35.第三の試練・中編(下) ライルインを悩ませる悪とは
重ねて言うが、その婦人は美しかった。
もちろん――美に優劣をつけるわけではないが――人間の中で、という担し書きがつく。
テオドアとて、男である。
裸の美しい女性に迫られて、まったく興奮を覚えないかと言われれば、嘘になる。
だが、それよりも、困惑が優った。
「どこに触れてもよろしいのですよ。僭越ながら、わたくしが手ほどきをさせていただきますから……」
白い手が、そっとテオドアの頬に触れる。
冷たい。およそ、血の通っている温度ではなかった。
視界いっぱいに広がるなめらかな肌。視線をずらすと、扉の前に転がされた少女が、精一杯に自らの身をよじらせ、叫ぶばかりに呻いている。
少女の足は拘束されていないはずなのに、ぴくりとも動いていない。
魔法か魔術を掛けられているのだろう。
「どこを見ていらっしゃるの?」
「う……」
さらに近づいてきた女性が、蠱惑的に囁く。
決して、抱きついてきたりはしない。奥ゆかしさを見え隠れさせつつ、こちらが食いついてくるのを待っている。
テオドアは――ゆっくりと、右手を上げた。
女性の首筋に、優しく触れる。彼女は目を細め、なにかを言おうと、口を開きかけた。
声が発せられることはなかった。
「――ごめんなさいっ!」
テオドアは叫び、なんとか魔力を操って、指先からごく微量の電気を流した。
バチッ、と小さな閃光が首筋を跳ね、女性の身体が崩れ落ちる。
それを受け止め、肌の柔らかさを気にしないように努めつつ、自分の外套を巻いて寝台に寝かせる。
念の為に手をかざして息を確認したが、気を失っているだけのようだった。
「今、縄をほどきます」
テオドアは、少女に駆け寄って、手の縄と口の猿轡を外してやった。
少女はゆっくりと身を起こし、自分の手が動くことを確認してから、テオドアを見た。
「失礼ながら、……その。手を貸していただけませんこと?」
「手を?」
「ええ。私、あそこにいる母に、足を痺れさせられてしまったのです。あと一時間はまともに立てませんわ」
「分かりました」
やはり、彼女たちは親子だった。母親が、自分と娘をテオドアに「献上」するために、娘が抵抗できないよう魔法を掛けたのだろう。
テオドアは、部屋の隅にあった椅子を持ってきて、少女を抱え、そこへ座らせた。
あまり触れてほしくないだろう、と思ってそうしたが、正解だっただろうか。
少女は、心なしかテオドアと目を合わせないまま、口を開いた。
「このような形でお目見えすることを、心底残念に思いますわ、候補者さま。私、ライルイン伯爵が娘、フィナリラ・ルータ・ライルインと申します」
足が動かず、椅子に座ったままであるにも関わらず、フィナリラは優雅に礼の形をとった。
小国だと侮るなかれ、と、挑戦的な雰囲気も垣間見えるが、丁寧な教育を受けたのが分かる仕草だった。
テオドアも居住まいを正して、名乗り上げた。
「アルカノスティアから参りました、テオドア・ヴィンテリオです。……その、お母さまは……」
「父も母も、乱心しているのです。憎きロムエラの手によって」
フィナリラは静かに言い切った。
表情は平静を保っているが、膝の上に乗せた手が、ぐっと握り込まれたのが見えた。
「この家は――いいえ。この国は、今や、ロムエラの手の内にあります。助けを求めても無駄なこと。この国には、知らず知らずのうちに精神を支配された、哀れな者しかおりません」
「精神を支配……?」
「候補者さまは、この国で出された食べ物を、お召し上がりになりまして?」
テオドアが頷くと、フィナリラはこちらをまじまじと見て、「大丈夫そうですわね」と、ほっと息を吐いた。
「稀に、『洗脳』の効かない人間がおります。私はその一人です。候補者さまも――そういったものには掛かりにくいのでしょう」
食事のときのことを思い返す。
なにかを食べるたび、頭に響いていたあの音は――やはり、精神を支配して操ろうとしていた術を、弾き飛ばしていた証なのだろう。
少しずつ、現状が分かっていく。テオドアは、ごくりと喉を鳴らし、静かに尋ねた。
「この国の食事に、なにか、細工が施されているのですか?」
「食事に、と言うと、少し違いますわね。厳密には――」
フィナリラは言葉を切り、わずかにためらうように、視線を泳がせた。
だが、それも一瞬のこと。すぐに視線を戻し、感情を排した声で続ける。
「この国の生命をまかなう水、『湖』に。おぞましい呪いが掛けられているのです」
フィナリラは、一からすべてを話して聞かせてくれた。
五十年ほど前――自分の祖父が当主だった時分に、ライルインは、聖ロムエラ公国の庇護下となった。
ライルインは、一応の独立が認められた「自治領」となる。当時は国王の座をいただいていた祖父は、ロムエラに認められた「伯爵」となった。
そこから、聖ロムエラ公国からの干渉が、始まった。
初めはまだ良かった。一定の距離を保てていたように思う。『儀式』の秘匿は守られ、大国の庇護の元で支援も受けられる。
王家ではなくなったものの。「民の安心が第一」と、伯爵家の者は皆、そう思っていた。
転機は、十年前である。
聖ロムエラ公国から申し出があった。
「貴方がたが千年も守り通しておられた『儀式』は、後世にも残さねばならぬ素晴らしいものです」
「そのご支援ができないかと思い、優秀な人材を取り揃えました」
「どうぞ、使えると思ったら使い、使えなければ聖ロムエラ公国に送り返してください」
その時には、伯爵は、フィナリラの父に代わっていた。
伯爵は、いきなりの申し出に、もちろん断った。万が一にも、『儀式』のことが漏れてはならない、と考えたのである。
しかし、ロムエラは、こういうところが目敏かった。
「『儀式』の秘匿を破るつもりはありません。なんなら、下働きでこき使っても構いません。伯爵が許可をしない限り、湖には近寄りません。約束します」
そこまで言うのならと、人の好い伯爵は、ロムエラからの人材を迎え入れた。
彼らは良く働いた。ある者は屋敷で下働きをし、ある者は下級兵士として上官によく仕えた。市民に溶け込んで、一から生活を始める者もいた。
その姿をよく見て、伯爵夫妻は、「彼らに邪気はない」と判断を下した。
それから徐々に、彼らを取り立て、重要な仕事を任せるようになった。
「それが、過ちでしたわ」
フィナリラは、ほう、と溜め息をついた。
「――ロムエラの者たちは、私の父、伯爵に取り入りました。そして、少しずつ、洗脳していったのです」
「それは……魔法で?」
「いいえ。それでは、母に勘付かれてしまいます。母は、人を操る『精神魔法』をひどく恐れていました。なぜかは存じませんが、過去にそのようなもので被害を被った経験があるのでしょう」
洗脳のやり方は、簡単だが、効き目が薄いもの。
――薬である。
初めは、伯爵夫妻の食事に混ぜた。
劇的に効き目がある薬では、洗脳の掛かりが甘い時に、違和感を抱かれかねない。だからこそ、彼らは根気よく、伯爵夫妻を薬で洗脳していった。
自分たちに信頼を置くようにし、疑心を完全に無くし、言うことを聞くように仕向けたのである。
「……貴女は、よくご無事で」
「ええ……。皮肉なことに、私は、母が熱心に教え込んだ『反精神魔法』を、よく会得しておりましたから。もともと、素質はあったのかもしれませんが」
彼女は、家族の中でただ一人、洗脳に抗えた人間だった。
しかし子どもの、しかも娘の身分では、なにもできない。「私が男児であったら違ったかもしれません」と、フィナリラはわずかに眉をひそめた。
「……父は、ロムエラの者たちに、『湖』へ立ち入ることを許可いたしました。彼らは、湖にとある呪いを掛け、今度は国民を洗脳しにかかりました。そして、数年が経って――」
「ロムエラの目論見は達成された……国民はなにも疑わず、日々を暮らしている……」
テオドアは小さく呟いた。
すべての違和感に、答えを出された気分だった。
誰かの意思が介在していそうな国民たちと、屋敷でずっとテオドアたちを監視していた使用人たち。
十年もの年月を使って、少しずつ、意にそぐわないものを排除していったのだろう。「洗脳の掛かりが甘い者」などを、突然死に見せかけて殺したりして。
使用人だって、ロムエラの息が掛かっていない者を、少しずつ減らしていったのかもしれない。
今や、この屋敷に、ロムエラの目から隠れる場所がない、とすれば――
目の前の少女は、数年間、孤独な戦いを強いられていたことになる。
「……では、湖に悪竜が、というのも、ロムエラの嘘なのですね? 呪いを掛けた湖に、誰も近寄らせないために……」
すると、フィナリラは、言いにくそうに黙った。
何度か、言おうとしてはためらい、声を出そうとして詰まる。
よほど言えない事情があるのだろう。
「あの、無理に答えていただかなくても……」
「……いえ。言いますわ。言わせてくださいまし」
フィナリラは、きりりとした表情を作り、テオドアを見上げた。今度はしっかりと目が合っている。
覚悟を決めた瞳だった。
「これは、私たちの『儀式』にまつわる重要な機密です。どうぞ、他言無用でお願いいたします」
「はい」
「……湖には、『豊穣の女神』さまがお産みになられた、『尊いお方』がいらっしゃいます。私たちライルイン家は、代々、そのお方に忠誠を誓い、『豊穣の女神』さまを奉じます」
テオドアは、怪鳥に乗りながら聞いた、神話のことを思い出す。
『豊穣の女神』が人間の男と夫婦になり、十三人の子を産んだ。
いちばん初めに生まれた娘は、人の姿をしていながら、水の中でしか生きられなかった。
ゆえに、彼女は湖に住んだ。
彼女は、人ならざる長寿をも得ていた。
なるほど、あの神話は、そうやって今に繋がっていたのか。
「ロムエラの――目的は、おそらく、『儀式』の際に『尊いお方』がお授けくださる魔石です。厳密には、魔石ではなく、『豊穣の女神』さまの加護を、形としたものなのですけれど」
その『加護』のおかげで、ライルインは小国でありながら、豊かさを保ってきたのだという。
『加護』を手に入れて、ロムエラがどのように使おうとしているのかは、分からないようだが。
「その……そのお方を、アイツらは……っ!」
フィナリラの表情が、初めて、怒りで歪んだ。
いや、これは……泣きそうなのを、我慢しているのかもしれない。
彼女は、血を吐くように、続ける。
「強い呪いで、醜い竜に変えて……っ! あ、あの湖に、封じ込めたんです! りゅ、竜になったあのお方から、ひどい呪いを撒き散らすように、細工もして! それが、湖の水を汚染してて、だ、だからっ……!」
「……竜に仕立てて、本当に呪いを撒き散らさせれば、悪竜がすべての元凶に見える。それを討伐させて、表向きにも解決をすれば、ますます問題は見えづらくなる。そういうことですね?」
「――!」
フィナリラは、とうとう、大きな瞳から涙をこぼした。
後から後から止まらず、しゃくり上げて泣き始める。
その姿は、テオドアとそう年の変わらない、ただの少女にしか見えなかった。
――さて。どうしたら良いだろう。
テオドアは、その場で跪くと、大泣きする少女を見上げながら考える。
これは、正直、テオドアの手に余る問題だ。
思い返せば、『第三の試練』では、「悪竜を倒せ」とは言われていない。「悪竜に悩む東方の小国を建て直せ」だ。
つまり、『試練』は、あくまでも「ライルインを建て直す」ことに重きを置かれている。
――建て直せるのか? なんの権力もない自分が?
聖ロムエラ公国の暴挙を、暴くことはできるだろう。
しかし、地界ではなんのコネもツテもないテオドアの言うことなど、無視されるか、しらばっくれられるに決まっている。
仮に、それを認めさせたとしても、根本的な解決にはならない。
今度のロムエラは、もっと、バレないように、上手くやるだけだ。
解決の糸口は、ないでもないけど――
「……」
迷いは一瞬だった。
こちらの気持ちや、勝負が正々堂々と行われるか否か、など、大した問題ではない。
今は、彼女たちを救うことが先決だ。
テオドアは、少女が落ち着いてきた頃合いを見て、穏やかに切り出した。
「事情は分かりました。必ず、お助けします。貴女も、伯爵夫妻も、国民も、――その、『尊いお方』も」
その上で、いくつか、お伺いしても良いですか?
そう聞くと、フィナリラは、黙って頷いた。
「『洗脳』とは、具体的に、どのように人を操るのでしょうか?」
「……その人間の〝思い込み〟を、少しずつ強化していきます」
例えば、誰かを「良い人だ」と、ほんのわずかでも思っていれば、だんだん好意が増していって、その人のことしか信じられなくなる。
……厄介な洗脳だ。
ならば、「悪竜が元凶だ」と思い込んでいたルチアノは、夕食によって、その認識を増したことだろう。
だが、入り込む余地は、まだある。
「貴女が、洗脳に掛からず正気であることを、誰かに悟られていますか?」
「……いいえ。普段は、洗脳されたふりで、ロムエラの者たちに良きように振る舞っていますわ。私すら洗脳に呑まれてしまったら、本当におしまいだと思いまして」
でも、今夜は、貴方さまに侍るようにと、母から強制されて。
咄嗟に拒否してしまって、拘束されておりましたの。
と、フィナリラは、沈んだ調子で付け加えた。
おそらく、ロムエラの面々は、ルチアノにこそ『試練』を突破して欲しいのだろう。
何故かは、分からない。自国の候補者が棄権したからかもしれない。
そして、邪魔なテオドアには伯爵夫人と娘を当てがって、肉欲に溺れさせ、『試練』に向かわせないようにした。
……もし、自分も『洗脳』されていたら、どんなにひどいことになっていただろう。
考えただけでぞっとする。
「『洗脳』の内容は、洗脳する側の匙加減で、変えられるものなのですね?」
「ええ、そのようです」
「分かりました。では――最後に。ものすごく洗脳されやすい人間はいますか?」
「あの……、なにをなさるおつもりですの?」
フィナリラが、不安そうに問う。
テオドアは、安心させるように笑った。
「ご心配なく。誰も傷つけません。――少し、芝居を打とうと思いまして」




