167.女神の涙を負う覚悟
咄嗟の『移動』だったためか、城のすぐ近くに出たが、ペレミアナは足も止めずに全力で走った。
異様に静まり返った天界を、追手を気にしつつ駆ける。何度か不可視の攻撃を受けたこともあり、少ない神気を駆使して飛びながら、なんとか『特別居住地』に繋がる門まで辿り着いた。
居住地の様子も、ひどいものだった。
道には人の残骸が転がり、あちこちで火の手が上がって、見たことのない巨大な魔物が死体を貪っている。
曲がりなりにも半神である人々が、必死に抵抗した跡も垣間見えた。だが、なぜか魔物には剣も魔法も効かない――と言うより、通常なら致命的となる傷を受けても生き続けられるらしく。首や手を失っても平然と歩き回る魔物もいた。
壊れた家の瓦礫に隠れ、なんとか生き延びていた者もいたが……自分は、簡単な手当て以上のことができずに、ただ看取ることしかできなかった。
そのようなことを言って、ペレミアナは辛そうに顔を歪め、胸の辺りを押さえるように手をやった。
「普段なら、治癒魔法のひとつくらい、少ない神気でも掛けてあげられたはずなんです。でも、できなかった。今まで普通にできていたことや、いろんな知識が、頭の奥底に閉じ込められて使えなくなってしまったような……」
「……『知恵』と『魔法』が奪われてしまったんですね」
「そうです。本当に、何もできない女になってしまいました」
と、ペレミアナは自嘲気味に微笑む。
彼女は、その生き残りに、『特別居住地』がこうなった経緯を聞いた。生き残りの女性は、自らの時期を悟っていたのだろう。傷が開く、と女神が止めるのも聞かず、瀕死とは思えないほどはきはきと喋り続けた。
曰く、数時間前に突然、魔物の群れが出現して襲ってきた。
半神たちがいくら攻撃しても効かず、どころか、ますます凶暴性を増して暴れ回る。中には、切り落とした手足から再生し、殖えていくものもいた。
住人たちはどんどん敗れ、餌となって死んでいく。
『居住地』に用のあった数柱の神が、慌てて駆けつけてくれたときは、形勢逆転の目が見えたものの――
「……そこに、あの男が現れたみたいです。『秩序の女神』と、あまり見たことのない顔ぶれの精霊たちを引き連れて」
「ルチアノ……の身体を借りた、『最高神』が?」
「そうです。その時は、城を襲った変な男が、『最高神』だなんて知りませんでしたけど……」
男はそのまま、一柱の神の動きを止め、その首をあっさりと落とした。
住人たちには、男がただ、右手を翳しただけに見えたという。刹那の後、相対していた神の首が落ち、石畳に血飛沫が散った。
呆気に取られる住人と残りの神々の前へ、『秩序の女神』が笑みを湛えて進み出た。
――控えなさい。お前たちの前にいるのは、この世界に命を吹き込んだお方。堕落し切ったお前たちを正しにきてくださったのよ。
その後のことは……語られずとも分かるだろう。
逆らう者は『最高神』の取り巻き、とりわけ『秩序』が嬉々として殺した。慈悲を乞うた者は魔物の前に放り出されて喰われた。
逃げた者も、魔物や不可視の攻撃により、どんどんと数を削られる。終いには、誰が生きているか死んでいるかすら分からない状況へ陥った。
神々は、本来の力を出すことができないどころか、逃げ延びることも許されずに殺された。
取り巻きや『秩序』の言動から察するに、『最高神』が神の神気と権能を奪っていると考えて、まず間違いはないだろう。
『秩序』は、惨劇の中で終始、誇らしげだったという。
――わたくしたちの力は、このお方が与えてくださったもの。惨たらしく死ぬのは、我が物顔をして力を使っていた罰だわ。
と。
そうして、生き残りの半神が、ひとしきり喋り終えた後。彼女は、深く長い息を吐いて目を閉じた。
それが、命の消えた瞬間だった。
「わたし……わたしが油断しなければ、あの人を救えたんです」
「……」
「その人を、被害の少ないところに埋葬してから、わたしは地上に降りました。でも、『境界の森』は広すぎて、どちらに行けば国があるのかも分かりません。歩きだけでは、とても、抜け出せなくて……」
自分が恥ずかしいんです、と、ペレミアナは両手で顔を覆った。
――肩が震えている。泣いているのかもしれない。
「わたし、何もできなかった……」
「……そんなことはありません。現に、こうして僕たちに情報をくださっています。貴女さまが逃げることに専念したからこそです」
「でも……やっぱり……」
声はくぐもり、小さくなっていく。遂には、彼女の嗚咽だけが洞窟内に響き始めた。
テオドアはその様子を、何も言えずに眺める。恐らく、隣のミシェも同じだろう。
ペレミアナは、自分を責めている。
実際には、ペレミアナの行動は、完璧とは言えずともよく出来ていたと思う。得体の知れない者から情報を引き出し、生き延びて、テオドアたちに正しい事情を伝えてくれている。
下手に戦っていたら、敵に捕まっていた。気まぐれで殺されていたかもしれない。話を聞くだけでも、たった一人で打ち勝つには、絶対に不利な状況だったと推察できる。
しかし、自分を責めてしまう気持ちも、分かる。
みすみす力を奪われ、救えたはずの命を見殺しにした。神気と権能を奪われたことだけでも、充分に動揺するというのに――畳み掛けるように惨状を見せられれば、精神的に参りもする。
(こういう時、どうお慰めすれば……)
自分に肉体があれば、と思いかけ、即座に否定する。
例え、自分が死んでいなくたって、彼女の自責が収まるわけではないだろう。この場で、どんなにお慰め申し上げようが、畏れ多くも抱き締めて差し上げようが――きっと、ペレミアナの心は晴れない。
テオドアは、俯いて地面を睨んだ。なにか、声を掛けなければならない。が、何を言っても正解ではない気がしてならなかったのだ。
しばらく考え込んでから。
(いや、寧ろ、下手に同情的なことを言うよりも)
と、決意を固め、テオドアは顔を上げた。
後から後から溢れる涙を、必死になって拭うペレミアナに向かい、あえて感情を抑えた声で言う。
「まずは、状況を整理しましょう。お話では、『最高神』に捕まっているのが、『光の女神』さま、『戦と正義の女神』さま、『夢と眠りの女神』さまですね」
「……ぅ、はい……」
「僕たちは、何がなんでも、早急に皆さまを助け出さねばなりません。複数の女神を妻にするなどと言う男のもとでは、どんな扱いを受けるか分かったものではませんから」
若干、自分にも言葉が突き刺さった気がするが。テオドアはそれをいったん棚に上げ、真剣な表情のまま続けた。
「その他にも、僕は、天界や『居住地』、地界にいた友人や知り合いの安否も確認したいと思っています。……不躾で申し訳ありませんが、セラという名の半神のお方の行方は、ご存知でしょうか?」
テオドアは、泣く女神に恐る恐る、気になっていたことを問う。
幸いにも、ペレミアナは気分を害した様子もなく、ただ目を伏せて首を振った。
「確か……その人、テオドアさんの、六番目の奥さんになる、って言っていた方でしたよね。金の髪の……その方の行方も、分かりません」
「……そうですよね。ありがとうございます」
溜め息を吐きそうになったのをぐっと堪え、身を引く。今、ここで溜め息などを吐いたら、ペレミアナを責めているように聞こえるだろう。そう思ったからだ。
テオドアは努めて、表情を変えないようにしながら、「今は比較的、安全な場所にいます」と居住まいを正した。
「時間は足りませんが、話し合わなくては何にもなりません。今、冥界へ戻ることが、なぜかできなくなっていますし……それを解決するためにも」
視界の端で、死の精霊・ミシェが頷くのを捉えた。
彼女にとっては分からない話ばかりだろうが、口を挟まずに聞いてくださっている。ありがたい限りだ。
テオドアは、深く息を吸って、ペレミアナの瞳を見据えた。
「貴女さまの権能が失われていたとしても、考える力まで奪われたわけではないはずです。……僕も、微力ながら意見を出させていただきます。ご安心ください」
せめて、彼女ひとりにすべてを背負わせてしまわないよう、努力をしよう。