でも自分で何とかしろ」
「え……」
「俺にはお前を支える義務はない。お前は俺を捨てたんだから」
「お父さん!」
紬希の叫びを背に、俺は家を出た。
翌日、時任修司が逮捕された。ニュースは大々的に報道された。
『大手外資系企業社員、三千万円横領で逮捕 複数の不倫関係も発覚』
時任の顔写真が晒され、ネットは炎上した。
『こいつ最低』
『妻と子供可哀想』
『死刑にしろ』
かつて俺に向けられたのと同じ言葉が、今度は時任に向けられていた。人々は誰かを叩くのが好きなのだ。正義の名の下に。
時任の妻、弓華さんは会見を開いた。
「夫の行為を知り、大変なショックを受けています。私と子供たちは離婚を決意しました。不倫相手の女性たちには、慰謝料を請求させていただきます」
弓華さんは毅然としていた。彼女は被害者だ。そして、璃々音も慰謝料請求のリストに入っていた。妻から電話があった。
「壬琴、お願い。弓華さんに慰謝料を払うなんて無理。二百万円なんて」
「お前が不倫したんだから当然だろう」
「でも、私、騙されてたのよ」
「騙された方が悪い」
「ひどい」
「ひどいのはお前だ」
俺は電話を切った。その後、真冬から連絡があった。
「壬琴さん、誹謗中傷した者たちへの法的措置ですが、リストアップが完了しました。約二百名です」
「全員に内容証明を送ってくれ」
「分かりました。損害賠償請求額は一人あたり五十万円でよろしいですか?」
「ああ。払えない者は裁判で争えばいい」
「承知しました」
誹謗中傷した者たちは、突然届いた内容証明に震え上がっただろう。
『あなたが投稿した以下の内容は、名誉毀損に該当します。損害賠償として五十万円を請求します』
具体的な投稿内容、日時、アカウント名。全て証拠として添付されている。逃れることはできない。ネットでは悲鳴が上がり始めた。
『柊壬琴に訴えられた』
『たかがコメントで五十万とか頭おかしい』
『これ払わなきゃダメなの?』
当然だ。お前たちは他人の人生を破壊しようとしたのだから。その代償は払ってもらう。
数週間後、妻と離婚調停が行われた。調停室で、妻は憔悴しきっていた。頬はこけ、目の下にはクマができていた。
「壬琴さん、璃々音さん、まずは双方の主張を」
調停委員が言った。
「私は離婚と慰謝料二千万円を請求します」
俺は淡々と述べた。
「理由は妻の不貞行為。証拠は全て提出済みです」
調停委員は分厚い資料を見た。ホテルの出入り記録、メッセージのやり取り、探偵の報告書。決定的な証拠の山。
「璃々音さん、これについて反論は?」
妻は俯いた。
「ありません」
「慰謝料の金額についてはいかがですか?」
「高すぎます。私には払えません」
「では、どのくらいなら」
「百万円が限界です」
俺は冷たく言った。
「それなら裁判にします。裁判になれば三千万円請求します」
妻は顔を上げた。
「三千万なんて」
「時任修司との共謀による痴漢冤罪の損害も含めてな。お前が時任と結託して俺を陥れたこと、証拠がある」
「そんなことしてない!」
「時任が逮捕された後、お前は彼に何度も連絡していただろう。『壬琴にバレた、どうしよう』と。その記録も押さえている」
妻は絶句した。
「二千万で手を打つか、三千万で争うか。選べ」
妻は震える手で、離婚協議書にサインした。調停は成立した。俺たちは二十年の結婚生活に終止符を打った。調停室を出る時、妻が最後に言った。
「壬琴、あなたは変わってしまった」
俺は振り返らずに答えた。
「変わったのはお前だ。俺はずっと同じだった」
それが最後の会話になった。
数日後、真冬の事務所で書類を整理していると、彼女がコーヒーを淹れてくれた。
「お疲れ様です、壬琴さん」
「ありがとう」
俺はカップを受け取った。
「誹謗中傷の件ですが、既に百五十名から和解の申し出がありました。残りの五十名は争う姿勢のようです」
「裁判の準備を」
「承知しました」
真冬は資料を閉じて、俺を見た。
「壬琴さん、これで満足ですか?」
「何が?」
「復讐です。璃々音さんも、紬希さんも、時任修司も、誹謗中傷した人たちも、みんな地獄を見ました」
俺は窓の外を見た。
「満足かと聞かれれば、満足だ」
「でも、壬琴さんは幸せそうに見えません」
「幸せ?」
俺は笑った。
「幸せなんてものは幻想だ。俺はただ、公正な結果を求めただけだ」
「公正」
真冬は繰り返した。
「壬琴さん、一つ聞いてもいいですか?」
「何だ」
「痴漢冤罪が起きた時、壬琴さんは最初から全てを知っていましたよね。璃々音さんの不倫も、時任修司の正体も」
俺は黙った。
「もしかして、壬琴さんは冤罪を利用したんじゃないですか?家族を試すために」
鋭い。さすが真冬だ。
「もしそうだとしたら?」
「それは復讐じゃなくて、実験です。人間性の実験」
俺は真冬を見た。
「その通りだ」
真冬は息を呑んだ。
「俺は家族を試した。もし彼らが俺を信じて支えてくれたなら、俺は全てを水に流すつもりだった。不倫の証拠も、時任の横領も、全て忘れて、もう一度やり直すつもりだった」
「でも」
「でも彼らは俺を裏切った。だから、俺も彼らを切り捨てた。それだけだ」
真冬は悲しそうな顔をした。
「壬琴さん、それは冷たすぎます」
「冷たい?冷たいのは彼らの方だ」
俺は立ち上がった。
「俺は二十年間、家族のために働いた。妻と娘に不自由させないように、必死で働いた。だが、いざという時、彼らは俺を信じなかった。それが答えだ」
「でも、人間は完璧じゃありません。弱い瞬間もあります」
「その弱さが本性だ」
俺は真冬の肩に手を置いた。
「真冬、お前は俺を信じてくれた。それだけで十分だ」
真冬は頬を赤らめた。
「壬琴さん……」
その瞬間、事務所のドアが開いた。紬希が立っていた。
「お父さん」
「紬希」
娘は痩せ細っていた。目は虚ろで、服装も乱れていた。
「話がしたい」
「何の話だ」
「お父さん、お願い。もう一度、家族に戻って」
俺は首を振った。
「無理だ」
「お母さんが大変なの。慰謝料で貯金が全部なくなって、仕事もクビになって」
「自業自得だ」
「でも、お母さん、精神的におかしくなってる。毎日泣いてて、何も食べなくて」
俺は感情を動かさなかった。
「それは俺の問題じゃない」
「お父さん!」
紬希が叫んだ。
「お父さんは冷たすぎる!家族でしょ!」
「家族?お前が俺を恥ずかしいと言った時、家族は終わったんだ」
「あれは……私、パニックで」
「パニックの時こそ本音が出る」
俺は紬希を見据えた。
「紬希、お前は俺より母親を選んだ。なら、母親と生きろ」
「私、学校辞めなきゃいけないかもしれない。学費が払えなくて」
「奨学金を借りろ。バイトをしろ。自分でどうにかしろ」
「お父さん、鬼だ」
紬希は泣き崩れた。
「お父さんなんて、大嫌い」
その言葉に、俺の心は何も動かなかった。
「そうか。じゃあ、もう会うこともないな」
俺は紬希を残して、事務所を出た。真冬が追いかけてきた。
「壬琴さん、本当にあれでよかったんですか?」
「ああ」
「でも、紬希さんはまだ十八歳です」
「十八なら大人だ。自分の言動には責任を持つべきだ」
真冬は何も言えなかった。
それから数ヶ月が経った。時任修司は懲役五年の判決を受けた。横領罪と虚偽告訴教唆罪。刑務所で過ごす日々は、彼にとって地獄だろう。妻の璃々音は、会社を解雇され、慰謝料の支払いで貯金を失い、実家に戻った。だが、実家の両親も妻を冷たくあしらった。自業自得だと。娘の紬希は大学を中退し、アルバイトで生計を立てている。SNSのアカウントは削除し、友人たちとも縁を切ったらしい。誹謗中傷した者たちは、次々と損害賠償を支払った。裁判で争った五十名も、全員敗訴し、さらに高額な賠償金と弁護士費用を負担することになった。
俺は会社に復帰した。社員たちは俺を見る目が変わっていた。恐怖と尊敬が混ざったような視線。
「柊部長、お帰りなさい」
「ああ」
俺は何事もなかったかのように仕事を始めた。ある日、真冬から連絡があった。
「壬琴さん、食事でもいかがですか?」
「いいだろう」
レストランで向かい合って座った。
「壬琴さん、最近どうですか?」
「普通だ」
「本当に?」
真冬は心配そうに俺を見た。
「壬琴さん、あなたは勝ちました。でも、幸せそうには見えません」
「幸せなんて求めていない」
「じゃあ、何を求めているんですか?」
俺は答えられなかった。何を求めているのか。復讐は完遂した。俺を裏切った者たちは全員、相応の報いを受けた。だが、それで何が変わったのか。俺の心には、空虚さだけが残っていた。
「壬琴さん」
真冬が俺の手を握った。
「もう、前を向きませんか?」
「前?」
「過去に囚われるのはやめて、新しい人生を始めましょう」
俺は真冬を見た。彼女の目は優しく、温かかった。
「真冬、お前は俺を受け入れられるのか?こんな冷たい男を」
「あなたは冷たくなんかありません。ただ、傷ついただけです」
真冬は微笑んだ。
「壬琴さん、あなたはずっと一人で戦ってきた。でも、もう一人じゃありません」
その言葉に、俺の心が少し温かくなった。
「真冬……」
「私、壬琴さんのこと、ずっと尊敬してました。そして……好きでした」
真冬の告白に、俺は驚いた。
「いつから」
「部下だった頃からです。でも、壬琴さんには家族がいたから、何も言えませんでした」
真冬は俯いた。
「でも今は、もう独身ですよね」
俺は真冬の手を握り返した。
「ありがとう」
その夜、俺は久しぶりに安らかな気持ちになった。
それから一年が経った。俺は真冬と再婚した。小さな式だったが、温かい時間だった。真冬の家族は俺を歓迎してくれた。新しい家で、新しい生活が始まった。真冬は優しく、聡明で、俺を支えてくれた。ある日、街で偶然、紬希を見かけた。娘はコンビニで働いていた。疲れた表情で、客にペコペコと頭を下げていた。俺の姿に気づいた紬希は、一瞬立ち止まった。だが、何も言わずに視線を逸らした。俺も何も言わずに、その場を去った。それが最後だった。
妻の璃々音は、実家で両親の介護をしながら細々と暮らしているらしい。時任修司への未練は断ち切れず、今でも彼に手紙を送っているという。だが、時任は返事を書かない。刑務所の中で、彼は自分の罪と向き合っている。いや、向き合わされている。全ては自業自得だ。
ある夜、真冬が言った。
「壬琴さん、後悔してませんか?」
「何を?」
「璃々音さんや紬希さんとのこと」
俺は少し考えた。
「後悔はしていない。ただ、悲しいとは思う」
「悲しい?」
「ああ。もし彼女たちが俺を信じてくれていたら、今でも家族でいられたかもしれない」
真冬は俺の肩に頭を預けた。
「でも、過去は変えられません」
「そうだな」
「これからは、私たちの未来を作りましょう」
俺は真冬を抱きしめた。
「ああ」
窓の外には、夜空に星が輝いていた。復讐は終わった。失ったものは大きかったが、得たものもあった。真冬という、本当に俺を信じてくれるパートナー。そして、もう二度と裏切られることのない、新しい人生。俺は前を向いて歩き始めた。過去は過去だ。もう振り返らない。
数年後、俺の元に一通の手紙が届いた。差出人は紬希だった。手紙には、こう書かれていた。
『お父さん、元気ですか。私は今、小さな会社で事務の仕事をしています。生活は苦しいですが、何とかやっています。お母さんは相変わらずです。時任さんへの執着が消えず、精神的に不安定な日々を送っています。お父さん、私は今になって分かりました。あの時、お父さんを信じなかった自分が間違っていたと。お父さんはずっと家族のために頑張ってくれていたのに、私たちはそれに気づかなかった。いや、気づいていたのに、都合よく無視していた。今更こんなことを言っても、許してもらえないことは分かっています。でも、一つだけ伝えたかった。お父さん、ごめんなさい。そして、ありがとうございました。どうか、お幸せに。紬希』
俺は手紙を読み終えて、静かに折りたたんだ。真冬が尋ねた。
「紬希さんから?」
「ああ」
「返事は書きますか?」
俺は首を振った。
「いや、書かない」
「どうして?」
「もう遅いからだ」
俺は手紙を引き出しにしまった。
「彼女には彼女の人生がある。俺には俺の人生がある。もう交わることはない」
真冬は悲しそうな顔をしたが、何も言わなかった。その夜、俺は夢を見た。昔の家族の夢。妻と娘が笑っている。俺も笑っている。幸せな家族の風景。だが、目が覚めると、そこにはもうない。俺の隣には真冬が眠っていた。穏やかな寝顔。これが俺の現実だ。過去は美化されるものだ。だが、美化された過去に囚われてはいけない。俺は真冬の髪を優しく撫でた。彼女は小さく微笑んだ。これでいい。これが俺の選んだ道だ。後悔はしない。
翌朝、会社で部下たちと会議をしていると、秘書が入ってきた。
「部長、璃々音さんという方からお電話です」
俺は一瞬動きを止めた。
「断ってくれ」
「でも、緊急だと」
「断ってくれ」
秘書は頷いて退室した。妻からの電話。何の用だろう。だが、俺はもう関わりたくなかった。会議が終わって部屋に戻ると、留守電が入っていた。妻の声だった。
『壬琴、お願い、話を聞いて。私、もうダメなの。生きていけない。お願い、助けて』
声は震えていた。だが、俺の心は動かなかった。俺は留守電を削除した。それが最後の接点だった。
数ヶ月後、真冬が俺に告げた。
「璃々音さん、入院されたそうです」
「病気か?」
「精神的なものらしいです。うつ病と診断されて」
俺は何も答えなかった。
「お見舞いには行きませんか?」
「行かない」
「でも」
「真冬、俺はもう彼女とは関係ない。元妻というだけだ」
真冬は黙った。
「それに、彼女には紬希がいる。娘が面倒を見ればいい」
「紬希さんも、精神的に参っているらしいですよ。母親の介護と仕事の両立で」
「それは彼女が選んだ道だ」
俺は冷たく言った。
「俺には関係ない」
真冬は悲しそうな顔をしたが、それ以上何も言わなかった。
そして、さらに一年後。訃報が届いた。璃々音が自ら命を絶ったという。遺書には、俺への謝罪と、紬希への遺言が書かれていたらしい。葬儀には行かなかった。行く理由がなかった。真冬が心配そうに俺を見た。
「壬琴さん、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」
「でも、璃々音さん、亡くなったんですよ」
「知っている」
俺は窓の外を見た。
「だが、それは俺のせいじゃない」
「でも」
「彼女は自分の選択の結果として死んだ。俺が殺したわけじゃない」
真冬は何も言えなかった。俺は本当にそう思っていた。妻が死んだのは、妻自身の責任だ。不倫をして、家族を裏切って、時任修司という男に騙されて。全ては彼女の選択の結果だ。俺には責任はない。
だが。夜、一人になると、時々思う。もし、あの時、俺がもう少し優しくしていたら。もし、俺が復讐を選ばなかったら。もし、俺が許していたら。妻は生きていただろうか。答えは分からない。だが、もう遅い。過去は変えられない。俺は自分の選択を貫いた。そして、その結果を受け入れる。それだけだ。
真冬は俺を支えてくれた。彼女は何も言わず、ただ傍にいてくれた。それが何よりも救いだった。ある日、紬希から再び手紙が来た。
『お父さんへ。お母さんが亡くなりました。お父さんは葬儀にも来てくれませんでした。それでも、私は理解しています。お父さんには、もう私たちは関係ないのだと。お父さん、私は今、お母さんの遺志を継いで、自分の人生を立て直そうとしています。いつか、お父さんに誇れるような人間になりたい。それが、お母さんと私が犯した罪への償いだと思っています。お父さん、どうかお元気で。紬希』
俺は手紙を読んで、静かに引き出しにしまった。返事は書かなかった。だが、心のどこかで、紬希の成長を願っている自分がいた。それが親心なのかもしれない。消えない、小さな感情。だが、それを表に出すことはない。俺は前を向いて生きる。真冬と共に。新しい家族と共に。
復讐は終わった。そして、新しい人生が始まった。後悔はしていない。ただ、時々、ほんの少しだけ、胸が痛むことがある。それだけだ。




