170.変わってしまったものたち
「え?」
すぐに否定しなければならなかった。
テオドアは最早、否定する機会を完全に逸してしまった。ほんの一瞬、されど一瞬。動揺が顔に現れたのが、自分でも分かる。
足が鈍りかけるテオドアとは対照的に、ペレミアナの歩みはしっかりとしていた。こちらを見ず、前だけを見据えながら、「さっきのお話で」と言葉を継ぐ。
「少しだけ、考えてしまったんです。もしかしたらって」
「そう……ですか」
彼女に冥界での出来事を話したとは言え、テオドアが「前世の記憶がある」と指摘された部分は端折っている。本筋に関係がないのもあるし、目の前の女神さまにお伝えしたくなかったのもあった。
――いや、もういっそ、言ってしまっても良いのでは?
そう思わなくもないが、ここまで頑なに「記憶はないです」と言っておいて、「やっぱりあります!」と言うのもどうかと思う。ペレミアナからすれば、求めていたときにその事実を知らせて欲しかった、と考えるはずだ。
中途半端な対応はいけない。隠すなら、最後まで隠し通さなければ。
テオドアが返答に迷っていると、ペレミアナはくすくすと笑って、歩調を早めた。
「ごめんなさい。諦めが悪いのは、わたしの悪い癖です。忘れてください」
「……いえ、大丈夫です。今、聞かれるとは思っていなかったので、驚いてしまいました」
「うふふ」
彼女はこちらを振り返り、嬉しそうに口元へ手をやった。
百年前の、書庫に篭りがちだったペレミアナを重ねる。自分も変わってしまったが、彼女も、もうあの時のような振る舞いはしない。なるべく誰とも接したがらなかった、引っ込み思案の彼女はもういないのだ。
いつか、『光の女神』が言っていた。神は長きを生きるがゆえ、数百年を掛けて精神を成熟させるのだと。
たった百年で変化したというのは、それだけ、『番人』の死が彼女に衝撃を与えたということ。
それは、他の二柱も同じだろう。
(記憶があるのを黙っているのは、自分のことを『番人』じゃないと思っているからだけど……それも、単なるわがままなのかもなあ……)
冥界の神々は、テオドアが正規の手続きを経ずに転生した、と知っている。テオドアも、記憶があるということをペレミアナに知らせないでほしい、と口止めをしていない。
このまま冥界へ降りれば、彼女は真実を知ってしまう。頑張って根回しをすることもできるが、それよりも――
「どうしたんですか?」
あまりにも彼女の顔を見つめていたからだろう。ペレミアナは眉を下げ、恥ずかしげにテオドアを見上げた。
いいえ、とテオドアは微笑んで、彼女に追いついた。再び並んで歩き、『境界の森』にいるとは思えないほど和やかな会話をしながら、先行くミシェを追う。
もしもそのときが来たら、彼女の咎めを受け止める。その覚悟はしておこう。
そう思った。
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森の旅路は楽ではなかったが、ミシェとテオドアが順繰りに偵察をすることで、妙な道には迷い込まずに済んだ。
少し高いところがあれば登り、周囲を確認してから降りる。時には、テオドアが魔物たちに感知されないのを利用して、どこにどれだけの魔物がいるのかを確かめることもあった。
この三日ほどで、最も大変だったのは、ペレミアナだろう。
彼女は受肉している上、体力も神気も消耗している。強化されていない身体では歩き通しは厳しい。そういうわけで、陽が落ちる少し前から雨風の凌げる場所を探し、日没から夜明けまでを過ごした。
幸いだったのは、ここに純粋な人間がいなかったことである。神や精霊は神気さえあれば生きていけるので、食べ物の心配はいらない。
だが、それでも、ペレミアナは悔しがった。自分が足を引っ張っている、というようなことをたびたび口にした。
苦労の末、テオドアたちは、どこかの国の国境らしき壁まで辿り着いた。
しかし――門番に頭を悩ませる必要はなかった。壁自体がボロボロに崩れ、門にも関所にも人がいない。何があったかを聞こうと辺りを探ったが、門の向こう側にも人の気配がないので、どうしようもなかった。
「……おそらく、『居住地』を襲った魔物が、この国も襲ったのでしょう。『最高神』の一派が襲わせた、と言うのが正しいのかもしれませんが」
地味なマントで全身を隠したペレミアナは、無惨にも崩壊した壁を、じっと見上げながら言った。
確かに、そちらへ目を凝らしてみると、破壊痕と爪痕がくっきりと残されている。ただ魔法などを打ち込んでも、ああはならないだろう。
「まずは、ここがどこかを知らないといけませんね」
テオドアが隣に並んで同意すると、ペレミアナは視線をこちらへ向け、何故か、気遣うような声音で言った。
「その……これが、テオドアさんの故郷でなければ良いんですけど……」
「えっ? あ、ああ。その……可能性もありましたね」
「はい。お知り合いとか、心配ですよね」
正直に言って、その可能性を忘れていた。
そうか。ここが五つの大国のうちの一国なら……当然、テオドアの故郷であるアルカノスティア王国でもおかしくはない。
あまりにも、故郷としての愛着がないからだろうか。公爵家がどうなっているかも興味がないし、母はどうせ父のもとにいるから探しても無駄だろうし。と、我ながら恐ろしいほど冷静に考えを巡らせた。
せめて、魔力のない一般の知り合いたちに、被害がないようにと願うばかりである。
テオドアは、真剣な面持ちで頷き、女神の慈悲に礼を言った。もちろん、忘れていたという事実は言わずに。
そうして、関所をひと通り――あまり情報は取れなかったが――調べたあと、三人で国境を踏み越える。
壊れた門を通り抜け、道なりに進む。人の気配がまったくない廃墟の群れを横目に、テオドアは、「そう言えば」と口を開いた。
「『冥界の神』さまの神殿は、どの国にも存在するのでしょうか? 特定の国となると、さらに移動に時間が掛かりそうですね」
「は、はい。お父さまは……いちおう、冥界を統べる神なので。司るものが冥界ですから、死を厭う人間には人気がなくて、たいてい辺鄙な場所にありますけど。それでも、大国であれば複数建っていたと思います」
であれば、あまり移動は気にしなくても良いのか。
もちろん、こうして国が荒れている以上――魔物や魔獣、未知の脅威に気を付けなければいけないが。また森を彷徨うよりは、何百倍もマシである。
(でも、死体さえないのは不気味だな……)
こうして街中を歩いていても、壊れた建物は至るところに見受けられるが、人や動物の死体は一切見当たらない。
なにかに襲われたのなら、血痕のひとつもないのは不自然だ。
あらかじめ、襲われることが分かっていて、全員が澱みなく避難した……というなら辻褄が合うが、有り得るのだろうか?
そんなことを考えながら道端に目をやって、ふと、気になるものを見つけて立ち止まる。
何度も風雨に晒され、半ば地面にこびりついている、紙だ。宣伝のためか、号外のためか、大量に印刷されて配られる代物だろう。
軒下にあったおかげで、辛うじて雨に溶けるのを免れていたのかもしれない。
本文は滲んでいてよく読めないが、大文字の題名に、読み取れる限りではこんなことが書かれていた。
我らがヴェルタ国王、崩御。
継承者の第一王子、数日前に肺病により死す。
――と。