第16話(1) 過去2
コーヒーを飲み終えると私は、百合さんと挨拶を交わしお店を後にする。
昼下がりだろうと日曜日だろうと、この付近の人通りは変わらずまばらで、今も人気はほとんどと言っていい程ない。左右に一人ずつ歩く人がいるだけだ。
こんな場所でお店をやっていけるのかと心配になるが、現にそれなりにお客さんは来ているし、それこそ素人考えの余計なお世話というやつなのかもしれない。
下らない思考を振り払い、家の方に足を踏み出す。
今日は寄り道せずに真っ直ぐ帰ろう。毎週バイト帰りに外食なんてしていたら、あっという間に金欠になってしまう。
遣うところは遣う締めるところは締める。それが賢いお金の遣い方だ。
「高梨」
歩き始めて数歩、背後から声を掛けられる。七日前と同じタイミング、同じ声だった。
これは……。
振り向くと案の定、田澤君がそこに立っていた。
偶然? なわけないか。仮に一度目はそうだったとしても、二度目は……。
「話があるんだけど、ちょっといいかな?」
やっぱり……。
さて、どうしたものか。この場を切り抜ける方法はいくつか思い浮かぶ。しかし、そのどれもがその場しのぎの、根本的な解決にならないものばかりだった。
仕方ない。
「うん。それで、話って?」
とりあえず話を聞く。対応はそれから考えよう。
「良かった。でも、ここじゃなんだから、落ち着いて話せる場所に移動したいんだけど……」
落ち着いて話せる場所……。
そう言われて真っ先に思い付いたのは、今しがた出てきたばかりのバイト先だった。
勝手よく知る場所で知り合いもいるのでそういう意味では安心なのだが、一度入ったらそれなりに長居をする事になるだろうし、何より百合さんやお客さんの目が気になる。
というわけでルーブルは、目の前の彼と少し話をする場所には、残念ながら向いていない。となると……。
「近くに公園があるんだ。そこはどう?」
公園か。まぁ、開けた場所だし、特に問題はなさそうだ。
「分かった。じゃあ、そこで」
「付いてきて」
私の横を通り抜け、公園へと向かって歩き始めた田澤君の後を、少し遅れて追い掛ける。
なんとなく、距離を詰める気にはならなかった。
移動の間、田澤君が自身の近況を何やら話してくれていたようだったが、この後の展開に思考を巡らす私の頭には露程も残らず、右耳から左耳へ言葉が風のように流れていくだけだった。
程なくして、ふいに田澤君の足が止まる。目的地に到着したからだ。
お店から歩いて数分の場所にあるその公園の規模は小さく、遊具も鉄棒とブランコくらいしかなかった。
田澤君が先に園内に入り、私がそれに続く。
園内には、五・六人の子供と二人の大人がいた。子供は広場や遊具で遊んでおり、大人はベンチに並んで座っている。
良かった。人が誰もいなかったら、どうしようかと思った。
これで一安心というわけではないが、いないよりかはいた方が当然警戒度は下がる。
「座ろうか」
そう言って、使われている物から少し離れた場所にあるベンチに、田澤君が腰を下ろす。
私はきっちり三人分の距離を空けて、同じくベンチに座った。
「話って?」
なかなか口を開こうとしない田澤君を見兼ねて、私が先に口を開く。
田澤君は自分を落ち着かせるように息を一つ吐くと、ようやく話し始めた。
「ずっと言おうと思ってたんだ。いや、言い訳だな。同じ学校に通ってたんだから、言うタイミングはいくらでもあった。それでも言わなかったのは、俺の弱さというかズルいところが出たからだと思う」
これは本題に入る前の助走、あるいは話の枕。言い方は違えど、取っ掛かりである事は間違いないだろう。
それが分かっているから、私は無駄に口を挟もうとしない。
賽は投げられた。私に出来る事は、本題となる言葉を待つ事だけだ。
もう一度田澤君が息を吐く。そして――
「ごめん」
そう短く謝罪の言葉を告げた。
「えーっと、何に対する謝罪、なのかな?」
本当は気付いている。その言葉が何を意味するものなのか。けれど、はっきりと田澤君の口から聞きたかった。けじめを付けるためにも。
「小学生の時、俺は周りの男子にからかわれるのが嫌で、思ってもない事を言って君を傷付けた。直接確かめたわけじゃないけど、反応で君がそれを耳にした事が分かった。だから――」
田澤君がこちらを見たのが分かった。反射的に私も彼の顔を見る。
今にも泣き出しそうな、小学生みたいな顔をした少年が、そこにはいた。
あー……。
なんというか、その顔を見て、私の中で何かが解けた感じがした。
完全になくなったわけではなく、絡み合った糸の一番根っこの部分がふっと和らいだような。言葉にするのは難しいが、とにかく少しだけ、ほんの少しだけ、抱えていた重荷がふいに軽くなったみたいな、そんな気がした。
「許して欲しいとは思わない。ただ言っておきたかったんだ。成人式とかで無理に顔を合わせるその前に」
彼の言葉は、私には多分本当の意味では届いていない。
なので、許すとか許さないとかそういう次元の話では当然なかった。けど――
「うん。もう気にしてないよ、昔の事だし」
私はそう口にした。
彼に求めるものはもう何もない。後は、私の問題だ。
「そうか。良かったー」
だというのに、田澤君は心底安堵した風な反応をみせる。
この人は純粋なのだ。良くも悪くも。
優子ちゃんのそれとはまた違う、純粋さ。私には到底真似出来ない感性だ。……別に、真似したいとも思わないが。
「それと、高梨に会ったらもう一つ言いたい事があったんだ」
「何?」
この話の流れで、更にまだ私に何か言う事があるというのだろうか。
「もし良かったら俺と――」
ん? なんだ? この男は何を言おうとしている?
予想だにしない展開に、私の頭の中のコンピューターは再計算を繰り返しては、その度にエラーを吐き出し続けている。
分からない。分かりたくもない。
「連絡先を交換しないか?」
「………………は?」
あまりにも常識外れのその言葉に、私は数秒の沈黙の後、思わずそう口にしていた。




