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178.美しい女旅人

 アルカノスティア王国には、今、薄っすらとした不安が蔓延していた。

 堅牢だった国境の壁が魔物によって壊され、付近の街がめちゃくちゃになった。死傷者も多数出て、家を失った者たちが大量に他の街へ移動したため、周囲も混乱が続いている。


 そんな中でも、中心地の王都にほど近い領地では、比較的に平穏が保たれていた。

 ヴィンテリオ公爵家の使用人であるハンナは、厨房から渡されたメモを片手に、近くの市場に繰り出していた。


 普段は幼いお嬢さまをお世話申し上げている身だが、新しく公爵家を継いだツィロの采配もあり、大貴族にしては家内に人手が足りない。厨房の雑用係が軒並み出払っていたため、ハンナは料理人に拝み倒されて雑用を引き受けた。

 他の〝高貴な〟出身の使用人ならば、嫌な顔をするだろう。しかし、ハンナは雑用が嫌いではなかった。双子の兄弟であるクレイグと、下町でたくましく育ったからだ。

 お仕着せを着たまま市場に行くのは妙な気持ちになるものの、恥じることはなにもない。


 用事を済ませ、ハンナは荷物を片手に抱えて帰路に着こうとした。不安が蔓延しているとはいえ、やはり公爵家の領地は安定している。市場にはたくさんの人が行き交っていた。

 だから、ハンナが「彼女」に気付いたのは、まったくの偶然である。


 地味なマントを頭から被った女性が、露店の途切れた道の端で、きょろきょろと周囲を見渡している。誰かを探しているのか、道行く人を一人一人、確認している様子だ。

 ハンナは一瞬だけ迷った。お節介になるかな、という気持ちが過ぎる。しかし、次の瞬間には意を決して、女性のもとへ歩み寄った。


「あの、すみません。誰かお探しですか?」


 声を掛けると、女性は驚いたようにこちらを見た。目が醒めるほど美しい女性だ。ハンナは、自分から話しかけておきながら、美しさに圧倒されて口を閉じる。

 黒に見える深い青の髪。眼鏡の奥の薄灰色の瞳。その端正な顔立ちに――なんとなく既視感を覚えた。


「あ、はい。ええと……夫とはぐれてしまって」


 女性は戸惑いながらも、微笑んで答える。

 夫。こんなに美しい女性なら、そりゃあ結婚もしているだろう。ハンナは、微かに抱いた既視感を押しやり、笑顔を返した。


「旦那さんとは、どこではぐれたんですか?」

「そうですね……ヴィンテリオ公爵家の近くで。とても綺麗なお屋敷なので、遠目にでも見ておきたかったんです」


 旅の思い出に、と言われて、ハンナは納得する。

 マントを被っているのは、旅人だからだろう。荷物が見当たらないが、彼女の夫が過保護のためにひとつも持たせないか、身分が高いゆえのお忍びだからか。

 地味なマントの下で、上等な服が見え隠れしているし、どこかで馬車を待たせているのかもしれない。


「そこまで戻りたいのですが……土地勘がなくて道が分からなくて。途方に暮れていたところです」

 

 ハンナは「そうですか」と言いながら、次に発する言葉をまとめた。


「もしよろしければ、そこまでご案内しましょうか?」

「良いんですか? わたしは、とても助かりますが……ご用事は?」

「大丈夫です、あたし、公爵家が職場なので!」


 胸を張って請け負うと、女性は少しだけ間を置いて、「では、よろしくお願いします」と上品に礼をした。

 やはり身分ある人なのだろう。だが、野暮なことは聞かない。ハンナはにこやかに話を振りながら、連れ立って歩き出した。

 ご出身はどこなんですか? と問うと、「ヴェルタ王国のほうです」と穏やかな答えが返ってくる。


「ヴェルタ! あそこ、王さまと王子さまが続けて死んじゃって、大変だって聞きましたよ」

「そうらしいですね。でも、第二王子がご健在でしょう。近々、即位式もあるでしょうし、一度帰ってみるのも良いかと思いまして」

「即位式なんて、そう何度も見られるものじゃないですもんね」


 ハンナは、下町での経験を活かし、暗い通りや怪しげな道を避けていた。自分一人でも用心は欠かせないのに、今は隣に高貴な美人がいる。なにかがあっては本当に困るのだ。

 まあ、ハンナが住んでいた下町とは、治安も人々の余裕も格段に違う。滅多なことは起きないだろうと、警戒をしつつも会話に意識を割いた。


「旦那さんとのこと、聞いても良いですか? どうやって出会ったのかとか……」

「ええ、良いですよ」


 女性は気分を害したふうもなく、夫との出会いを語ってくれた。

 なんでも、女性が人生に行き詰まって別荘にこもっていたとき、偶然通り掛かった男性に一目惚れをされたのだとか。その場で求婚をされて、初めは面倒に思っていたのだが、だんだんと惹かれていって今に至ると。

 なかなか現実では見ない、物語のような馴れ初めである。ハンナは話に聞き入って、ほっと息を吐いた。

 なんだかんだ言っても年頃の娘だ。恋の話は、例え公爵家の使用人同士のものでも、聞くのが楽しかった。

 そんなハンナを、なぜか女性は微笑ましげに眺めていた。


「わたしの恋をお話ししたので、次はあなたの番ですね」

「え! あ、あたし?」


 急に話を向けられて、ハンナは一瞬だけ立ち止まった。すぐに足を動かしたが、動揺しているのは相手に丸わかりだろう。

 現に、女性はくすくすと笑って口元に手を当てた。


「なにか、素敵な恋のお話はありますか? ぜひお伺いしたいです」

「えーっ、どうしよう……うーんと……」


 こんな美しい女性の、めくるめく恋の話がされた後では、自分のちっぽけな恋なんて霞むんじゃないだろうか。

 そう思ったが、むしろ通りすがりの人に相談するくらいの気持ちになろうと切り替え、ハンナはゆっくり口を開いた。


「……憧れ、みたいなものなんですけど。本気で好きな人は……います」

「いるんですね! 素敵です!」

「あ、す、素敵かどうかは……! いえっ、その、相手の方はすごく素敵なんですが!」


 ハンナは慌てて、顔の前で片手を振った。自分でも、言っていることがめちゃくちゃなのは分かる。

 市場から遠ざかるにつれ、人通りも減り、公爵家が近くなるからか道がきちんと整備され始める。ハンナは女性と二人で歩きながら、考えて話を続けた。


「その人……今は、とても遠いところへ行ってしまって。振り向いてもらうために頑張るって思ってるんですが、先は長いですね」

「でも、諦めないんでしょう?」

「もちろんです! あたし、諦めだけは悪いんですよ!」


 拳を握って力説する。

 そう、あの人――テオドアが、公爵家の出で、今代の〝依代〟で、望めばどんな女性とも関係を結び放題だろうが、そんなことは瑣末(さまつ)なことなのだ。

 肝心なのは、ハンナが全力でぶつかったという事実。初めから諦めていてはなにも変わらないし、後悔が募るだろう。

 ありとあらゆる女性の中で、自分だけが抜きん出ているとは思わない。が、彼に迷惑がかからない程度になら、粘ったっていいと思う。


「そこまでお好きなら、なにか、恋をするきっかけがあったんじゃないですか?」


 と、女性がさりげなく話題を提供してくれる。

 ハンナは、記憶を掘り返しながら、順序立てて語った。


「あたし、数年前まで、酒場で働いてたんです。両親はとっくの昔にいなくなってるし、兄弟と二人で、なんとしても生きていかなくちゃいけなくて」


 しかし、場末だったこともあり、酒場の治安は悪かった。

 猥雑な声掛けは日常茶飯事だし、面倒な客にも絡まれる。店の主人はまったくやる気がなく、ハンナ一人に仕事を押し付けて寝てばかりいた。

 それでも、他の仕事よりは実入りがいい。歯を食いしばって続けていたものの、だんだんと自分がすり減っていくのを感じていた。


「で、えーと。あるとき、帰り道に襲われたんです。酒場の面倒な男の客にです。待ち伏せされて、路地裏に引きずり込まれて」

「えっ、それは……」


 女性が心配そうな声を上げる。しかし、ハンナは軽く「大丈夫ですよ」と言った。


「そいつ、めちゃくちゃ弱かったんです。下町の女を舐めんなって感じですよ。急所を蹴って転がしておきました」

「よ、良かったです」

「でも……なんか、虚しくなっちゃって。ああ、あたしって、こんなヤツにも『いけそう』って思われたんだなーって」


 女のプライドが傷付いた、というわけではない。

 なんというか、自分の存在を限りなく軽んじられた事実に、脱力したのである。一生懸命頑張って、自分なりに努力してお金を稼いでいるのに、周りからすればその程度なのか、と。

 どんよりと星のない夜だった。抵抗して、無我夢中に蹴り上げたため、靴が片方脱げてしまっていたのを覚えている。

 ああ、なんか、嫌になったなー。帰り道をぶらぶら歩きながら、そんなことを思っていた。

 しかし、ここで、ハンナは「彼」を見つけた。


「彼は……何の仕事をしていたのか分かりませんが、とにかく、薪をたくさん運んでいました。もう夜なのに、お店の裏で、その……初老の女の人(おばさん)にずっと怒鳴られてたんです」


 推測するに、そこは宿屋で、彼は煮炊きするための薪を用意していたようだった。おばさんは女主人で、テオドアの振る舞いに気に入らないところがあったのだろう。

 途中からは関係のない罵倒に変わっていた。無関係のハンナが、聞いているだけでも気が滅入る金切り声だ。


 しかし、彼は違った。

 たくさんの薪を抱えたまま、真剣に話を聞き、隙を見て彼女を宥めさえしていた。興奮しきりだった女主人も、いつしか声を抑えることを思い出し、最後はバツが悪そうに建物の中へ戻っていった。

 テオ、と呼ばれていた赤髪の彼。疲れ切っていたハンナにとって、彼の姿勢は驚嘆に値するものだった。


「だって、ただ耐え忍ぶ、ってわけじゃなかったんです。きちんと状況を見て、言い分を聞いて、でも相手を尊重するって……そんなことできる人がいるのか、って、衝撃でした」

「お仕事の姿勢に、惹かれたのですか?」


 女性は意外そうに言う。

 まあ、彼女のように劇的な恋をした人なら、意外に思うだろうな。ハンナは首肯した。


「初めはそうでした。そこらでは珍しい赤い髪で、見つけやすかったっていうのもあります。あたし、その宿屋の近くを通るたびに、彼を探しました」


 職を転々としているようで、いつしか宿屋の近くでは姿が見えなくなったが、そのたびに場所を変えて探し出した。

 そうして、彼がひたむきに努力する姿を見て、勝手に勇気づけられていき――いつしか、彼自身に恋するようになったのである。


「ひ、一目惚れとかそういうのではなくて、地味ですけど。逆にあたし、ずーっと声を掛けずに見てるだけで、変な女ですよね」

「いいえ。気持ちは分かります。わたしも、『今は話しかけたくないな』と思って、彼に声を掛けずにいたことがありますから」


 そう肯定してもらえて、少し安堵する。

 結局、ハンナは一年半も、こっそり彼を眺め続けていた。ひょんなことで知り合いになって、あっという間に彼の異母妹をお世話する立場になったが……きっと彼は、クレイグの勤めていた店が初対面だと思っているのだろう。

 こんなに遠い人になってしまうなら、もっと早く思い切っていればと、後悔はしている。

 が、まあ……悔やんでも仕方がない。前を向くだけだ。


「……わたし、あなたと気が合いそうな気がします」

「そ、それはどうも、ありがとうございます」

「冗談じゃないですよ。本気です」


 二人は、既に公爵家のすぐ近くまでやって来ていた。整然と並んでいた民家がなくなり、高い塀が延々と続く道に出る。

 背伸びしても、塀の中は覗けそうもない。以前の、ほとんど放棄されていたころの屋敷は、塀さえも崩れて危うかった。今は修繕の手も行き届き、体裁が保てている。

 ハンナが道の端へ寄ろうとすると、不意に女性が、「あ!」と声を上げた。


「夫です。見つけられました! ありがとうございます!」


 彼女の向く方へ視線をやると、通りの向こうから、一台の辻馬車がやって来るのが見えた。

 なんの変哲もない馬車だが、女性はすぐに「夫」だと分かった。まさか、御者が夫なわけではないだろう。借り切っているのだろうか。

 わずかに違和感を覚えたものの、ハンナは笑顔で「良かったですね」と言っておいた。


「本当に助かりました。これを……」


 と、女性はマントの下から小さな袋を取り出し、そっとハンナに手渡した。

 彼女に断って中身を見て、ぎょっとする。ハンナの給金を軽く数年分は賄えそうな、大粒の宝石や金貨が詰まっていたからだ。

 荷物と小袋をいっぺんに取り落としそうになり、ハンナは慌てて掴み直した。


「い、いただけません! こんな、こんなに!」

「ダメです、貰っていただかないと。わたし、あなたにご迷惑をお掛けしたんですから」

「道案内をしただけですよ!」

「いいえ。それだけじゃありません。罪滅ぼしにも足りませんが、どうか」


 なんとか返そうとしたが、相手も頑なだ。押し問答の末、ハンナは渋々、自身のエプロンのポケットに小袋を滑り込ませた。

 それを見て、女性は満足そうに笑う。


「……あなた一人だけ、というわけにはいきません。でも、きっと彼は、あなたの気持ちに応えてくれるはずですよ」

「え?」

「わたし、あなたともっとお喋りしてみたいです。いつかまた会いましょう、ハンナさん」


 言うなり、彼女は身を翻し、だいぶ距離のある場所に止まった馬車へと駆けて行った。

 御者と言葉を交わして、開けてもらった馬車の中へ乗り込む。奥にちらと見えたのは、夫だという男性だろうか。

 颯爽と去っていく馬車を、ハンナは、夢から覚めたような心地で見送った。


 そうして、思う。


 ――あたし、自分の名前がハンナだって、名乗ったっけ?

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