159.冥界巡りと『安寧』
今の世界は、重要な支柱が失われた家と同じである。
そのようなことを、『冥界の神』は言った。
「『最高神』とは、単なる王や皇帝とは異なる。文字通り最高位に位置する神であり、世界のあらゆるものを下支えする存在だ。〝依代〟だけで千年を繋げてきたのは、とんでもなく不安定で危うい賭けを、綱渡りで続けてきたようなものだった」
つまり、『最高神』を復活させるのは理に適った行為、ということだ。
確かに――と、テオドアは思い返す。神にも扱い切れない『最高神』の権能を、ただ魔力が多く耐性があるだけの人間が担って、歪みが生じないわけがない。
百年ごとに代替わりするとは言え、その移行にだって失敗の危険が付きまとう以上、完璧な制度とは言えないだろう。
あくまでも、〝依代〟は代替品。『最高神』には、決して成り得ない。
「でも……それなら、神々としては、喜ぶべきことではないのですか?」
自身の事情と気持ちをいったん傍に置き、テオドアは疑問を口にした。最高神が復活し、不安定で危うい世界が一新されるのなら、神々は歓迎しそうなものだが。
だが、二柱の表情は芳しくなかった。微妙な顔を見合わせてから、再びこちらを見る。
「――復活する『最高神』は、世辞にも、良い存在とは言えない。『大戦』後に生まれた神は預かり知らぬことだが、我らは彼奴の凶行を覚えている」
「せ、戦争が始まる直前なんか、酷かったよな。く、く、口答えした『正義の神』を、僻地の洞窟に幽閉して、信者を、一人残らず、みな、皆殺しにしたりしてさ」
『正義の神』とは、『大戦』にて命を落とした神である。だが、彼らが言うには、それ以前から『最高神』と諍いがあったらしい。
彼がどういった立場で戦争に参加したかは、分からない。しかし、往時には『最高神』をも裁ける立場にいた彼が、横暴に振る舞うようになった『最高神』を疑問視していたのは確かであるようだ。
『予言の神』は、嫌そうに唇を歪ませた。
「どんどん、増長して威張ることを、ちょ、調子乗ってるって、言うんだろ。姉か妹か分からないけど、自分の、双子の姉妹を娶ろうとして、か、返り打ちに遭ってさ。あれ、絶対、自尊心が、き、き、傷付いてたよね」
「そうだな。わしはその場にいたわけではなく、伝聞でしか知らんが――お前は、『大戦』に至るまでの事情を知っているか?」
『冥界』に話を向けられたテオドアは、自信なく頷いた。
「はい。その……『光の女神』さまから、簡単な事情を伺っただけですが……」
「ああ、確か、かの女神もお前と懇意の仲だったな」
彼は納得したように言うと、不意に足を踏み出した。裏庭には、低木や花々に紛れて、最低限の整備がされた小道がある。
その道を少し行ってから、『冥界』はこちらを振り返った。
「立ち話だけでは面白くあるまい。この機会に、冥界を案内してあげよう」
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普段、『冥界の神』は、川の向こうの〝裁きの間〟にて、魂の選別を行なっているという。
生前の罪を測り、無罪もしくは微罪であれば、簡単な手続きを経て転生。罪を犯した者は、その重さの程度に応じた『地獄』に落とされる。決められた期間、罪を贖ったあと、再び冥界に戻ってきて転生が許される。
テオドアは、死者ながら、『冥界』の案内で各地を巡った。地獄には行かなかったし、行きたいとは思わなかったが、それ以外の場所の見学は許された。
川を渡れば、初めに死者の記録をする神のもとへ連れて行かれる。彼はあらゆる魂が何度転生したかを、ひとつ残らずすべて記憶しているらしい。
そして次に、死の精霊も言っていた「忘却の泉」へ行く。泉の精霊は、ぼんやりとマイペースな女性で、テオドアに〝生前の記憶を軽く忘れる〟泉の水を勧めてきた。
『冥界の神』から事情を聞くと、素直に引っ込めていたが。
「ここで、すべての記憶を忘れさせるわけではないんですね」
「……ぜんぶ忘れてしまうと……裁きの間で、罪を自覚できなかったりするから……」
「ああ……身に覚えのない罪で裁かれるのは、嫌ですよね」
「うん、そう……」
短い間の滞在だったが、泉の精霊はテオドアをいたく気に入ったらしく、「お土産に」と小瓶に入った泉の水を贈られた。
……やはり、これを飲むと記憶が消えるのだろうか?
貰って嬉しい、より困惑が勝り、テオドアは微妙な気持ちで受け取りつつお礼を言った。その姿に、『冥界』は含み笑いをする。
「いたく気に入られたようだな。やはり、会話を打ち切らずに根気強く付き合ってやったのが、かの精霊には響いたようだ」
「ええ? 会話を打ち切るって、そんなことをする方がいらっしゃるんですか?」
「そ、そ、そいつ、他のやつと、喋る速さが違うからな。だから、め、面倒になるやつも、いるんだろ」
何故か、しれっとついて来ている『予言』は、ぼそぼそと呟いた。
そうして、次に。魂を集めて『冥界の神』のもとへ連れて行く、『安寧の女神』のところにやって来た。
冥界には似つかわしくない、とても牧歌的な家だった。牧場が裏にあり、冥界の動物らしきものが穏やかに草を食んでいる。
作業に従事しているのは、どう見てもテオドアと同じような、死者の魂たちだった。
「あら。あらあら、まあまあ。今日だったのね!」
巻角の牛から乳を絞っていた女性は、テオドアたちを見て驚いたように立ち上がる。
麦わらでできた帽子を被り、質素な作業服を着ている彼女からは、どことなく家庭的な雰囲気を感じた。手袋をその場に脱ぎ捨て、小走りで駆け寄ってくると、何を言うよりも先にテオドアを抱き締めた。
「ああ、お久しぶりだわ! こんなに疲弊した魂になってしまって。もう地上のことなんか忘れて、ずーっとここにいても良いのよ!」
「お、お久しぶり、って?」
一切の遠慮なく抱きつかれたので、何というか、当たっている。もう息をしていないのに、なんとなく息苦しい気がした。
彼女は――おそらく『安寧の女神』なのだろう――テオドアの顔をまじまじと覗き込んで笑った。
「そうよ、可愛い子。わたしの家に来たのは、これで二度目でしょう? 覚えていないの?」
「ええと、……すみません。初めてお会いしたと思うのですが……」
「『安寧』、残念なことだが」
戸惑うテオドアを見かねたか、『冥界』がそっと言葉を添えた。
「前世のことは覚えているようだが、死んだ後のことは記憶に無いらしい。おそらく、手順通りに冥界へ降りて来てしまったからだろう」
「ああ、ああ。そうね。そうだったわ――あのときは、あなたのところへ行く前に、地上へ帰したのよね。だから、いくつかの記憶が抜け落ちているのね」
「あの……仰っている意味が、よく分からないのですが……」
こちらを置いてけぼりにして話を進める彼らに、恐る恐る声を上げる。
テオドアが前世を覚えている、ということが知れ渡っているのは、驚きはしたが予想の範疇だ。
でも、ここに来るのが二度目とは、いったいどういうことだろう?
『安寧の女神』は、ようやくテオドアを解放してから、大きく腕を広げた。
「そう、それこそがお話の要よ。『最高神』が復活しかけていることは、そちらの『冥界』ちゃんや『予言』ちゃんに聞いているわね?」
「はい」
「わたしたち冥界に住まう神は、それを阻止したいと思っているの。そのための心強い味方が、あなた」
そう言いながら、テオドアの頬に片手を置き、滑るように肩へと移動させる。
テオドアは視線を地面に落とし、慎重に言葉を選んで、問うた。
「……いったい、僕が、なにをするんですか?」
「それを説明するには、少しだけ、昔話が必要ね。あなたも――後ろの二人も。どうぞ家に上がって」
三人を促し、彼女は牛のもとへ駆け戻って、桶と手袋を持ってきた。質素な木の家まで先に立って案内しながら、話を続ける。
あなたが前世の記憶を持っているのには、訳があるの。
――『魂の女神』ちゃんがね。冥界に来て、泉の水まで飲んだあなたを、地上に帰すって言ったのよ。