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163.行き倒れ

「え? だ、抱き締める?」


 聞き間違いではないかと、テオドアは怪訝に問い返す。だが、死の精霊は羞恥から涙目になりながらも、何度も頷いた。


「あ、あの、あの! じ……実際に、『死の精霊』を口説き落として地上に戻った人が、いて! ぼ、ぼくじゃなくて、ぼくの先々代の知り合いが被害に遭って!」

「は、はい。大丈夫です。誤解はしていません」

「そ……その男によると、『死の精霊』は、この世で唯一、自由に冥界と地界を行き来できます。それと同じ、もしくは属する存在だと思わせれば良いんだそうです」


 なるほど。つまり、冥界全体を〝騙す〟わけか。

 死の精霊に類する存在だと誤認させられれば、冥界の罠も発動せず、地上への道も素通りできる。いちいち妨害されていては、精霊も仕事にならないからだ。

 す、すごく密着していれば、あなたはぼくの「付属品」って判定になります! と、死の精霊は力強く言った。


「……ちなみに、その、口説いた人は、死の精霊と恋仲になったのですか?」

「は、はい。生前も、ものすごくモテていた男の人だったようで……。担当の女性精霊が、見事に落とされてしまったと……聞きました。あの……三年くらい愛を育んでから、もろもろの道具とかを盗んで逃げ出して地上に……」

「うわあ……」


 三年も騙していたとは。地上まで苦もなく逃げられたのを聞くに、愛を育む過程で、「死の精霊に類する存在」だと認識されるほど魂が変容していたのだろう。

 そんな状況なら、地上に戻っても、上手くいかなかったと思うのだが。

 とは言え……魂を無理に転生させようとせず、死の精霊との関係を温かく見守っていた冥界の人々からすれば、これ以上ない裏切りだったはずである。


「その人、結局は捕まったんですよね? どうなったんですか?」

「え? あ、そっか……ええと。あなたはもう、あ、会っているはずですよ」


 思い当たる人物がおらず、テオドアは首を捻って考える。

 死の精霊が、ひと呼吸置いて告げた。


「渡し守……です。川の。あ、あの人は、罰として、転生を禁じられて、魂が擦り切れるまで働かされることになりました」

「……それって、何年前に決まった話ですか?」

「ええと、ご……五千年くらい前です」


 と言うことは、彼は五千年もの間、あの川で魂の運搬だけをさせられていることになる。

 テオドアは、彼とわずかだけ相見えた時のことを思い返した。恐ろしく無機質で、淡々と業務をこなしているだけの存在だった彼からは、元人間とは思えないおぞましさを感じた。

 長年の罰で魂が擦り切れているからか、それとも、冥界の者と逢瀬を重ねることで変容してしまったからか――理由は分からない。

 ただ、まあ、やっぱり、神さまや精霊を怒らせるものではないな、と思う。


 テオドアは、「分かりました」と噛み締めるように言って、腕を広げたままの少女をひょいと抱き上げた。


「あ、えっ?」

「行きましょう。降りてきた時と同じ道を辿れば良いんですよね?」

「え……あ、う…は、はい……」


 顔を赤くして固まる死の精霊に、テオドアは小さく詫びた。どう見ても他者に慣れていないお方に、いきなり触れてしまったことへの謝罪だった。

 だが、こちらが躊躇したままでは、羞恥心は増大するばかりだろう。余裕のある態度を見せなければ、と己を奮い立たせる。


「しっかり掴まっていてください」

「ぅ……はい……」


 細い腕が、恐る恐るといったように、テオドアの首元に回される。テオドアは彼女を一度抱え直すと、道を聞きながら冥界の門まで歩き続けた。


 道中は、もちろん、道案内以外のことでも言葉を交わした。

 冥界の門は、人間の営みから遥か遠い場所に出る、ということだけ決まっていて、どの地点に出られるか……詳しい位置は分からないらしい。

 たいてい、『境界の森』に出るんですけど。と、少女は小さな声で言った。


「ああ、なるほど。『森』は人の営みから最も遠い場所にありますからね」

「で、でも。い……今のあなたと同じように、ぼ、ぼくも、魔物にも感知されませんから、危険はありませんよ。……ほとんど、魂のみの状態に近い肉体ですし……」

「へえ……」


 そういえば、天界の神や精霊も、受肉しなければ下界で効率よく動けないのだと聞いたことがある。冥界の者も、「死の精霊」以外、誰も気軽に地上へ出られないのは、そういうことらしい。

 他にも、少女がほとんど、テオドアの事情を知らされていないことを聞いた。

 なんでも昨日、突然『魂の女神』に呼び出されて、こう言われたのだとか。


「この前連れてきた魂、本当に特別だから、話し合って生き返らせることにした。それまでの間、地上を見せてあげて。代わりに、追加で休日をあげる」


 ――もちろん、これは死の精霊の意訳で、本当は訳の分からない言葉を連ねていたのだろう。だが、そんなようなことを言ったのは確からしい。

 テオドアは、追加の休みに頬を赤らめて喜んでいる少女を、微笑ましく眺めた。だいぶ緊張もほぐれているようで、こちらも嬉しい限りである。

 そのまま、何に邪魔されることもなく進み――例の渡し守の前を通って――冥界の門へと辿り着いた。

 幻影も、罠も、まったく作動していない。


「す、すみません、もうちょっと、前に出てください」

「こうですか?」


 腕の中で少女が動く。テオドアが一歩前に出ると、彼女は片手を伸ばして門の表面に触れた。

 軽く押すような仕草をした途端、重い音を立てて、ゆっくりと門扉が開いていった。

 少女の、黒々とした大きな目が、こちらを見上げる。


「い、行きましょう。こ……こ、今度は、うるさい声も聞こえないと思います……」


 その言葉通り、行きにはあんなにうるさかった暗い坂は、不気味なほどに静まり返っていた。

 両脇の鉄格子もそのままだが、あちらからは物音ひとつ響いてこない。〝何〟がいるのかも不明で、坂にはテオドアの足音だけが反響するばかりだ。

 ただ、行きに感じた不快な感覚が――無数の目にじっとりと見つめられているような感覚だと分かり、にわかに空恐ろしさが増す。

 さすがに慣れているのだろう、少女は平然としていた。緊張するテオドアの顔を伺いながら、小声で地上までの距離を教えてくれるくらいである。


 どれくらい歩いただろうか。

 息の詰まりそうな坂を上り切り、遂に、地上へ出た。


 テオドアが地に足をつけた途端、背後から空気を吸い込むような音が聞こえてくる。振り返ると、冥界への入り口が音を立てて縮み、すっかり口を閉じて消え失せたところだった。

 あとには、何の変哲もない森の風景が広がっている。


「……ここは、『境界の森』ですね」

「そ、そうです、ね。でも……どこの国がいちばん近いのかは、分かりません……」


 木々の陰鬱さを見て当たりをつけたが、どうやらその通りらしい。

 テオドアは少女をそっと下ろす。彼女は、何度か確かめるように地面を踏み締めてから、周囲を見渡した。


「ここから、ど、どうしましょう。ひとまず……人のいるところへ行って、観光を……?」

「そうですね、――っ!」


 テオドアは口を閉じ、耳を澄ました。

 声が聞こえたのだ。

 もちろん、テオドアや少女のものではない。女性の、ほんの小さな声だった。

 だが、確実に、どこからか聞こえてきた。


 急に言葉を切ったテオドアを、少女が怪訝そうに見上げる。テオドアが身振りで「何か聞こえた」と伝えると、すぐに納得顔に変わった。


「すみません、人の声です。探しても良いでしょうか?」

「は、はい。大丈夫です……こんなところにいるなんて、よほどのことだと思いますし……」


 その通りである。

 『境界の森』に――しかも、国境も近くなさそうな場所で、人の声がする。馬車で移動している気配もなさそうだ。となれば、声の主は退っ引きならない状況であると考えて、まず間違いはないだろう。

 二人は、慎重に周りを窺いつつ、背の高い草や垂れ下がった木の枝を掻き分けて、出どころを探った。

 五分ほど経ったころだろうか。少女は額の汗を拭いながら、近くの木の幹に寄りかかろうとする。


「見つかり、ませんね。いったい……きゃあっ!」


 何かに躓いたらしく、奇妙な体勢で倒れ込む。慌てて駆け寄ったテオドアは、少女へ手を差し伸べて――息を呑んだ。

 見間違えるはずはない。

 

 そこには、『知恵と魔法の女神』が、蒼白の肌に大汗をかいて、ぐったりと倒れ込んでいた。

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