175.道を閉ざした弊害
いろいろとありつつも、『冥界の神』の館を訪うと、当の主人は留守にしていた。
代わりに、『安寧の女神』が出迎え、勝手知ったる素振りで二人を館内に通してくれた。
「『冥界の神』は、今、死の精霊を集めて会議を開いているわ。緊急事態なの。だから代わりに、わたしがここにいるのよ」
と、『安寧の女神』は、少し困ったような顔で二人に言った。
館内は相変わらず、地上の悪趣味な代物で溢れかえっている。テオドアたちは案内されるまま、二階の広いバルコニーにやってきた。
そこには、ゆったりと座れるソファや椅子にテーブル、ちょっとした軽食から卓上ゲームまで完備されており、手すりの先に見晴かす昏い庭園と真っ暗な空にさえ目を瞑れば、貴族の別荘より心安らぎそうだ。
ソファに腰掛けた『安寧の女神』に促され、テオドアは椅子に座った。が、死の精霊であるミシェは、落ち着かない様子で立っていた。
「どうしたの? なにか、気になることがあるの?」
「あ……い、いえ、その……他のみんなが会議に行ってるのに、ぼくだけ行かないのは……」
そわそわと庭園の先へ視線をやるので、『安寧の女神』は微笑み、「こっちは気にしなくて良いから、行ってらっしゃい」と言った。次いで、テオドアのほうへ同意を求めるように、「良いわよね?」と顔を向ける。
引き留める理由もない。むしろ、ミシェにはまったく関係のないことに、長く付き合わせてしまった申し訳なささえある。
「本当にありがとうございました、ミシェさま。もう大丈夫です」
「はい。……じゃあ、ぼくはこれで失礼します」
彼女は礼儀正しく頭を下げ、手すりを身軽に飛び越えて去っていった。
足音が遠くなるのを聞き届けて、『安寧』は改めてテオドアに向き直った。
「ごめんなさいね。本当に今、困ったことになっているのよ。冥界がとてもバタバタしていて……わたしも、仕事どころじゃないから、預かっている魂ちゃんたちにはお休みをあげたわ」
「ええと……なにがあったんですか?」
「あなたたちが地上へ出た、すぐあとだったんじゃないかしら。死の精霊が、魂を回収できなくなったのよ」
なんでも、冥界から地上へ出るための道が閉ざされ、死の精霊がまったくなにもできなくなったとか。数日間のうちに死んだ人間の魂は回収できず、すべての業務が滞っている。
冥界の神々も、魂を転生も地獄行きにもさせられずに、困り果てているらしい。
テオドアは、相槌を打ちながら、頭の中で考えをまとめた。それから、女神の話がひと段落ついたのを見計らって、口を開く。
「……もしかしたら、僕を冥界から出さないため……かもしれません」
冥界の神々は、『最高神』の陣営にとって、どう動いてくるか分からない存在である。
基本的に不干渉を貫くだろうが、都合が悪くなれば「他人」を使ってなんとか介入してくるであろう。――と、考えてもおかしくはない。
その「他人」候補に、いちばん挙がりかねないのがテオドアである。
ゆえに、彼らはなんとかして、冥界からの道を閉ざした。
そのような憶測を告げると、『安寧』は真剣な眼差しで頷いた。
「そうでしょうね。状況を変えられるとしたら、テオドアちゃん以外にあり得ないもの」
そこまで実力を買われていると、ちょっと照れ臭い。テオドアは曖昧に微笑んで礼を言うと、続けた。
「あとは……『知恵と魔法の女神』さまを、冥界へ逃げ込ませないため、というのもあるでしょう」
「あの子を? どういうこと?」
テオドアは、地上へ出てから帰ってくるまでの数日間を、包み隠さず話した。
『知恵と魔法の女神』は、もとは冥界に住んでいた。『最高神』についた『秩序の女神』や精霊たちが、それを知らないはずがない。彼女が比較的簡単に冥界へ降りることができるのも、把握していただろう。
冥界を閉ざしている間に捕まえて、『最高神』の妻とさせるか、それとも放置して殺すためか。どちらにせよ、テオドアたちは間一髪、彼女を助けることができた。
――もし、少しでも地上へ出るのが遅れて、冥界への逆戻りを余儀なくされていたら。きっと、ペレミアナは人知れず息を引き取っていた。
最悪の場合は、『最高神』に……考えたくもない。
怖気を感じつつ、テオドアは軽く咳払いをして、「ともかく、分断を目的としているのは間違いないでしょう」と締めくくった。
「それなら、帝国が『最高神』に協力しているのも、間違いではなさそうね。『冥界』ちゃんの神殿に、なにか細工をしていたんでしょう?」
「ええ。ですが、なんの魔術だったかは……」
「状況証拠から判断するしかないけれど、彼らが魔術を行使したあと、不安定な『道』が出現したのよね?」
「はい」
テオドアは、先ほどのことを思い浮かべた。
神殿とは、祀られている神と繋がる大切な場所。ペレミアナが提案した通り、普段であれば、『冥界の神』の神殿から冥界に降りることなど簡単だったはずだ。
しかし、先ほど試したときには、何度か挑戦してようやく道を開くことができた。
なにか原因を求めるとすれば――どうしても、帝国騎士団の魔術に行き着いてしまう。
あとは、と、『安寧』はソファに背を凭せ掛けた。
「『境界の森』で道が開かなかったのは……その、巨大な怪物が関わっていると思うわ」
「僕が初日に見た、毛だらけのあいつですか?」
「そう。いくら帝国騎士団が絡んでいても、あの広大な『森』に魔術を施すのは、不可能に近いでしょうし」
確かにそうだ。ただの人間たちが効率良く、かつたったの数日間で『境界の森』に魔術を掛けて回るのは、まったく現実的ではない。
それに、地上へ上がったとき、周囲に人の気配はなかった。ペレミアナは倒れていたが、彼女以外の人型は皆無である。
――その点、あの巨大な怪物に任せれば、手間も掛からずに済む。『森』の中なので、人的被害はほぼない。
(怪物自身が、冥界を閉ざす魔法を持っているのか……それとも、呪いを撒き散らしているのか……)
テオドアが真剣に考え込んでいると、『安寧』は悲しげに眉を寄せて言った。
「……ごめんなさいね。わたしたちは、あなたに託すことしかできないの。本当はもっと、いろいろとお手伝いをしたいんだけど」
「え、あ、いえ。い、生き返らせていただくこと自体、本来なら禁忌なんですから、それは……」
慌てて顔を上げ、手を振って否定する。既に、破格の対応をしていただいている自覚があればこそだ。
三女神たちがどんなに努力しても叶わなかった「蘇生」。それを、冥界を挙げて、特別に施していただける。これ以上の協力があるだろうか。
冥界は冥界で、いろいろと大変なのだろう。掟やしがらみに縛られて、もどかしい思いもたくさんしているはずだ。
テオドアは、唇を噛んで下を向く『安寧』を、気遣わしげに見つめた。
「その……リュカに聞きました。僕の肉体が戻るまでには、早くて二ヶ月はかかると」
「……そう。リュカちゃんに会ったのね。あの子、昔から、ひとところに留まっていられない権の――性格だから」
今、権能って言おうとしました?
リュカのために誤魔化したのだろうから、敢えてそこには言及せず。テオドアは気まずい雰囲気から逃れるように、陰鬱な庭園へと視線を向けた。
と、『安寧』が静かに呟く。
「『知恵と魔法』ちゃんのことなら、心配しなくても良いわ」
「……なにがですか?」
「前世の記憶があるの、知られたくないんでしょう? わたしや、あなたの前世を知るすべての神は、口止めされているから。あの子に喋ってしまう心配はないの」
「口止め……?」
怪訝に思って問うと、『安寧』はふと立ち上がり、手すりに手を掛けて寄り掛かった。
「『魂の女神』ちゃん。あの子、あなたのこと、ずいぶん心配していたわよ」