184.獣の声の彼方と此方
次の日の深夜。人通りの失せた、王都の住宅街にて。
テオドアとペレミアナは、暗い通りの隅を、灯りも持たずに歩いていた。無論、「謎の獣の声」を調査するためだ。
ちなみに、セブラシトは宿で爆睡している。「僕が行くと敵に気取られやすくなるだろ」というのが言い分だったが……恐らく、ただ自分が疲れて寝たかっただけだ。
協力を取り付けたとは言え、彼の本性はまったく変わらない。別にそれをどうとも思わないので、テオドアは文句も言わずに、ペレミアナと共に宿を出た。
声が聞こえた、という複数の証言を頼りに作った地図を見ながら、周囲に異変がないかを探っていく。
これが女神奪還に繋がるかは分からないが、ルチアノたちが隠している「何か」は暴き出せるかもしれない。
途中、ペレミアナは、声を潜めて言った。
「……昨日は、『地下には国境がないから掘り抜ける』と言いましたが、移動をさせるだけなら、もっと簡単な方法があります」
「それは……『空間移動』ですか?」
「ええ。人はともかく、大量の魔物を移動させるなら、魔法陣に押し込めば転送できる『空間移動』のほうが便利です。魔物が人間の指示に従うとは限りませんから」
あと、掘り抜くのにも時間が掛かりますからね。と、昨日の自分の言葉をあっさりと覆していく。
自分が一度言ったことをさらに吟味して、必要とあれば訂正する。それは、知恵を司る者として正しい態度なのかもしれなかった。
テオドアは、広げた地図から目を上げて、遠くに見える王城へ視線をやった。
「今のところ、何も聞こえませんけど……地下から響いてくるような声なんですよね?」
「そう聞いています。いえ……こうして巡っていると、わたしにも聞こえてきます」
「え?」
驚いてペレミアナを見ると、彼女は神妙な表情で「聞こえませんか?」と問うてきた。
耳を澄ませるが、やはり聞こえない。静まり返った家々の壁に、二人分の足音が反響しているだけだ。
テオドアが首を振ると、ペレミアナは少し困ったように、「もしかしたら、この耳のせいかもしれません」と言った。
「耳とは、その、魔獣の?」
「はい。旅をしている最中も、なんとなく……違和感はあったんです。遠くの音がよく聞こえるようになったな、と」
冥界では、神を受肉させる設備が整っていなかった。
彼らが基本的に、地上の事柄に介入できないゆえの不足だろう。そもそも受肉する必要がないのだから。
頑張れば儀式に必要な材料も掻き集められるだろうが、テオドアの元の肉体を蘇らせるよりもずっと時間が掛かる、と聞いて……ペレミアナは、魔獣でできた肉体を使い続けることにした。
神気の回復速度も遅いし、出力も悪い。欠点しか見えていなかったが、まさか、身体能力が向上していたとは。
「本当に気休め程度なんですけどね。あとは、大きな音だと耳がちょっと痛いなって。魔物の声を聞き取れたのも、元は魔獣だったからかもしれません」
「御耳に障りがあるなら、言ってくだされば」
「途中までは魔法で保護していたんです。でも……」
気まずそうに口ごもる様子を見て、気がつく。
彼女は、言わなかったのではない。言い出せなかったのだ。
受肉したときから違和感を抱えていたはず。だからこそ、ささやかな魔法で耳を保護していた。聴覚が鋭敏になっている以上、突然の大きな音を対策するのは当たり前のことでもある。
しかし、ひと言、「大きな音が苦手になりました」と告げてもらえれば、配慮もできた。それを知りつつも、彼女は黙っていた。
そうまでして黙っていたのは、もしや――
「……『魂の女神』さまのお屋敷にいたときは、すでにお気付きになっていましたか」
「はい……」
「御耳の保護は?」
「冥界を出てからです……」
ペレミアナが悪いわけでもないのに、肩身が狭そうに縮こまる彼女に、テオドアは胸の重くなる気持ちがした。
あのとき、テオドアは、『魂の女神』とペレミアナの会話を盗み聞きした。ほんの僅かなやり取りだけだが、黙って聞いたのには違いない。
しかも、自分に都合が悪い話の流れになったときには、強引に割り入って中断させている。露骨な行為だったと今でも思う。
ペレミアナは話に夢中で気が付いていない。そう思い込んでいた。だが、直接、彼女を見ていたわけではない。
もしも、あのとき、テオドアが扉の外で聞いていると、気が付いていたとしたら。
(僕の不審な行動も知っていたことになる。つまり……)
そこまで考えて、テオドアはふっと肩の力を抜いた。
彼女は、考えなしに黙っていたわけではない。理由があったはずだ。例えば――そう、テオドアのためとか。
聡いペレミアナはすべてを悟ったのだろう。テオドアには「前世」の記憶がある。「前世」の記憶があるから、『番人』の死体に入っても拒絶反応を起こさなかった。
しかし、テオドアが『番人』の身体で蘇っても、彼女は何も言わなかった。いつも通りの態度を貫いていた。
(気遣ってくださったんだ、僕を)
前世と今世を切り離したい自分の気持ちを、汲んでくださった。だからこそ、聴覚のことを隠していた。
――テオドアは、努めて明るい声で言った。
「もしかして、セブラシトが合流したから、保護魔法が使えなくなってしまったんですか?」
「あ、そ、そうです。『魔眼』持ちですから、指摘されると嫌だなって、思って……」
「では、今日から堂々と使えますね。良かったです」
そうやって微笑むと、ペレミアナも安堵したようだ。
ごちゃごちゃと御託を並べたが、今までの考察はすべてテオドアの「考え過ぎ」かもしれない。ペレミアナは何も知らず、この非常時にただ耳が痛いのを言い出すのもどうかと思って黙っていただけかもしれない。
憶測で他者を測ることはできない。テオドアは、これ以上掘り下げるのを止めた。
話したり考えたりしているうちに、地図に記された「発生源」をいくつか通り過ぎてしまった。
テオドアは、彼女の聴覚について話を戻す。話題を逸らしてしまったが、何かを言いたいから切り出したのだろう。
「声は今も聞こえますか?」
「聞こえて……ます。でも、声の発生源と思わしきところに来るまでは、一切聞こえませんでした。それが少し……おかしい気がして」
「おかしい、とは?」
「音って、距離や障害物で減衰するとは言え、かなり遠くまで届くんです」
俄かに立ち止まったペレミアナは、宙を指でなぞり、光の筋で図を描き始めた。
テオドアが手に持っている王都の地図を大雑把に描き、王城と、周辺の「発生源」を付け加える。
「わたしたちがいるのは、ちょうどここら辺です。音が聞こえたという証言があった場所ですね。ここでは唸り声が聞こえています。でも……」
ペレミアナ曰く、証言のあった通りに入るまでは、何も聞こえなかった。だが、一歩足を踏み入れた途端、抑え込んでいたものが溢れたかのように、急に声が聞こえるようになったのだ、と。
だが、強力な防音材でもない限り、音を一切遮断するのは不可能に近い。そして、通りの入り口には、目に見える壁は存在しなかった。
これが意味することは。
「結界が張られてます。魔物を地下に閉じ込めておくためと……おそらく、地上の人間に不審に思われる機会を減らすため。地面にも防音の結界を張っていないのは、どうしてだか分かりませんけど」
「うーん……今の結界を維持するだけで精一杯だから……とか?」
「あるいは、『空間移動』の魔法陣に支障をきたすからかもしれませんね。あれは、元はと言えば結界に近い魔法なので」
言いながら、ペレミアナは片手を振り、光の地図を掻き消した。
「とにかく、結界があると分かっただけでも収穫です。上手くいけば、音を頼りに、地下の構造を割り出せるかもしれません」
「ああ、そうか。反響で……」
「そうです。魔物がひしめいているか、通路か、空洞か。魔物の声の響きで分かるでしょう」
テオドアは感嘆した。彼女は早くも、自らの異形の身体に有用性を見出したらしい。
二人はさっそく、「発生源」から一本隣の通りに行ってみた。道の境目を行ったり来たりしてみたが、やはり、隣の通りでは無音だったものが、一歩踏み込んだだけで獣の声がはっきりと聞こえてくるという。
結界、もしくはそれに準ずる魔術・魔法が行使されているのは、間違いなさそうだ。
「本当は、地下に潜って探索できればいちばん良いんですけど、今のわたしは足手まといにしかなりませんし……」
と、「発生源」の調査を再開しながら、ペレミアナが溜め息を吐く。
テオドアは苦笑して、「それは僕も同じですよ」と慰めた。
「でも、テオドアさんはそれがあるじゃないですか。指輪。『魂の女神』から贈られたんでしょう」
「はい。ええと、でも、そんなに深い意味はないかと」
「分かってます!」
言葉とは裏腹に、ペレミアナはちょっと不機嫌になっていた。未来の夫に、自分の母親が指輪を贈ったのが薄っすら不服らしい。
これ以上は何を言っても逆効果だろう。テオドアは前を向き、左手に嵌った銀の指輪に視線を落とす。
――冥界を出るとき、さまざまな神や精霊が魔石と宝石、魔道具をくださった。どれも有用なものだったが、『魂の女神』から贈られたこの指輪が、いちばん破格である。
「いろいろ分かったら、僕が一人で乗り込みます。これがあれば、たとえ『最高神』の目でも擦り抜けられますから」
魂を偽装する。
身に付けている者は、己の魂を別人の魂に見せかけることができる。相手が魔眼であろうが神であろうが関係がない。絶対に、見破れない。
ただし、別の要因で「魂を偽装している」と知った者には、二度と効かない。テオドアの例で言うと、ペレミアナとセブラシトには絶対に効かない。
が、今の状況では、これ以上のない魔道具であった。
「あのお方は、どこまで見透かしていらっしゃるんでしょうか」
テオドアが言うと、ペレミアナは眉を下げて笑った。
「お母さまのお腹から生まれたわたしにも分かりません。きっと、お母さましか分からないことです」
「それもそうですね」
納得して頷き、指輪から顔を上げる。
失敗のできない潜入捜査が、すぐそこまで迫っていることを、覚悟しながら。