30.雛と女神と恋愛話
「よく来たな。お前の子どもたちは預かった。返して欲しければ、大人しく私に恋愛話をしろ」
『キャー』
『タスケテー』
「……なんなんですか、これ?」
テオドアの屋敷、その庭園。
穏やかな流れの川のほとりに、光の女神が腰掛けている。
両腕に抱えているのは、ずいぶんと丸くなった二羽の雛。ふわふわの羽毛を震わせて、腕から逃れようと羽をばたつかせているように見えるが――動きはどこかわざとらしい。
いや、それよりも……。
「待ってください。雛たち、喋るようになったんですか?」
「思念を直接、相手の頭に伝達している形だがな。怪鳥ネフェクシオスが人語を話すなど、千年を遡っても類を見ない。人間の魔力で孵ったからこそ、ここまで知能が優れているのだろう」
『メガミ、なまいき!』
『メガミ、えらそう!』
「実際に偉い。生意気を言う雛は離さないからな」
『キャー!』
『アハハハハ!』
女神にぎゅうと抱き締められて、雛たちは無邪気な笑い声を上げる。少し前までは、敵か仇かとばかりに突いていたというのに。
女神は、雛の喉元を撫でてやりながら、「お前が倒れていたときは大変だった」と言った。
「毎日、母鳥のところに通っていたお前が、急に現れなくなった。雛は、私がお前を囲っていると思ったらしい。抗議のために毎日やって来た」
「囲、……え?」
『メガミ、ママのてき!』
『パパ、ママのもの!』
「僕は誰のものでもないよ……」
辛うじて反論すると、女神は笑った。
「退屈はしなかった。子守りの気分を味わえたからな。おかげで、こいつらが初めて喋るときも、私が立ち会うことができた。残念だったな、パパ?」
「くっ……なんだか分からないけど、ちょっと悔しい……!」
「あはは。第一声は『パパ』だったぞ。『メガミ』でも良かったんだがな?」
『よばない! メガミ、よばない!』
『メガミ、いじわる! ボクたち、おこってる!』
と言いつつ、女神に懐いているようなのが、子どもというか、迫力がないというか。
女神がぱっと腕を開くと、雛たちは一直線に、テオドアのもとへ向かってきた。
『パパ、けが、なおった?』
「……うん。心配かけちゃったね」
『ママ、まってる! いこ! いこ!』
飛びながら、テオドアの服の袖をぐいぐい引っ張る。
雛に言われずとも、今から怪鳥のもとへ向かう予定だった。そこで通りかかったのが、この川辺というわけだ。
だが、ここで女神が、おかしそうに含み笑いをしながら言う。
「お前たちを解放したのだから、パパはこれから私に恋愛の話をしなくてはならない。さっきも、そう約束しただろう? 悪いが、少し待っていてくれ」
『ア! ひきょうもの! ひきょうもの!』
『ずるい! ずるい!』
「あはははは。最後には知恵者が勝つ。覚えておくといい」
女神の周りをバタバタピィピィ抗議して回り、しかし意外にも聞き分け良く、雛たちは飛び去っていった。母鳥のもとへ帰るのだろう。
『パパ、うわきもの!』
『ママに、いいつける!』
「う、浮気者……?」
不名誉すぎる称号である。
しかし、訂正しようにも、彼らは既に遠い。
あとで母鳥に会うのが恐ろしい、と思いながら、テオドアは女神の隣に腰を下ろした。
澄んだ川面を眺めて、言う。
「ありがとうございます、ルクサリネさま。雛たちの面倒を見ていただいていて」
「なに。退屈は凌げたと言っただろう、気にするな。あんなに無邪気な子どもというのも、新鮮だった」
「そう、ですか」
「ああ。天界には、例え子どもの見目でも、数百年は生きている者しかいない。可愛げがない」
と言って、女神ルクサリネは、ふうと溜め息をついた。
「そういえば、雛に名前は付けないのか? ただ雛、と言うだけでは、どちらを指しているかが分からない。ややこしいだろう」
「……いずれは、自然に帰るので。愛着が湧いては、お互いに困るだけです」
「ふぅん? ……まあ、そこは親子で話し合え。間違っても、お前の意見だけを押し付けるなよ」
「はい」
雛の今後は、いずれ必ず考えなければならないことだ。
母鳥が、テオドアの魔力で、残りの卵も孵そうとしている以上――五羽の面倒を見ることになる。
母鳥を加えれば、六羽か。
身近にいるので忘れがちだが、彼らは人間に狙われる立場だ。悪意ある者に捕まればどうなるかも分からず、最悪は殺されることだってあり得る。
無責任に連れ帰ることはできない。
あの巨体を、将来的に六羽抱える場所も、ない。
だから、雛がある程度育ったあとは、彼らには野生に戻ってもらうのがいちばん良いと思っている。
(そもそも、公爵家に、僕の帰る場所はあるのか……?)
試練の先、地界に戻ったときのことにまで、考えが及びかける。
それを、女神の声が遮った。
「ずいぶんと男前になったじゃないか。『第二の試練』前とは別人のようだな」
驚いて、女神のほうを見る。彼女は、三角座りの膝に頭を乗せ、こちらに顔を向けて見返した。
「覚悟が決まった目をしている。自分の行く道を定めたか」
「――はい」
「それは良い。魔法を使えるようにもなったんだろう? 『試練』を終えても、お前は自分の力で立って生きていける」
それから彼女は、ふっと目を閉じた。
涼やかなせせらぎと、穏やかな陽気。女神の銀の髪が、いっそうきらめいていた。
「……お前は、前も今も、〝女神〟に振り回される人生だな」
「それは……」
「恨んではいないのか? 私のことも――三女神のことも」
急に三女神のことを挙げられて、どきりとする。
前世のテオドアが死んだあと、彼女たちは共通の夫を迎え、楽しくやっている。――と聞いた。
百年も経てば、普通の人間なら死に近しくなるだろうが、『知恵と魔法の女神』が工夫をしているのかもしれない。
求婚した自分を差し置いて、別の男と契った。同時進行で求婚を受けていた疑惑もある。
それを、虚しく思わなかったわけではない。
だが。
「前世の僕は、もう死んでいるので」
「……」
「女神さまたちが、死んだ人間に拘う理由は、ないはずです。本当に夫婦になっていたのなら、ともかく……僕に義理立てをするはずがない」
「神獣に噛み殺されたのは……どうだ? 気まぐれで殺されたのかもしれないだろう」
テオドアは、唇の端に軽く笑みを乗せた。
自嘲のつもりはないが、そう見えるかもしれない。
「そもそも……初め、僕は、求婚したつもりはなかったんです」
「そうなのか?」
「はい。ただ、女神さまを一度に三柱も拝見できて、舞い上がって……お三方と死ぬまで一緒にいられたら、素敵だろうなって思ってしまいました」
それを、『夢と眠りの女神』が、〝それは求婚か〟と問うてきて。
――そうなのかもしれない、と思って、頷いた。
恋も愛も、友情すら知らない、愚かで孤独な男の運命が、決まった瞬間だった。
「それから、一日の試練を乗り越えるたびに、お三方と話をする権利を得ました。そのうちに、だんだんと、お三方のことを知っていって……とても愛おしく思えてきたんです」
「三人を、か?」
「はい。そのすべてが。それは、今でも変わりません」
これが愛なのか恋なのか。それとも、親愛なのか。
種類は分からないけれど、テオドアは確かに、彼女たちを愛していた。
例え、三柱の女神から、どうとも思われていなかったとしても。むしろ、嫌われていたって。
幸せを願えるくらいには、愛してしまっていた。
「……と、格好をつけてみたんですが、これに気がついたのはすごく最近なんです。死にかけてみて、初めて、この気持ちに整理がつきました」
テオドアが照れて笑うと、ルクサリネは、緩く瞼を持ち上げた。
美しく緑がかった瞳が――気のせいだろうか、わずかに揺れているようにも見えた。
「熱烈だな。聞いているこちらが恥ずかしくなってくる。……お前のような良い男を逃して、三女神は本当に惜しいことをした」
「はは、ルクサリネさまにそう言っていただけるなんて、光栄です」
「……私は……」
「ん?」
「私のことは……恨んで――」
そこで、女神は口ごもった。
唇を引き結び、視線を落として、なにかを考えていたかと思うと。次の瞬間には、もういつも通りの笑みが戻っていた。
「いや、楽しませてもらったよ、お前の恋愛話。なかなかどうして、一途じゃないか」
今の様子は、触れないほうがいいだろう。
テオドアは、なにも気づかないふりで、明るく切り返した。
「三柱を同時に娶ろうとした男が、一途というのもおかしな話ですね」
「自分で言うのか? まあ……その通りだが。平等に愛して、全員が納得ずくなら、良いんじゃないか」
「納得どころか、殺されてしまいました!」
「ははは。それをネタにするのは止めろ。笑えないだろう」
「今、笑っていましたよね?」
そうして、どちらからともなく、笑い合う。
気分の上がったテオドアは、「そうだ」と、思いついて言った。
「僕の話もしたんです。ルクサリネさまも、ひとつ、恋愛のお話を聞かせてください」
「私の?」
「はい。初恋でも、片想いでも、もちろん両想いでも」
「……」
すると、女神は黙って身を起こした。
真っ直ぐに前を見つめる。川の向こうの、森の奥を。
その横顔は――笑みをたたえていても、どこか、寂しげだった。
「さあな、千年も生きているんだ。――もう忘れてしまったよ」




