第10話(3) 姫城澄玲
「――何か悩み事ですか?」
ぼんやりとガラスのコップを磨いていた私の耳に、ふいに如月さんの声が届く。いつの間にか、自分の座っていた席からこちらに移ってきたらしい。
「そうですね。少し」
彼女相手に今更誤魔化しても仕方がないので、私は苦笑を浮かべながら正直に如月さんの言葉にイエスと答える。
「良かったら、話聞きましょうか?」
「放っておいていいんですか?」
ちらりとボックス席に座る彼氏さんの方を見て、私はそう尋ねる。
「えぇ。なんか、明日までに提出しないといけないプリントが、まだ出来てないみたいで……」
確かに、時に悩み時に頭を抱え、彼氏さんは真剣な顔付きでテーブルに向かい、シャープペンを走らせていた。
「見てあげないんですね」
「そういうの嫌がるんです。根が真面目というか、考えて考えて考えても分からない時にしか、助言を求めてこなくて」
困った風な事を口にしつつ、如月さんの表情はどこかそれに対し誇らしげだった。
「で、みどりさんは何を悩んでるんです?」
「……」
少し迷った挙句、私は如月さんに今自分が抱えている悩みとも言えない思いを、聞いてもらう事にした。
「別に大した事じゃないんです。私には直接的には関係なくて。だから私が勝手に動揺してるだけというか、大げさな言い方をすれば価値観を揺るがされたというか……」
自分でも自分が何を言っているのか分からないが、今の自分の気持ちを率直に表すと、とにかくそんな感じだ。
「具体的に話を伺っても?」
「はい。実は――」
如月さんの言葉に頷き、私は昨日のお昼にあった事を掻い摘んで話した。
「つまりみどりさんは、フラれるはずがないと思ってた完璧美人がフラれたという話を聞いて、それにショックを受けたわけですか?」
「ショックというよりかは、衝撃と言い換えた方がニュアンスは近い気がします」
意味は同じだけど、言葉から受ける印象はなんとなく違う。
「どこかであのくらい美人な人は、まずフラれる事はないと、そう思い込んでいたので……」
まるで視覚外から頭を殴られたような感覚。サンタクロースの正体を知った時以上の衝撃が、今も私の脳を揺らしている。
「まぁ、そりゃ、どんな美人でもフラれる事はありますよ。女優やアイドルだって、時にはフラれるんですから」
「……」
確かに、そう言われてしまうと、返す言葉がないのだが。
「というかみどりさん、もしかしてこんな風に思ってません? 完璧美人がフラれるなら、私なんてって」
「そんな事は……」
「ありますよね、その顔は」
にこりと微笑み、如月さんが私の逃げ道を優しい口調で塞ぐ。
「はぁー。いいですか、みどりさん。そもそもの話、人は人、自分は自分なんです。いくら完璧美人がフラれたからって、その事によってみどりさんがフラれる確率が上がるわけではないんですよ」
「いや、そうなんですけど……」
理屈では分かる。でも、心がそれを否定する。姫城澄玲がフラれる世界で、私のようなモブが誰かと特別になれるわけがないと。
「私にはみどりさんが、自己評価を下げる理由を無理に見つけようとしてるようにしか思えないんですが」
「そんなわけ……」
「ない? ホントに?」
「……」
思い当たる節がない事もなかった。
そもそも澄玲さんの件も、如月さんの言うように私とは無関係。なのに……。
「にゃっ」
突如聞こえてきた如月さんの素っ頓狂な声に、私は弾かれるようにそちらを向く。
声の主である如月さんの背後には彼氏さんが立っており、その後ろ襟を猫の首筋を掴むように持っていた。
まさに、といった光景だ。
「すみません、高梨さん。一度集中しちゃうと、視野が狭くなってのめり込んじゃうタイプなんです、この人」
如月さんの頭をぽんぽんと叩きながら、彼氏さんがそう口にする。
「何をーと言いたいところだけど、グッドタイミングだよ、まーくん。みどりさんたら、自分に自信がないんだって。まーくんからも何か言ってあげてよ」
「え? 自信、ですか?」
「はい。まぁ……。持つ要素が見当たらないので」
まぁ、知り合いにハイスペックな人が多くいるというのも、私が自分に自信を持てない要因の一つではあるのだが。こればかりは自分ではどうする事も出来ないため、諦める他ない。
「みどりさんのいいところか……」
「あ、大丈夫です。無理に挙げてもらわなくても」
そんな事をされたら、逆に空しくなって余計に落ち込む。
「外見と性格がいいのは、当然過ぎるからなしって事ですよね」
「え?」
普通に、なんの意図も思惑もなく発せられた彼氏さんの言葉に、私は思わず固まる。
その言い方だとまるで、私の外見と性格がいいのが言うまでもない事のようではないか。いやいや、性格はこの際置いておくとして、外見は……。
「すみません、みどりさん。こういう事、平気で言っちゃう子なんです、まーくんは」
腕組みをして未だ思考の最中にある彼氏さんを横目に、如月さんが私の方に顔を近付け小声でそう謝罪の言葉を告げてくる。その様子は、どこか嬉しそうだった。
「いえ、少し驚きましたが、分かってますから」
つまりはリップサービス。如月さんが好きになるくらいの人なのだから、女性に対する気遣いみたいなものは、お手のものというか朝飯前なのだろう、きっと。
「あー。でも――」
そんな私の思考を見透かすように、如月さんがクスリと笑い言う。
「この手の事で嘘を吐くような子でもないので、その点は安心してください」