166.ペレミアナの身に起きたこと
天界に突如として「彼」が現れたとき、ペレミアナは『光の女神』の城にいた。
城の主たる『光』と歓談をしつつ、侍女として繕い物をする。神とはいえど、今は身分を剥奪されているのだし、家事をするのは嫌いではない。
主に「女主人」の身繕いをするのを好む『夢と眠りの女神』と、侍女というよりは警護のような働きをする『戦と正義の女神』とは、特に話し合わずとも役割分担ができていた。
初めに異変に気付いたのは、やはり『戦と正義』である。
居城の周辺を巡り、少し遠くの敷地内ぎりぎりまでを見回っていたところ、天界の中心部辺りに尋常ならざる閃光が見えたという。
彼女はすぐに『光』へ報告し、『光』も彼女を伴って様子を見に行くことにした。彼らが城を出てしばらく経ったあと、『夢と眠り』が「様子を確認しがてら軽食を届けてくる」と言って、二人の後を追った。
そうして、城には、数少ない精霊使用人と、ペレミアナだけが残った。
――いくばくもしないうちに、精霊たちが突然倒れた。
なにをされたわけでもなく、ただ一人の人間が近くに来ただけで、ばたばたと倒れていく。ペレミアナは窓越しに、城へ続く小道を歩き、警護の精霊が倒れる最中に悠々と侵入を果たす男の姿を見た。
見覚えがある。実際に会ったことはないが、映像越しに眺めたことがある。
元〝依代〟候補の、ルチアノ……だったか。
現〝依代〟のテオドアとは、最後まで〝依代〟の座を争う仲だった。互いに尊重し合い、競おうとはするものの蹴落とすことはしない。そこまで候補者選びに興味のなかったペレミアナにとっても、よく印象に残る人間だった。
とは言え、彼は既に候補者ではなく、一介の人間として日常に帰っているはずだ。
そんな者が、どうしてここに。
ルチアノは無防備のまま城に踏み入り、道中の精霊を倒して、あっという間にペレミアナのもとへ辿り着く。
その間、ペレミアナも、なにもしていないわけではなかった。倒れた精霊を介抱し、少しでも逃がそうと駆け回っていた。そんなペレミアナを、いとも容易く見つけ出し、ルチアノは微笑んだ。
ちょうど、窓から自然光が差し込む廊下で、二人は相対していた。
「……どうやって入ってきたんですか? ここは……いえ、天界は、普通の人間には入れないはずですよ」
「人間? はは、笑わせてくれる」
警戒して身構えるペレミアナに、ルチアノは微笑みを絶やさず皮肉げに言う。その挙動があまりにも不自然で、ペレミアナは、眉をひそめて彼を注視した。
その視線に気付いているのか、ルチアノは悠然と腕を組んだ。
「俺は元〝依代〟候補だぞ。もともと、この肉体は丈夫だ。天界に入っても潰れないほどにはな」
「あなたは……」
誰だ、とも問えず、ペレミアナは口籠もる。
普段の彼を知っているわけではない。『真実の神』が記録した映像越しに、彼の姿を追ったことがあるだけ。それも、あの時は候補者選びにまったく関心が持てず、いかにして愛する人を甦らせるかに気を取られていた時期だった。
しかし、違和感は拭えない。こんなふうな振る舞いをする人だったのか? それとも単に、あの場では態度を取り繕っていただけ?
沈黙するペレミアナに、「ルチアノ」は右手を広げ、饒舌に語り出した。驚くことに、彼は武器をひとつも持っていなかった。
「――聡明な君なら分かるだろう。何せ、知恵と魔法……この世を支えるものを司っているのだからな。君は、天界や地界の者たちが、著しく劣化していると感じたことはないか?」
「……劣化」
「そう。君は『大戦』前を知らない。以後に生まれた劣化後の神だが……千年前にいたとしてもおかしくはない実力を有している。褒めてやろう」
「あなたに褒められるようなことは、していません」
硬い声で言葉を返したが、相手はまったく気にしていない。
こちらを脅威とも思っていない。それが態度から滲み出ていた。
「たったの千年。千年でここまで変わってしまった……実に嘆かわしいことだ。俺も、こんな人間の器を使わなければならないくらいには弱り、落ちぶれてしまった。世界が堕落し、歪みきっているのも無理はない」
「何を……」
「感じたことはないか? 自分と周りが、あまりにも違うと。君が軽々とこなせることを、同年代の神は百年経ってもできない。『大戦』前から生きる神は平和に腑抜け、研鑽を怠っている……それを、恥とも思っていない。愚かで無為な存在であると」
「……」
ない。とは、言わない。
生まれてから百年ほどは、冥界で生きていた。父や母の仕事を手伝い、たまに来る他の神々に遊んでもらい、楽しく過ごした。周囲の神々がみな『大戦』前の神であったことは、ペレミアナにとって幸運だっただろう。
あるとき、「君の居場所はここではない」というようなことを母に言われ、そんなものかと天界へ昇った。確かに、あのまま冥界に勤める神として存在するのは、どことなく違和感があった。
しかし、新天地も、それほど良いものではなかった。
ペレミアナは常に周囲から浮いていた。神々の話題と言えば、誰を好いた振った寝取ったと、下世話な話ばかり。
悪い者たちではないからこそ余計に、彼らのノリについていけないことに悩み、前から好きだった読書にますますのめり込んだ。
そのうち、外見の成長が止まったペレミアナに、ひっきりなしに恋の誘いが掛かるようになる。夜這いをかけてくる者もいた。
穏やかな誘いは穏やかに断り、夜這いなどの実力行使には実力で打ち勝った。
純潔は守り続けたが、あまりにも多い誘いに精神が擦り減り、辟易したのを覚えている。
――どうして、わたしを放っておいてくれないんだろう?
そういうのが好きな人同士で、勝手にやってくれていれば良いのに。わたしはみんなに関わってないのに!
どうして、あんなに弱い神が、わたしに釣り合うなんて思い上がれるんだろう!
あのときより少しだけ大人になったペレミアナは、もうそんなふうには思わない。だが、あのときは今よりも若く、周囲との関係に疲れ果てていた。
後に、同じように周囲に馴染めずにいた女神二人と知り合い、親睦を深めたあと、共に地上へ降りた。
面と向かって聞いたことはないが――禁忌に手を出せるほどの実力を持った二人だ。ペレミアナが感じたような「周囲とのズレ」を、彼女たちも抱えていたのかもしれない。
咄嗟に返す言葉が見つからずに、ペレミアナは拳を握り締めた。その様子を、「ルチアノ」は再び腕を組んで壁に寄りかかり、愉しげに眺めていた。
……値踏みされている。
ペレミアナは直感した。
無防備な侵入者を前に、どう振る舞うかを見定められている。異変を察したときに逃げなかったのは……倒れた精霊たちをどうしても見捨てられなかったためだ。
だが、そうも言っていられない。ペレミアナは、慎重に問いつつ、逃げる機会を伺い始めた。
「……異様な光の正体は、あなたですね。なにを起こしたのかは知りませんが、『光の女神』たちを誘き寄せたのも、作戦のうちなのでしょう」
「はは、やはり賢いな! そうだ。俺が天界へ帰還するのに、地味ではいけないと忠告する者がいてな。ついでに、何人かの女神を誘き寄せられないかと思った」
そう言って、「ルチアノ」は窓の外を見た。
釣られてペレミアナもそちらを見て、驚く。先ほどまで何もいなかった窓の外に、女の姿があったからだ。
『秩序の女神』。この数日間、裁判で世話になった女である。
彼女は、音もなく窓を開けると、こちらには目もくれずに「ルチアノ」の胸へ飛び込んだ。
「ああ、こちらにいらしたのね。やっと見つけました、わたくしの魂。何よりも尊いお方」
「君はどうせ、なにも言わずとも俺を見つけ出すだろう」
「ええ、ええ。そうよ。わたくしから逃れられるとは思わないことね」
短いやり取りで、察する。此度の異変は『秩序の女神』の手引きによるものだと。なぜかは分からないし、何の目的かも不明だ――と言いたいところだが、それもなんとなく察しがついてしまった。
あの声、あの態度。彼を見上げるうっとりとした瞳。
『秩序の女神』は、彼を愛しているのだ。
当の「ルチアノ」は、少しの間、『秩序』の抱きつくままにさせていたが、すぐに離れた。そうして、ペレミアナに向き直る。
「君の推察通り、『愛の』――今は『光』か。その女神を捕らえた。『戦と正義』と『夢と眠り』だったか。あの子たちもいる」
「何のために」
「何のため? 俺の妻にするためだが」
途端、ペレミアナの全身に悪寒が走った。
値踏みする視線には、そちらの意味もあったのか。自分の妻として迎え入れても良い女かどうか、じっくりと吟味していたのだ。百年前にはさんざん晒されていた視線に、最近はどうにも鈍くなっていた。
一歩、後ろに退がる。「ルチアノ」はにこやかに続けた。
「この世界も、少し手を加えただけで直るものなら、そうしたかったんだが。千年の歪みはどうしようもない。一度、真っ新に壊して造り直す。簡単なことだろう」
「貴方の創造を、この目で拝することのできる光栄。『大戦』で消えていった同胞たちも喜ぶでしょう」
『秩序』の賛美を、「ルチアノ」は頷きひとつで受け流す。
ペレミアナは、不快感を飲み下しつつ、口を開いた。
「造り直した後には、神も何もない。お眼鏡に適う女神に子を産ませて効率良く増やす。そして世界をあなた好みに動かす……そういうつもりですか?」
「その通りだ。君にも、悪い話ではないだろう? ――君たちの伴侶となるべき男は、この器が殺したのだから」
「!」
はっと息を呑む。だが、その言葉をよく理解する前に、「ルチアノ」が動いた。
初めて、表情にわずかな嫌悪を滲ませた彼は、『秩序』の手を取って、空いた右手をこちらへ翳した。何かをされる、と咄嗟に悟り、ペレミアナも動く。
「――あの忌々しい男などより、俺の方が優れている。君も、じきに忘れるだろう」
曲がりなりにも魔法を司る女神である。ペレミアナは、自らの神気が奪い取られ、あろうことか頭にぼんやりと靄がかかっていくことに気が付いた。――生まれたときから持っているあらゆる知識を、すんなり取り出せなくなっている。
これは、神気と権能の強奪か。
だとしたら、権能のない精霊が対抗できないのも頷ける。『光の女神』たちも、この手段で不意を突かれたのだろう。
「さあ、大人しく……」
「ルチアノ」が、優しく語り掛けてくる。もうこちらが抵抗できないと、確信しているようだ。
だが、ペレミアナは、諦めなかった。
失われつつある神気を掻き集め、ありったけを――話の最中にこっそり床へと刻んでいた魔法陣に注ぐ。
『秩序』が気付いて止めようとするが、もう遅い。
ペレミアナは、完成した『空間移動』の魔法陣で、なりふり構わず、その場から逃げ出したのだった。