176.不可抗力で盗み聞き
『安寧の女神』に別れを告げ、渡された地図の通りに歩く。
もっと話をしたい気持ちはあったが、冥界全体が問題の解決に奔走しているのもあり、長居は迷惑になるだろうと早々に館を辞した。
地界と天界で起きたいざこざには介入できないものの、「冥界から地上へ出られない」というのは直接的な被害だ。
逆に『最高神』へ文句を言う好機かもしれないわね、と、『安寧』は困ったように笑っていた。
彼女に教えてもらったのは、『魂の女神』の住む家への道である。
娘の『知恵と魔法の女神』――ペレミアナも、おそらくはそこにいるだろう、と。テオドアは、慣れない冥界の地形に何度か迷いかけながらも、やっとの思いで地図の示す海辺に辿り着いた。
テオドアは内陸地の生まれであるため、地界でも海を見たことがほぼない。〝依代〟として儀式のために各地を回っていた折、一度だけ海辺の街に滞在したことがあるくらいだ。
だが、やはり、そのときの印象と、目の前の黒々と濁った海は、まったく別物である。
自分には分からないが、冥界の人々には魅力がある光景なのかもしれない。そう思いながら、不気味に寄せ返す波を横目に、砂浜を歩き続ける。
どれほど歩いただろう。海岸沿いの高台に、素朴な石造りの家が一軒建っているのが見えた。
周囲に他の家はなく、人気もない。緑の蔦が家を覆い尽くしているのを見るに、なんとなく、『魂の女神』自身が他者を拒絶しているようにも見えた。
木の扉を軽くノックする。
『安寧の女神』からは、「誰かが出迎えること自体が稀なので、勝手に入っても良い」と聞かされていた。案の定、数分ほど待っても、誰も出てこない。
テオドアは躊躇いつつ、ドアノブを引いてみた。鍵はかかっていないのか、あっさりと開く。
「ごめんください、どなたかいらっしゃいますか?」
声を掛けたが、返事はない。しかし、階上から誰かの気配と話し声がする。なるべく『魂の女神』の私生活に関わりそうな部屋は避け、階段を探した。
十分ほど捜索した末、板張りの廊下の奥に、ひっそりとある木の階段を見つけた。体重をかけると、足の下で小さく軋む。
「すみません、あの……」
声を上げながら、ゆっくり二階へ。話し声はだんだんと近くなる。右手奥の部屋か。中の彼女たちが気付いた様子はなく、扉越しでも真剣に話し込んでいるのが分かった。
話を遮ることになるので、テオドアはひと呼吸置いて、ノックをしようと右手を上げる。
だが、ふと、聞こえてきた言葉に手を止めた。
「――魂を別の身体に移したとき、拒絶反応は出るものなんですか?」
おそらくペレミアナが問うている。対するのは『魂の女神』だろう。なにごとか、例のごとく独特な物言いで答える。
テオドアは、自分の心拍が徐々に上がっていくのを自覚した。
早くなる呼吸を、話の続きを聞くために抑え込む。会話の邪魔をしないように控えていたはずが、いつしか、盗み聞きをするために気配を消そうと努力している。
「それなら、ええと……魂を、別人とするための定義なんですけど」
ペレミアナが、言葉を選びながら言う。
予感がした。彼女は核心に迫ろうとしている。何か、テオドアが隠していることを――
「転生をしたら、もう別人でしょう? でも、例えば、前世の記憶がある人なら、」
ペレミアナの声はそこで途切れた。テオドアが力強く扉を叩いたからである。
少しの沈黙の後、ペレミアナが顔を覗かせた。テオドアを見上げて驚いたあと、「よくここが分かりましたね」と微笑んで扉を開け放つ。
テオドアは、わざと女神の言葉を遮った罪悪感に苛まれながら、粛々と部屋の中に入る。
『魂の女神』は、相も変わらず浮世離れした雰囲気で、金の装身具をきらめかせて佇んでいた。
こちらにも笑顔を向けてくれるが、何を思っているかは不明だ。少なくとも、悪感情ではないとは思うが。
「轟きうねる嵐のもとへ身を投げよ」
「あ、『道に迷わなくて良かった。ようこそ』って言ってます」
「ありがとうございます……」
当然のように翻訳してくださるので、戸惑いつつも答える。まあ、実の娘なのだし、生まれたときから接していれば、自然と理解できるものなのだろう。
『魂』は頷くと、「旅人は惑うべし」と言って、扉を指し示した。ペレミアナが目を丸くして『魂』を見る。
「お母さま、ご用事があるんですか? 三人でもお話はできますよ」
「海原つづきの幽鬼あり。滞りがちに霙落つ」
「『二人でお話しなさい。私は少し外に出ているから』って……でも……」
ペレミアナが、ちらとテオドアを見上げる。
どうして視線を向けられたのかが分からず、テオドアはわずかに身を固くした。縋っているのか、探っているのか、それとも盗み聞きをしたことを咎めているのか。
だが、それも一瞬のこと。ペレミアナはふっと息を吐き、己の母に向かって小さく手を振った。
「分かりました。お戻りをお待ちしてます、お母さま」
その言葉に、『魂』は惜しみない拍手を贈ると、軽やかに身を翻して部屋を出ていった。
丁寧に扉が閉まる。同時に、テオドアとペレミアナは、どちらからともなく顔を見合わせた。
「……その。お邪魔して申し訳ございません、ペレミアナさま」
「いえ……特に、重要なお話ではなかったので、大丈夫です」
ぎこちない雰囲気の中、硬い笑顔で当たり障りのない言葉を交わす。テオドアは壁際に寄って立ち、ペレミアナも距離を保ったまま顔を逸らした。
テオドアを厭っているのではなく、どうしていいのか分からない、という様子だ。本心は違うかもしれないけれど。
「……お、お母さまに、いろいろと、聞きました。ミシェの言う通り、魂が他人の身体に入ると……ひどい拒絶反応を起こすらしいです。それこそ、死に至るくらい」
「なるほど……」
「抜け殻の死体であればまだ、頑張れば抑え込めるみたいですが……だとすると……普通に考えて、ルチアノ王子は亡くなっていると思いますが……」
王子の魂は冥界へ来ていないそうです、と、ペレミアナは続けた。
「ヴェルタ国王と第一王子の魂も、『冥界』のいざこざが起きる前に亡くなっているのに、来ていないようです。もしかしたら、地上で何か、魂が再利用されるような事態に陥っているのかもしれません」
窓の外、不気味にさざめく海を眺めながら、彼女はひと息で言い切る。話すのに疲れたのだろう、少し息が上がっていた。
それでも、まだ話し足りないようだ。
「テオドアさん、わたし……」
ゆっくりと視線をこちらへ戻し、ペレミアナはテオドアを見た。
無言で見つめ合う。
テオドアは後もないのに後退り、壁に張り付くように背をつけた。彼女の眼鏡の奥にある瞳が、だんだんと潤み、今にも涙を溢れさせそうになるのを目の当たりにしていながら――どうすることもできない。
数日にも思える、長い沈黙だった。唾を飲み込んで次の言葉を待つ。
――正直、前世のことを尋ねられるのだろうと覚悟をした。
しかし、ペレミアナは、言動が予測できない女神であった。
苦しげな表情で、絞り出すように言う。
「わたし……わたしには、『秩序の女神』のことを、責めることができません。『最高神』が復活して暴虐の限りを尽くしても、わたしにだけは……批判する権利がないんです」