55.無事の帰還を誓って
神や精霊が受肉する。
それは、神気で形作られていた上位の存在から、肉の器に囚われる下位の存在に押し込められるに等しい。
ゆえに、上位の存在たちは、受肉という選択を取らない。天から人間たちにお告げを下し、それで引き起こされる悲喜交々を他人事で眺めている方が、圧倒的に楽で愉しいからだ。
いや、もっと言えば。受肉の「欠点」が、看過できないほど致命的であるのだと。
ルクサリネを壁際まで蹴り飛ばした『知恵と魔法の女神』は、そう説明しながら振り向いた。
「仮の肉体ですから、受肉前の性能とは比べるべくもないんです。でも、もっと厳しいのは、伝導率が悪過ぎて、失った魔力がなかなか回復できない点です」
「伝導率……?」
「もちろん、普通の人間よりは遥かに魔力を持っていますが、それだけ。あの人、今は、意識を保つだけでやっとだと思いますよ」
あなたの前では虚勢を張っていたんだと思います。と、冷笑しながら、うずくまったまま動けないルクサリネを一瞥する。
それから、入り口で動けないままのテオドアの方へ、ぱたぱたと駆け寄ってきた。
「ああ、やっとお連れできます! この時を待ち侘びていました!」
真正面から飛び込んできて、甘えるようにしなだれかかる。
受け止めもせず抱きしめることもせず、棒立ちのままのテオドアに、王弟は皮肉げに言った。
「お盛んですねえ。美しい精霊に飽き足らず、女神の心まで射抜いてしまわれるとは。さすが、運だけで成り上がった人間だ。性根の卑しさが透けるようです」
「勘違いするな、穢れた王家の人間」
テオドアに寄りかかったまま、『知恵と魔法の女神』は、低く不快げな声音で言った。
王弟の方を振り向いたため、表情は見えないが、おそらく睨みつけているのだと思う。
「あなたのような血筋の者に協力したのは、あくまで彼を手に入れるため。あなたやあなたの血族に価値などない。彼への無礼は赦さない。一族ともども殺されたいか」
「おお、恐ろしいことです。ですが、貴女の目的を達するためには、私とパウロベルトの命だけは見逃していただかないと。分かっておいででしょう?」
「……冥界に降りてきた時が楽しみです」
明確な脅しだったが、フィラットは怯えるふうもなく、肩をすくめて笑った。
『知恵と魔法の女神』は、気を取り直したように顔を戻した。
「あんなもののことはどうでもいいんです。さあ、行きましょう、テオドアさん」
「……王さまや、姿の見えない他の人たちは、無事なんでしょうか?」
彼女は、「どうしてそんなことを聞くのだろう?」とばかり、首を傾げた。
その他の人間のことなど、まったく眼中に無いようである。
「無事ですよ? 転がっている国王も、お城の人間も、眠らせているだけです」
「なんのために」
「それは」
「――決まっているでしょう。私が王となるためです」
二人の会話に割り込んできた王弟は、気絶した国王の顔に剣先を突きつけながら、朗々と言った。『知恵と魔法』の不機嫌そうな様子など、気にも留めない。
「私が王になれず、この愚鈍な兄が王となったのは何故か。ひとえに、忌々しい『長男継承』のしきたりがあったためです。――まあ、王の座への渇望は、年を経て少なくなったと自負していますが――なれるものならなりたいでしょう?」
人間は欲望の塊ですからね、と、彼は続ける。
「唯一の子どもが随一の実力を持っていたにも関わらず、女であったのは残念でしたが。素晴らしいことに、適齢期の男児を二人も産んでくれました。これなら、私が王になったあとも、地位は盤石になります」
「えっと……あの二人が、いったいどういう?」
「まだ分かりませんか? 鈍いですね、貴方が学院に行かなくて正解でしたよ。公爵家の恥を晒さずに済みました」
つまり――貴方とパウロベルトの魂を、交換するんです。
「そうすれば! 私が王になったあとも、〝依代〟さまのご支援を受けられます! あの子も〝依代〟の座を欲しがっていましたから、なおさら良いこと尽くめです。私と〝依代〟さまの二人三脚で、アルカノスティアはますます発展することでしょう!」
ぞっとした。
魂の交換など、それこそ、禁忌に片足を突っ込む行為だろう。テオドアでさえ分かる。
実現可能かどうかは知らないが――
興奮して喋るフィラットの姿が、なにか得体の知れないもののようにすら見えてくる。
しかし、それと同時に、腑に落ちる感覚もあった。
――第一夫人とパウロは、そのことを知っていた。だからこそ、あの王弟の屋敷で、テオドアの体調をしきりに気にかけていたのだ。
あれは、もちろん、家族への態度ではなかった。「いずれ自分たちが利用できる器」として、接してきていたのである。
「……そんな、ことをして、バレないはずが……」
「バレたところで問題はない、と、そちらの女神さまが仰られていましたよ。なんでも、神々は、次の百年を保たせられれば、中身なんてどうでも良いんだとか」
視線を移すと、『知恵と魔法の女神』はうっとりとこちらを見上げてきたが、否定はしなかった。
あんなに仰々しく『試練』を科し、五人の候補者を相争わせておきながら。
神々にとって、〝依代〟は、「なるべく性能が良いのが欲しいけど、間に合わせでも動いてくれればいい」というだけものに過ぎない……ということか。
全身から強張りが抜けていくようだった。
今まで悩んでいたのは、なんだったんだろう。放り出そうと思えば、できるものだったのだ。〝依代〟は――この、立場は。
そのとき。声が掛けられた。
「聞くな……そいつらの話に、引き込まれては……」
部屋の端でうずくまっていたルクサリネは、辛そうに顔を上げ、弱々しく唇を動かす。荒い息に紛れて、今にも消え入りそうな声だった。
それを、『知恵と魔法』は嫌そうに「しつこいですね」と見下ろした。
「わたしたちの話を、止められる立場なんですか? あなたは、いちばん大事なことを知らせていないくせに?」
その言葉に――
ルクサリネは、もともと青ざめていた顔色を、さらに悪くした。心当たりがありそうな反応である。
無言だったが、しかし、なによりも雄弁だった。
テオドアは、念を押すように『知恵と魔法』に訊ねた。
「王宮の皆さんの命と安全は、保証されているんですね?」
「ええ。あなたが望むなら」
「では、僕の世話をしてくれた『ルリネ』さまも、王宮に滞在していたのですから、安全は保証されますね」
「……そうなりますね」
ルクサリネのことに言及すると、若干声の調子が下がるのが恐ろしい。それでも、テオドアは根気強く続ける。
「僕の滞在していた建物に、異母妹のルネリーゼと、その世話係がいます。彼女たちとともに、『ルリネ』さまを、母がいた神殿に預けてくれませんか」
「テオドア!」
「僕は――僕は、貴方と共に行きますから」
悲鳴のような、名を呼ぶ声を聞きながら。
自身に体重を預ける彼女に、思い切って腕を回し、ぎゅっと抱き締める。
「約束してくださいますか? 僕が悲しむようなことは、絶対になさらないと」
『知恵と魔法の女神』は、あからさまに頬を赤らめた。何度も頷いたのを確かめて、すっと身体を離す。
そうして、『光の女神』のもとへ行った。
「ごめんなさい。母のために、無理をさせてしまったんですね」
ルクサリネの顔は、今にも泣きそうに歪んでいた。それでも、一滴の涙も溢れないのは、彼女が気丈であるからか。
テオドアは、彼女の前に膝をつき、少し小さな声で囁く。
「……三日前の〝花〟のこと、覚えておいでですか?」
「!」
「あの花にかけて誓えます。僕は大丈夫ですから」
彼女も、言わんとすることを理解してくれたらしい。辛そうな顔に、少し赤みが戻った。
そう。驚くことはあったが、想定内ではある。
初めから攫われるつもりではあったし、なにより――
――なにより、攫われっぱなしで終わるつもりはないのだから。
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目を開くと、白い花と葉が、視界を覆い尽くしていた。
何度か瞬きをし、手足が正常に動くことを確認して、起き上がる。
どうやら、花畑の真ん中に倒れていたようだった。
「……」
上半身だけ起こしたまま、辺りを見渡す。
一面の花々に、色とりどりの蝶が飛ぶ。頭上は雲ひとつない青空。そこを、気持ち良さそうに飛んでいく小鳥たち。
それを眺めて、あ、と思い至る。
「……母鳥と雛たちのこと、ルクサリネさまに頼んでおけば良かった」
もともと、地上での滞在は、『儀式』があるときだけと決まっていた。
つまり、『儀式』が終われば山に帰るつもりだったわけで。渋々送り出してくれたネフェクシオスと二羽の雛、数ヶ月の時を経てようやく孵りそうな三つの卵は、今もあの巣で、テオドアの帰りを待っているだろう。
ここがどこかは分からないが。少なくとも、あと一週間で帰れそうにないのは、確かである。
「うわあ……すごく怒られそう……」
ネフェクシオスに。
孵りそうな卵を放置するも同然なのだから。
もしかして、攫われる判断をしたのは早計だったか? テオドアが頭を抱えていると、背後から、何かが近づいてくる音が聞こえた。
「――久しいな。否、汝には記憶が無いのだったか」
『知恵と魔法の女神』ではない。凛々しく、芯がある声だった。
振り向くと、男物の鎧に身を包んだ女性が、槍を手にこちらを見下ろしていた。
「吾は『戦と正義の女神』。歓迎しよう、テオドア・ヴィンテリオ」




