18.第一の試練・前編 怪鳥のいる山
「いよいよ、『第一の試練』だ。おまえら、気をはっていけ」
いつの間にか、金の髪の少女・セラが、候補者たちの前に立っていた。
ペガサスはおらず、少年のように長いズボンを履いているが、金の髪は下ろして二つに括ってあった。おそらく、あのときの格好は、本当に乗馬をするときのための姿だったのだろう。
セラは候補者たちを見渡し、「女神はつねにみている」と、静かに続けた。
「怪鳥の卵を、じぜんに通告したとおりに手にいれれば、この試練を突破したとみなされる。……例外はない。分かっているな?」
「分かっていますとも! ルールに則って、勝負しますよ……ねえ?」
セブラシトが笑いながら返事をし、横目でちらりとデヴァティカを見た。
デヴァティカは一瞥もくれず、ただ黙って地面を眺めている。話に乗るつもりはないらしい。
それもいつもの振る舞いなのだろう。セブラシトは、やれやれと首を振った。
「本当にルールに則るんだろうな? どうも信用ができんが」
「やだなあ、王子さま。いくら僕たちのことが気に入らないからって。この試練は『真実の神』が全てを見通していらっしゃるんだよ? 不正なんかできるわけがないじゃん」
「……それもそうだな」
二人に不審感を持っているらしいルチアノも、『真実の神』の名を出されては踏み込めず、引き下がる。
確かに、神が全てを監視しているというのなら、人の身では不正のしようもないだろう。
その冷え切ったやりとりを、ネイとテオドアの二人は、黙って傍観していた。
「……つもる話もあるだろうが。話をつづけるぞ」
セラは、無感動に言った。
「この試練に制限時間はない。怪我の有無もかんけいがない。が、ほかの候補者が試練をおえているのに、ひとりだけ二年も三年も山にこもられてはこまる。だから――」
右手を出し、セラは指を一本立てて、候補者たちに突きつけた。
「ひとつ。誰かひとりでも試練を達成したものがあらわれた場合、そこから三日以内に試練を達成できなかったものを、ぜんいん失格とする」
それから、もう一本、指を立てる。
「ふたつ。試練の最中に、自分で行動ができなくなったものは、そのじてんで失格となる」
以上だ、よく覚えておくように。
幼なげな声が、高らかに宣言した。
「これより、『第一の試練』を開始する」
開幕が宣言されるや否や、デヴァティカとセブラシトが、一足先に駆け出した。
山には別の魔物も潜んでいるかもしれないのに、そんな可能性など振り捨てている様子だ。よほど腕に自信があるのか。もしかすると、魔法で自らを守っているのかもしれない。
「ええと……【防護】を使って、【道しるべ】も……」
一方、ネイは手のひらに小さな魔法陣を浮かべ、ぶつぶつとなにやら言いながらこねくり回している。見た目に違わず慎重派なようだ。
「ネイ、テオドア! 君たちの健闘を祈っているぞ! では、山頂でまた会おう!」
ルチアノはこちらに明るく声をかけてから、木々の合間を縫ってぐんぐん登っていく。
ここは彼の故郷だ。『試練』が特定の一人を優遇するとは思わないけれど、自国の強みを生かして、他の四人が知らない情報を手に入れているかもしれない。
ネイも、ひとしきり魔法をかけ終えたのか、おっかなびっくり後をついていった。
テオドアは自らの両頬を叩き、気合を入れ直した。
「よし……」
遅ればせながら、山の中へ分け入っていく。
誰かが卵を手に入れて帰還するまで、ではあるが、制限時間はない。早さ勝負ではないはずだ。慎重に登っていけば――上手くいけば、日没までには山頂に辿り着けるだろう。
候補者以外に足を踏み入れた痕跡のない山は、木々も植物も、好き放題に伸びていた。
袋から小さなナイフを取り出して、目の前を塞ぐ植物を切り、踏み均しながら進む。こうすることで、行き止まりに当たっても、ある程度は帰り道が確保できるはずだった。
テオドアは、青々と茂る木々の枝葉を見上げ、空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
(懐かしいな。山ではなかったけど、こういうところがいちばん落ち着く)
街中ももちろん、便利で素晴らしいところだけど。
前世の記憶が色濃いせいか、木々と動物が息づく場所のほうが、どうしてもしっくりくる。
でなければ、せっかく公爵家に生まれたのに辺鄙なボロ小屋生活かと、悪態のひとつでもついていたかもしれない。
テオドアは、自分が聖人でないことを、よく自覚していた。
(もし、自分が魔力を持っているって、自覚しながら成長していたら……)
間違いなく、どこかで慢心して失敗していただろう。前世の、魔法のなかった生き方のことも忘れて。
こうして魔法も使わずに、一歩一歩、着実に登り詰める経験も、しなかったかもしれない。
歩き続けていると、近くからなにかが動く音がして、はっと身を固くした。
なるべく静かに、近くの木の影に身を寄せる。音からして、そこまで大きな生き物ではないだろう。中くらいの――動物。魔物でないことを祈るばかりだ。
耳をすませ、音が遠ざかっていくのを確認して、ひと息をつく。
(心臓に悪いなあ)
だが、慣れた感覚でもある。魔獣が蔓延る森で、当たり前のように享受していた緊張感だ。
先に進もう。まずは、頂上付近に着かなければ。
おそらく、ここは、山の中腹あたりだろう。
鬱蒼とした森を抜け、開けた場所に出る。空を見上げ、太陽の傾きを見て、今が昼くらいだと確認する。
道中、なるべく節約するために、水はそこまで飲んでいなかった。乾きかけた喉を潤して、周囲を見渡す。
抜けてきたところと比べて、ここは明らかに、様子が違う。
木の一本一本が、巨大なのである。幹も、大人が何人か手を繋いで、やっと一周できるくらいの太さ。枝も葉も、大きなものでは子どもの腕と頭くらいの大きさだった。
(これが、怪鳥が巣を作る樹か)
近くに寄り、ごつごつとコブの目立つ樹皮に触れる。
正式名称は忘れたが、俗名は覚えている――『骨砕きの樹』。文字通り、殴ればこちらの骨が砕ける、という意味だ。
これも怪鳥が、この木の葉と自らの唾液を混ぜ合わせて、とても堅い巣の材料とすることから、呼ばれるようになったらしい。
また、怪鳥がこの木の実を食べ、飛んで種を撒くことで、新しく芽を出すことができるとか。
持ちつ持たれつだなあと考えながら、振り返ろうとした瞬間。
――気配。
いや、殺気だ。
一瞬でも油断したことを、テオドアは悔いた。だが、そんな悠長なことをしている場合ではない。
覚悟を決めて身を翻し、対峙する。
(魔獣――!!)
それも、初めから闘志が剥き出しの、危険な魔獣だ。
黒々とした毛並みの、四足歩行の獣。逆立った毛は炎のように揺らめいている。立ち上がれば、テオドアの背などは余裕で抜かせるだろう。剥き出しの牙からは涎が滴り、荒い息とともにこちらを狙い定めていた。
なにより、その魔獣は、胴に大きな切り傷を負っていた。
手負いの獣ほど、恐ろしいものはない。
どんな技を使ってくるのか、と身構えようとした隙に、魔獣は叫び声を上げて飛びかかってきた。
「グギィィアアアアアアアアアアアッ!!」
咄嗟に片手で剣を抜き、牙による初撃をなんとか防ぎ切る。
しかし、怯んだところへ追撃するのは、あまりにも無謀すぎた。まともに牙を受けて分かったが、これは自分の防御力を、魔力でひたすら強化している種類の魔獣だ。
まともに打ち合っても、今のテオドアでは、まず勝てない。
一瞬の判断で、テオドアは、水の入った皮革袋を投げつけた。
それから全速力で逃げ出す。登っていくはずだったところから右に逸れ、山頂までの道も考えずに、ただひたすら走る。
追いつかれないよう、木などを障害物にして回り込み、めちゃくちゃに走り続けた。
息が上がる。自分の呼吸だけが近い。
追われているのは足音で分かる。振り返る余裕もなく、下手をすれば転がり落ちてしまいそうな斜面を突っ切り、走って走って走って。
――再び視界が開けると、そこは、切り立つ崖の上だった。
周囲には、身を隠すものはなにもない。また引き返そうにも、背後には既に、本能のまま噛み付かんとする魔獣が迫っていた。
断崖を背に、テオドアは振り返る。
咆哮、地を蹴る音、飛び上がるように駆ける獣の姿。
テオドアは、魔獣をぎりぎりまで引き付け、牙の届く直前に身体をずらした。
すれ違いざま、ちょうど目の前にあった魔獣の傷を、思い切り抉るように剣を突き刺す。
「ギャゴオオオオッ!!!」
勢いをつけて走っていたため、急に止まることができず。
さらに、深手の傷を抉られ、魔獣はもんどりうって崖下へと落ちていった。
断末魔が遠ざかっていく。
テオドアは、崖先に膝をつき、恐る恐る下を覗き込んだ。
下は谷になっているらしい。あまりにも深いため、魔獣がどこに落ちたかは分からないが、おそらく命はないだろう。
よしんば生き残っていたとしても、この絶壁を登ることはできまい。
「……はああー……」
崖から離れ、数歩ほど後ずさったところで、テオドアはどっと座り込んだ。
今さら、心臓の鼓動が戻ってきたかのようだ。肩で息をし、尋常でなく汗が噴き出している。
「し、死ぬかと、思った……」
何かひとつでも違っていれば、確実に死んでいただろう。
最後の最後で、手負いをさらに傷つけることができたのは僥倖だった。剣は失ってしまったが、命あってこそ、物を惜しむことができるのである。
「あと、道も分からなくなってるな」
がむしゃらに逃げてきたので、来た道はとうに見失っている。それを探して再び戻れば、日のあるうちに頂上付近に辿り着く目的からは、限りなく遠回りになるだろう。
となると。この近くから、上に至る道を探すしかないのだが。
この断崖の近くには、行く手を阻む、岩が剥き出しの絶壁しかないのだ。
テオドアは、遥か天にまで届きそうな天然の壁と、空に輝く太陽とを、何度か見比べた。
戻るか、進むか。休憩がてら、五分ほど考えた挙げ句――決意する。
「崖、登ろう」
剣がなくなった分、少し身軽になったはずだからだ。