158.冥界に住まう神々
テオドアと『冥界の神』を引き合わせた後。『魂の女神』は、軽やかに、暗い雰囲気の川辺を駆け戻っていった。
途中で寄り道して飛んだり跳ねたり、川に足を浸して空を仰いだり、道端の石ころに興味を示してみたり。舞台役者と無邪気な子どもを同居させたような振る舞いだ。
彼女には彼女なりの、独自の世界観があるのだろう。テオドアがそう納得しながら見送っていると、『冥界の神』は言った。
「あの女神は、腐れ縁のわしにも掴みきれん。大まかな人格と言おうか、必要最低限の常識は備わっているようだが……具体的な思考は、ひとつとして分かった試しがない」
明確に理解できる意思を示したのは、今回を入れて三度目だな。
『冥界の神』は、厳かな声音に苦笑を交えて続ける。
「故に、あれを母に持つペレミアナは、苦労しただろうよ。そも、あれが子を産む意向を示すとは思わなかった。母親候補には、魂の橋渡しをする『安寧の女神』を見繕っていたのだ」
「……あのお方は、昔からあのような?」
もう門は越えたが、なんとなく黙り込んだままだったテオドアは、そっと口を挟んだ。何気に、魂だけになってから初めての発語である。
振り向くと、『冥界の神』は髭を触りながら、「そうだとも」と頷いた。
「魂とは、あらゆる可能性を秘めるもの。環境や行動によって自在に性質を変える。それを体現したのがあの女神だ。時に無邪気で時に老獪である。掴みどころがないのが正しいのだろう」
付いてきなさい、と『冥界の神』は身を翻した。
館の中は、テオドアの周囲にはないようなものばかりが置かれていた。動物の剥製だったり、魔石の展示だったり、誰が作ったのかも分からない怪しげな装飾品だったり――冥界という場も相まって、なんとなくおどろおどろしい雰囲気を感じてしまう。
テオドアが興味深く内装を見渡しているのに気が付いたか、『冥界の神』は前を向いたまま言った。
「わしは地上には出られない。故に、これら地上のものは珍しくてな、ついつい集めてしまう。……冥界の者は、業務で必要な場合を除き、地界にも天界にも干渉してはならん決まりだ」
「……『不和の女神』さまに警告を託したのも、そのためですか?」
すると、彼は意外そうに、少し顔をこちらへ向けた。
「あの女神が誰か知っているのか。その通りだ。冥界には十数の神がいるが……ああ、そのほとんどが『特別居住地』にも赴けん。自由に動けるのは『不和の女神』と『予言の神』……だが、『予言』のほうは、問題を抱えていてな」
「問題?」
「まあなんだ、極度の出不精だ。理由は切実だぞ。他者と接すると、見たくもない未来を見てしまうのだと。最悪はその場で動けなくなるらしい。予言の力も難儀なものよな」
「それで、『不和の女神』に……」
「かの女神にも問題はあるが、支障なく動けるのは彼女しかいなかった」
話しながら、『冥界の神』はテオドアを館の裏庭に案内した。
冥界の植物は、どうにも地上の者には恐ろしげに見える。魔物の爪のような形の花や、血を吸ったように赤い実を抱えた低木など、眺めても心が休まる気がしない。
しかし、空気の読めるテオドアは、清々しく深呼吸する『冥界の神』に何も言わなかった。これが彼らの常識なのだろうと思ったからだ。
手持ち無沙汰に、明らかに鱗粉ではないものを撒く黒蝶を目で追っていると――ふと、視界の端に、うずくまる何かを捉えた。
「彼」は、地上の貴族服を身にまとっている。ずいぶんとくたびれた生地だが、間違いない。そして、そんな貴族服の男が、大きな身体を縮めて膝を抱え、低木の陰からこちらを覗いているのだ。
不審なんてものではない。
目が合うと、あからさまに慌てて逃げようとして、足をもつれさせて転んでいた。
「……何をやっている、『予言の神』」
音で気が付いた『冥界の神』も、呆れ顔で溜め息を吐いた。盛大に転んだ『予言の神』が、真っ赤になって立ち上がった。
「う、うるさい。急に、め、目が合うのが悪い」
「えっ、僕のせいですか?」
「おれは、そ、そ、そんなに人間と、関わらない。は、配慮してくれても、良いだろ」
理不尽なことを言う神だが、不思議なことに、あまり腹が立たない。こちらを貶める意思が無いからだろうか。
彼はしばらく、羞恥に耐えている様子だったが、急に思い立ったようにずかずかと歩いてきた。
そうして、今度は顔を近づけて覗き込んで来る。人と接する機会が少ないので、きっと距離感が掴めないのだろう。「冥界にいる神さまは一癖あるお方が多いな」と思いながら、テオドアはさりげなく距離を取った。
避けられたことを気にしたふうもなく、『予言の神』はボソボソと言う。
「……おまえ、な、なにをやった? 視えない。いや、む、無数の、未来が見える。ふ、ふ、普通の人間だったら、せいぜい、十数個くらいしか、み、見えないのに」
「ええと……」
『魂の女神』とは違う意味で、言われている意味が分からず、テオドアは助けを求めて『冥界の神』を見上げる。
『冥界の神』は、再び深い溜め息を吐いた。
「あまり一人で話を進めるな。戸惑っているのが分からないのか」
「あ、ああ、わ、悪かった」
素直に退いた『予言』に頷き、『冥界』はテオドアに向き直った。
「とは言え、多くを説明していないのはわしも同じだ。お前には数多の疑問があるだろう」
「はい」
どうして、テオドアが死ぬと分かっていたのか。
冥界へ降りる際、あんなに条件をつけたのは何故か。
自分の死体はどうなったのか。みんなの安否は。地上はどうなっている。「世界が動乱を迎える」とは、どう言う意味なのか。
そして――自分はこれから、どうなってしまうのか。
何から問うていいのか、いっぺんに口に出せずにもどかしく思っていると、『予言』が先に話し始めた。
「お、お、おまえが昨日死ぬところまでは、はっきりとした未来として、お、おれが予言、した。さ、最初は、十四で死ぬ、運命だったのに、二年も延び、延びたのは、奇跡だった」
「十四……〝依代〟になってすぐ、僕は死ぬ予定だったんですね」
「そ、そ、そうだ。あのヴェルタの、第二王子。あいつが、二年早く、おまえを殺すはずだった」
テオドアは、反射的に『予言』の顔を見た。
予言によって驚かれるのは、もう慣れているのだろう。彼は動揺せずに、話を続ける。
「ち、『秩序の女神』の計画は、本当は、もっと早かった。おまえが、〝依代〟として、天界に上がってから。手引きして連れ込んだ、お、王子を使って、おまえを殺させる。おれが、おまえの父親を見たとき、み、見えた未来が、それだ」
「僕の父……元ヴィンテリオ公爵を見たときに?」
「この男は、生まれていない者の未来を見る時がある。おそらくそれだろう」
と、『冥界』がさりげなく補足した。
『予言』は、忙しなく視線をうろつかせ、落ち着きなく指を組んだり離したりする。もしかすると、長く話すことも慣れていないのかもしれない。
「で、でも、生まれてきたおまえは、いろんなところで、す、少しずつ未来を変えていった。本当に、些細なこと。例えるなら、しょ、食事をするとき、に、に、肉から食べるか野菜から食べるか、それくらいの違いだ」
「それは、些細ですね」
「まさか、女神を、四人も娶るまで、な、成り上がるとは思わなかった」
ここで、『予言』はにやりと笑った。
陰気な顔が切り開かれたかのように、大きな口が吊り上がって鋭い歯が覗く。
あまりにも凶悪な風貌なので、テオドアは直視しないよう、密かに喉元へ目の焦点をずらした。
「だから、だいぶ、め、面倒なことになっている。あいつらの準備期間も、二年、の、の、延びたからな」
「あいつら……?」
「い、言っただろ。『秩序の女神』と、それに協力する神とか、人間とかだ。あんまり、ま、まとまってないけど」
テオドアは、逸る気持ちを抑えつつ、「その人たちは、いったい何がしたいんですか?」と問う。
『予言』は、変わらぬ調子で返した。
「……し、死んだ『最高神』の、復活。で、世界を、一新しようと、してる」