第1話(2) 私の日常
「みどりさん」
大学構内を一人で歩いていると、背後から突然声を掛けられる。
足を止め振り向く。
少し離れた所からこちらに小走りで寄ってくる、女の子の姿が視界に入った。
「優子ちゃん、こんにちは」
彼女が自分の前で立ち止まるのを待って、私はそう挨拶をする。
目の前に立つ彼女の名前は大橋優子。大学に入って初めて出来たお友達だ。
小柄な体付きと小動物チックな言動から、仲間内では非常に可愛がられている。まぁ、雰囲気だけでなく顔も実際可愛いのだが。
「こんにちは、みどりさん」
体を上下に揺らしながら挨拶をする優子ちゃんの動きに合わせ、頭の両端で二つに結わえられた髪の束がピョコピョコと弾む。いちいち可愛らしい。
「? どうかしました?」
私がじっと見つめていたからだろう、優子ちゃんが小首を傾げる。そんな姿も――以下略。
「ううん。なんでもないわ。それより優子ちゃん、今日は遅かったのね」
ちょうどいい電車がないため仕方なく私はこの時間に大学に来ているが、この辺りが地元の優子ちゃんはもう少し余裕を持っていつもは登校している。木曜日に彼女とこんな場所で会うなんて珍しい。
「それが、聞いてくださいよー」
「話を聞くのはいいけど、歩きながら話しましょ。時間あまりないから」
会った当初は彼女のこういう言動に少し気圧されていたものの、今ではすっかり慣れむしろ微笑ましく思う。
「そうですね。じゃあ、歩きながら」
優子ちゃんが隣に並ぶのを待ってから、二人で教室に向かって歩き出す。
私達の取っている授業は、A棟の三階にある教室で行われるため入り口からだと少し遠い。急がないといけない時間ではないが、のんびり立ち話をしている程の余裕もない。
「昨日、レポートが出たじゃないですかー」
「うん。最近のニュースで自分の気になった事柄について自身の意見込みでまとめるっていう」
私と優子ちゃんはほとんど同じ授業に出ているので、この手の会話もスムーズに進む。
「別に来週までに仕上げればいいんですけど、こういうのって早めにやっておかないと後で困ると思って早速昨日の夜から取り掛かったんですよー」
「へー。偉いわね」
言葉だけでなく本気で感心する。私なんてまだ、手すら付けていないというのに。
「で、昨日の内になんとか終わらせたんです。レポート用紙二枚半。そしたら、急にパソコンがフリーズして」
「あら」
なんとなくその後の展開が予想出来る。
「三時間掛けて作ったデータが全部消えちゃったんですよ」
「もしかして、小まめに保存してなかったの?」
フリーズして保存したデータが飛んだとなると結構な大ごとだ。しかし、そのデータが保存する前の状態だったとなれば話は別だ。不運には違いないが、不注意の誹りは免れない。
「はい。電源落とさないからいいかなって」
あはは、と優子ちゃんが渇いた笑いをその口から発する。
「その気持ちは分からないでもないけど、ダメよ、データは小まめに上書き保存していかないと。クリック一つで済むんだから」
「私も分かってるんですよ。分かってるんですけど、つい……」
特に優子ちゃんは日頃からパソコンをあまり使わない人だから、この手の失敗がよくある。この前も保存したデータが行方不明になったとかで、夜九時頃に電話で泣きつかれたばかりだ。その時はデータの検索法を電話越しに彼女に教えてあげた。
パソコンを使う人間には分からない苦労が、使わない人間にはあるらしい。
「でも、締め切りは来週なんだから、データが消えてもまた改めて別の日にやり直せば済む話でしょ?」
「別の日なんてとんでもない。すぐに打たないと、打った内容を忘れちゃうじゃないですか」
「……」
まぁ、優子ちゃんの言いたい事は分かる。私も同じ状況に陥れば、もしかしたらそうしたかもしれない。
「それで夜更かし?」
「です。結局寝たのは三時過ぎで、今もまだ眠くて……」
言いながら優子ちゃんは、ふわーっと大きな口を開けて欠伸をする。
その様子に私は、思わず笑みを零した。
「だからと言って、授業中に寝たらダメよ。授業は寝る時間ではなく、学ぶ時間なんだから」
「寝たら、みどりさんが起こしてください。みどりさんの声なら私、穏やかに起きれるんです」
「そう言ってこの前は、五分以上起きなかったじゃない」
「うっ。それは、みどりさんの声が穏やか過ぎて、逆にいい子守歌になったというか……」
「じゃあ、ダメじゃない」
起こすどころか眠りに誘ってどうする。
「でも、でも、私、みどりさんの声すっごく好きだし、起こしてくれたら幸せな気持ちになれるから……」
「もう褒めても何も出ないわよ」
とはいえ、褒められて悪い気はしない。それに優子ちゃんはお世辞が上手なタイプではないので、そんな彼女に褒められたら他の子に褒められた時の何倍も真実味を感じるし嬉しい。
「後、授業中にだけ見られる眼鏡姿も素敵です」
「……そりゃどうも」
こちらは、いくら優子ちゃんの言葉と言っても素直に喜べない。自分ではその良さが、いまいちよく分からないし。