165.即席受肉の弊害
『知恵と魔法の女神』・ペレミアナは、仄明かりの中で薄目を開いた。
全身が重い。手足を動かすのがやっとだ。だが、徐々に頭が冴えてくると、気怠い身体に鞭を打って起き上がる。
「は、早く逃げなくちゃ……!」
上半身を起こしてから、ようやく周囲を見る余裕が生まれた。最後に意識を失った場所は、確か森の中だったはずだ。
それなのに、今、ペレミアナは洞窟の中にいる。注意深く辺りを見渡せば、薄暗い中に松明の明かりが揺れ、自分の身体の下には草が敷かれていることに気がつく。
おかしい。いったい誰が、こんなところへ運んで来たのだろう。
ペレミアナが怪訝に思っていると、入り口に向かう穴の方から、小さな影が姿を現した。
「あの……お嬢さま……」
「ミシェ!」
ペレミアナは安堵の声を上げた。
気まずそうに目を逸らしているのは、死の精霊の一人。ミシェという名の少女である。
彼女は、ペレミアナとほとんど同時期に発生した精霊だ。幼いころからの仲であるため、彼女が助けてくれたのなら憂いはなかった。
しかし、ミシェは、なにか物言いたげに口元を動かし、視線をうろつかせた。小さな手をぎゅっと握り合わせ、「ご、ごめんなさい」と呟く。
「あの……ぼ、ぼくたち、お嬢さまが受肉なされていないのを見て……強引に、受肉させてしまったんです」
「えっ? そんなこと、できるんですか?」
確かにペレミアナは、受肉せずに天界から逃げ出してきた。
状況からして余裕がなく、神気もほとんど失われていたため、儀式を行えなかったのである。
そのせいで、数日間を地上で彷徨い歩いたペレミアナは、ただでさえ少ない神気を過剰に消費される状況を、どうすることもできずに倒れた。正直に言って、二度と目覚めないことを覚悟したくらいである。
ミシェは黙って首肯すると、自らの背後を振り向いた。
もう一人、洞窟の奥に入ってきた者がいたからだろう。
「……! テオドアさん!」
「お久しぶりです。女神さま。その……ひとまず、無事にお目覚めになられたようで何よりです」
普通の神ならば見えなかった。しかし、父親から直接、「魂の形を見る」術を学んでいるペレミアナには、彼の姿がくっきりと見えていた。
彼が殺されたらしいことを、ペレミアナは知っている。二度目の離別に嘆く暇もなく逃亡していたが、こうして魂だけのテオドアに会ってしまうと、本当なのだという実感が胸に押し寄せる。
目に涙を浮かべ始めたペレミアナに、何故かテオドアも、気まずそうに言った。
「ええと……僕たち二人では、不完全な受肉になってしまって。本当なら、天界で儀式をしなければいけないんですよね」
「ぐすっ……そ、そうです。地上でわたしたちを受肉させるには、『〝依代〟候補選定』の時みたいに、とてつもなく大掛かりになります」
ペレミアナは肯定を返した。
だが、テオドアはますます微妙な表情になって、「申し訳ありません」と謝罪を挟む。
「儀式の不足に加えて、仮の肉体も、満足のいくものをご用意できず……そのような事態に」
「そのような?」
「ミシェさま、鏡をお見せできますか」
ミシェは神妙に応じ、黒いドレスの裾から手鏡を引っ張り出した。彼女が近寄って手渡してくれるのと同時に、テオドアも松明を持ってペレミアナを照らす。
ペレミアナは、不穏なものを感じて、恐る恐る手鏡を覗いた。
見慣れたいつもの顔。眼鏡は掛かっていないが、今まで寝ていたペレミアナへの配慮だろう。なんだ、何も変わらないじゃないですか、と、肩の力を抜く。
ぼんやりとしか見えない鏡像を、そのままじっくりと眺めて――違和感を覚えたペレミアナは、顔をあらゆる角度に傾けてみた。
そして、頭にありえないものがあるのを見咎め、引き攣った悲鳴を上げた。
乱れた深青色の髪に紛れて、すぐには分からなかったのだ。
顔の側面についているはずの耳は見当たらず、その代わり、頭の上に「三角の獣耳」が生えていたのである。
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どうしてこうなったかと言えば、ひとえに「実力不足」である。
もちろん、たった数時間で、天界や神殿の儀式を模せるはずがないのは、分かっていた。加えて、儀式に必要なものも圧倒的に足りない。
死の精霊――ミシェと言うらしい――が説明してくれた一部だけでも、天界の泉に浸した剣やら純金の木に成る果実やら、入手不可なものが多かった。
しかし、悠長に集める暇はない。女神の命は、刻々と消滅に向かっている。
そこで二人は、〝魂を損なわない程度に〟儀式を簡略化することにした。
手に入らないものは、もっとも近いであろうもので代用していく。幸いにも、ミシェは死の精霊だ。魂が損なわれないぎりぎりのところを検討することができた。
だが、最も入手困難である「仮の器」は――この『境界の森』に、都合良く人間の死体など落ちているはずもなく――
「……見つけた中で、いちばん当たり障りのない形をした魔獣の亡骸を、人の形に整えて……儀式を行いました。しかし、その……御耳だけはどうにもならず……」
テオドアは、洞窟の硬い地面に直接座り、俯いて事情をご説明する。
とても顔を見て話すことなどできない。不恰好な受肉の儀式の末、あろうことか女神さまに魔獣でできた肉体を使わせることになるなど。
テオドアの隣で、ミシェも身を縮こませて座っていた。
「大変、申し訳ございませんでした。お命に危機があったとは言え、このような……」
「……いえ。大丈夫です。顔を上げてください」
言われた通りに顔を上げると、『知恵と魔法の女神』は、微笑んで言った。
「あのままでは、本当に、わたしの命が危ないところでした。どんな形であれ、わたしを救ってくださったのですから……ありがとうございます」
「女神さま……」
「それに、もう一度、あなたに会えました」
彼女は、まだ本調子ではないのか、背を洞窟の壁に預けて座してはいるが……肌は本来の血色を取り戻しつつあった。
しかし、やはり、耳が本来のところにないのが、気になってしまう。テオドアは極力、頭の上に目を遣らぬよう注意をしながら、『知恵と魔法』の顔を見つめた。
そして、一度山の上に戻ってから今までのことを、掻い摘んで説明する。殺されて冥界へ行き、『魂の女神』や『冥界の神』たちに会ったことも。
『知恵と魔法』は、一度だけ「お父さまが……」と呟いたきり、他は黙って話を聞いていた。
話を終え、テオドアがひと息つくと、彼女は静かに口を開く。
「……今からどこかの国に行っても、たぶん、何も見られないでしょう。どこも、今は大混乱しているはずです」
「大混乱……?」
「この十日ほどで」
と、『知恵と魔法』はいったん言葉を切る。天井を見上げ、深く息を吐いてから、目を閉じた。
「――世界は変わりました。お話を聞く限り、変わっていないのは冥界だけ、だと思います。天界も、地界も、ぐちゃぐちゃで……」
「それは、ご復活……なされたという『最高神』さまの手で?」
「はい。わたしは初めてお会いしましたし、その……人間の器を借りていらっしゃったので、本物かどうかは判別がつきませんけれど」
どこからお話ししましょうか。
わたしが、天界から地上へ逃げてきたきっかけから、にしましょう。
――あなたが殺されてから、おそらく、そう時間は経っていない時だと思います。天界にいた私たちの前に、『秩序の女神』を伴って、彼は現れました。
そして。
「あらゆる神の権能と神気を、文字通り根こそぎ奪ってしまったんです」