162.最善の選択
記憶のないテオドアは、決して悪人ではなかった。
だが、記憶がある「今」のテオドアより、少しだけ卑屈で、少しだけ卑怯で……ほんの少しだけ、視野が狭かった。
それだけのわずかな違いだが、日を経るごとに、相違は大きくなっていく。
公爵家では、変わらぬ辛酸の日々を送る。〝依代〟候補に選ばれたのも、『光の女神』と少し仲良くなるのも同じ。
だが、他の候補者からの印象は、軒並み最悪だった。あのルチアノ王子からも、だ。
理由は些細なことかもしれない。卑屈な物言いが癪に触ったとか、実力がないのを小狡い手で補おうとする姿勢を嫌悪されたとか、人の話をちょっと上の空で聞いてしまう癖に引かれたとか。あるいは、そのすべてが複雑に絡み合って、なんとなく合わないと思われたか。
――前世の記憶がないテオドアは、等身大の少年だった。だから、自分が疎遠にされる明確な理由を探ることができなかった。
たった一人でも〝依代〟を勝ち取る手腕は、さすがと言ったところだろう。記憶があろうがなかろうが、結局は人間としての最高位に上り詰める運命だったのだ。
怪鳥の、割れた二つの卵をそのままにしても。
ネイを口八丁で丸め込み、『光の女神』への橋渡しと引き換えに協力を取り付けて他三人の裏をかき、戦わずして『第二の試練』を合格しても。
上手く扱えるようになった魔力に物を言わせ、「悪竜」を殺したあとに無理やり国を建て直しても。
神々は、テオドアを〝依代〟に選んだ。
しかし、『光の女神』との仲は、それ以上は進展しなかった。
怪鳥の雛を助けていないため、自分の異様な治癒魔法に気付くこともなく。『第三の試練』から早く帰る手段もないため、『知恵と魔法の女神』に出くわすこともなく。
アルカノスティア王弟と、公爵家第一夫人とその息子たちの企みも存在せず。ヴィンテリオ公爵が家に戻ってくることもなく。テオドアが三女神に見つかることも、終ぞなかった。
損害を被る人間がほとんどおらず、「今」のテオドアより格段に良い立ち回りができている。
……と思いきや。
対人関係が上手くいっていなかったからか、最終的には〝依代〟として殺される直前に、ルチアノの手によって命を絶たれた。
この世界では特に友情を築いていない。さぞ殺しやすかったことだろう。
「し、素人は、ふ、ふ、不幸な未来を知ったときに、直接の原因だと思う行動だけ、改める。でも、み、未来は、無数の選択の末に到達する。小さな不幸を回避して、と、取り返しのつかない悲劇にぶち当たるのは、よ、良くあることだ」
だから、おれの「予言」は当たるんだ。昔はもうちょっと、曖昧な言葉で濁してたからな。どんなに目の前の悲劇を変えようとしても、ちょっと行動を変えたくらいで、大まかな未来は変わらない。
そんなことをつっかえながら話しつつ、『予言の神』は凶悪に笑った。おそらく、彼の素の笑顔がそれなのだろう。
「おまえが、辿ってきた人生は、上出来だ。な、なんてったって、死の未来を二年も先延ばしできた。ほ、ほ、誇っていい。普通は、願ってもできない」
「……そう、ですか」
テオドアは、小さく頷いた。
辿るかもしれなかった未来へ、静かに思いを馳せる。
記憶がある「今」のテオドアが辿ってきた人生。大まかな流れは変わらないが、本来のテオドアよりも多くの犠牲を払った。
それでも、『予言』から見れば、犠牲を出したテオドアのほうが上手くいっているらしい。あらゆる選択の先にある未来を、上手く作り上げることができたのだろう。
なるほど、だから、冥界の神々は自分を特別扱いしてくださるのか。と、納得する。
未来を大幅に変えた実績があるなら、今度も変えてくれる、という期待があるのかもしれない。
疑問はまだあったが、テオドアはいろいろと考えた末、もうひとつだけ聞いて終わることにした。
「……僕がどんな結末を迎えるか、もう、貴方さまには見えているのですか?」
すると、『予言』は何故か、心底嬉しそうに答えた。
「ま、ま、まったく。まったく見えない。だから、これからどんな生き方しようが、お、おまえの自由だ。誰にも、何にも、縛られない。おれが、ほ、保証してやる」
これほどまでに頼もしい保証はないだろう。
テオドアは、少し微笑んで、「ありがとうございます」と返した。
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数日の後、テオドアは、『冥界の神』に地上へ行く許可を願い出た。
残してきてしまった人々の安否確認が最優先。地上が今、どうなっているのかを見るのがもうひとつ。
それに加えて、復活しかかっているという『最高神』がどのような人物なのか、自分の目で確かめてみたいのもあった。
――『最高神』がどんな存在だったか。詳しく聞けば答えてくれそうな方は、たくさんいた。『冥界』も『安寧』も『予言』も、隠し事をしたり欺いたりする方々ではないだろう。
だが、それでは、実感は得づらい。
直接、『最高神』にお目見えできないことは分かりきっている。『秩序の女神』があらゆる者を協力させ、『最高神』に――その器たるルチアノに他者を近付けさせないよう守っているはずだ。
それでも、見えてくるものはある。テオドアは、深く確信していた。
『冥界の神』の許可が得られ、お目付役と引き合わされる。
誰あろう、「死の精霊」の少女だった。
「あ、こ……こんにちは。ぼ、ぼくなんかが案内になるの、不本意でしょうけど……」
「い、いえ。こちらこそ、先日は失礼な態度を。それに、お仕事もあるでしょうに」
「ああいえ、ぜんぜん、ええと……これもお仕事になりますから。この前のことは、事情も聞いたので、もう気にしてません……」
などと、お互いに腰の低いやり取りを交わした後。
死の精霊――あの大きな鎌は持っていなかった――は、真剣な顔で説明を始めた。
「まず、死んだ人の魂が地上に上がるのは、想定されていません。……死は、不可逆なので、その……冥界の作りからして、そうなっていないと言いますか」
死を認められず、地界に戻ろうと足掻く者は、一定数いる。たいていの人間は、錯乱して逃げ出すくらいで、死の精霊一人でもすぐに捕まえられるほどだという。仮に取り逃しても、ほとんどは門に至るまでのさまざまな罠にかかって捕まるのだとか。
ただ、いつの世にも、頭の回る者がいる。彼らは策を弄し、冥界の者を欺いて地上へ行こうとするのだ。
その手法は、未だに冥界では語り草になっているという。
「こ、今回は、冥界に降りるときに、いろいろと手順を踏んでいたので……その手段が使えます。それで、あの、ほんとに、ほんとに、申し訳ないんですけど……」
「はい」
すると、少女は、恥ずかしげに下を向いたまま、自らの両腕を広げた。
「ぼくを、いったん、抱き締めてみてくれませんか?」